新人事制度 大阪での報告①~③
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西津橋から[福喜旅館]に歩いて向かう途中、雲浜という地名があった。小浜藩士で、幕末、あの安政の大獄に遭って獄死した梅田雲浜はこのあたりの出身なのだろう。 翌朝、小浜駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながら、喫茶店の女主人に土地のことをあれこれ聞く。小浜は現在は人口わずか三万余の小さな町だが歴史は古い。大陸と京都を結ぶ中間点にあり、大和朝廷にとっては海の玄関であった。江戸時代は北前船の中継基地として栄えたことは前夜の宿で実地見学したばかり。だから人材はたくさん出ているのである。梅田雲浜も、そのひとり。 「どうも司馬遼太郎さんの小説なんかでは雲浜はあまりいい役を振られないけれど、歴史家によっては吉田松陰より偉いと評価する人もいますよ」 ちょっと知ったかぶりをして酔流亭が女主人に話した、その歴史家とは服部之総のこと。 写真の下に、服部の著作『近代日本のなりたち』から雲浜について語っているところを引いておこう。この本は、服部之総が1947年に東大で行った連続講義を筆記したものだから、文章も口語調になっている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「梅田雲浜が非常な貧乏であったことは『妻は病床に臥し、子は飢えに泣く』という詩でもわかるが、これが4~5年も経つと急にりっぱになって、長州の客、大和の客、と出入りも多く、客が来ると祇園町から芸者なども呼びよせて酒宴をする」 「これは長州から金がきていたのではなかった。彼がそういう政治資金を何処からどうして取って来たかというと、彼の門人の中には、京都あるいは江州、あるいは大和、そういった各地方のブルジョアジーがいて、そのブルジョア的な門弟達が発案して、たとえば大和の物産を京都にもって来て売りさばく。京都の物資を買い集めて大和にもっていって売りさばく。ところが当時はそれは問屋を通じてしなければならない。それを直接にヤミでやる。そのヤミのルートを雲浜先生につけてもらう。・・・雲浜先生にはいろいろなお弟子さんが沢山あるから、頼まれると、よろしいというので、若州の家老のところに、あるいは長州の家老のところに出かけて行く。直接談判で話をつける。自分の若狭藩の物産方に話をつける。こういうふうにして、幕府の260年の間の決めてある問屋を通じての取引をやらないで、自由貿易をやる。国内市場の自由な発達の通路をつくってやる。この仕事をはじめたのである。そこで一昨日の貧乏人が急に立派になった。政治資金が出来て運動も大規模になる。長州に商談を兼ねて乗り込む。そうすると吉田松陰は潔癖家だから、さしむき河上肇先生みたいである。凡そ銭かねのことは不案内、天下国家のことしか眼中にない。こういう人から見ると、どうも雲浜という人はおもしろくない。雲浜はヤミ商人のようである。それで松蔭が江戸の牢に入れられて、牢の中で雲浜とすれ違ったとしてもーすれ違ったかどうか知らぬがー鼻汁もひっかけない。そうして取調べの席において、雲浜というものは信用できない。あれは商売人だ。到底国事を共にするということはできない。だから自分は雲浜と連絡はありっこないといって頑張る。けれども政治家としてみるならば雲浜という人間のほうが偉かった。・・・現実に雲浜は幕末尊王運動の組織者で、その組織運動ということにおいては松蔭は雲浜の比ではない。・・・雲浜によって組織されたこの種の産商業家の組織が一つの政治的経済的な地下組織となって、雲浜処刑後の、あの安政の大獄直後の猛烈な反動の嵐の中にビクともせず残っていた」 (服部之総『近代日本のなりたち』) (梅田雲浜の話はここまで。紀行はまだ続きます)
by suiryutei
| 2008-12-11 11:14
| 旅行
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Comments(2)
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by
獺池入道
at 2008-12-14 21:07
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久々にお邪魔します。
所属していた大学合唱団が毎年7月に小中学校を回る活動をしていたのですけれども、ある年に若狭を回るスケジュールの中で「小浜市立雲浜小学校」(港のそばだったと記憶しています)で演奏したことを思い起こしました。メンバーの誰一人として学校の名を読めず(大学生が60人もいて)、渉外係の学校との打ち合わせで読み方を知ったのですが、それ以後「ウンピン」の独特のリズム感が印象的に思えたんですよね。さらに後になって高校生の家庭教師をするようになって梅田雲浜を知ることとなってようやく得心が行った次第だったのですけど。 「♪ああ、雲浜の私等も」の校歌の歌詞はそう考えるとかなり大胆な内容にみえますな。
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suiryutei at 2008-12-14 21:49
獺池入道さん、こんばんは。お久しぶりです。
私も「ウンビン」だったか「ビンウン」だったか曖昧で、宿の女将さんに話したときは「ビンウン」としゃべって「ああ、ウンビンさん」と訂正されました。 大学では合唱団にいらしたのですか。それで若狭へも。いいなあ。
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