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労働者文学会では年二回発行される雑誌『労働者文学』の他に、会員間の『通信』が二か月に一回くらい発行され、会の行事や会員の消息などを伝える。 http://rohbun.ciao.jp/page1.html この『通信』に<作品リレー>というコーナーがあって好きなことを自由に書かせてくれる。最新の『通信』に寄稿した文章を転写します。論点は雑誌『労働者文学』の第80号と81号に掲載された作品の評価に関わるので、同誌を購読していないとわかりづらいと思いますが・・・。 感謝と不満とー小林孝吉さんへー 『労働者文学』第八一号に小林孝吉さんが『人間の声と未来への文学―「労働者文学」80号から』と題する文章を寄せられ、同誌八〇号に掲載された作品のいくつかについて論評された。 『君が代アリラン』をめぐって その八〇号が特集とした<短編競作>八編のうち、とくに黄英治さんの『君が代アリラン』を高く評価されたことには私もまったく同感だ。しかし、次のように書かれていることには疑問を持つ。 「・・・いつか、日本の在日歌手・玄美星=Be-Songの歌う<君が代アリラン>には、戦争の記憶を超えて、未来への希望とともに、日本人でも、朝鮮人でも、在日でもない、<人間の声>が響くであろう」(七一ページ) この記述に私が疑問を持つのは、そのように歌われる資格は君が代という歌には無いと考えるからだ。あの歌は、作中で美星の父・光五と母・福寿が君が代を歌うという娘を思いとどまらそうと説得すべく述べていたように、侵略と差別の歌である。朝鮮の人びとの魂の調べであろうアリランとして歌われるような歌ではない。 しかし、両親がいかに必死に説こうと、また両親の言うことの正しさを美星も内心では充分承知しているにもかかわらず、美星は君が代を歌うだろう。彼女には夢があるからである。それは 「・・・もっともっとメジャーになって、日本武道館のリサイタルのアンコールでは、バリバリのロックンロールの後に早変わりで、朝鮮学校の白のチョゴリ、紺のチマの制服になって、アリランを歌うんだって、ね。チマチョゴリの制服だけでなく、日本の街なかから消えてしまったチマチョゴリの朝鮮女性が安全に、自由に歩けるようにしたい。だから歌いたい、歌うって」(『労文』八〇号一二ページ) いま書き写しているときもそうだが、このくだりは何度読んでも涙が出てきそうになる。そんなふうに彼女がアリランを歌える日が来たらいいなと思う。しかし君が代はどうか。彼女があの恥ずべき歌を歌う(歌わされる)として、それは前記した夢に近づくための方便であり妥協だ。それが踏み絵を踏まされることであることも美星はわかっている(「これは業界の、一種の踏み絵なの」同一一ページ)。そんなふうに踏み絵を何度も踏まされていくうち、初めのほうに出てきた在日知識人・Kのような位置に彼女は押しやられていくだろうことは作中に暗示されているようにも思う。K(姜尚中氏がモデルか)はTVの報道番組にコメンテーターとして登場し、何の躊躇いもなく天皇陛下と淀みなく述べることで「在日のKに、天皇制を全肯定させて、その上で日本リベラル主流の立場を代弁させる」(五ページ)権力側の思惑に乗ってしまっている。 作は「いつかあたしが歌う、かもしれない、君が代アリラン!」と結ばれる。「歌う」と「君が代アリラン」の間に挿入される「かもしれない」という躊躇(ためら)うような一語から限りなく重たいものを私は感じざるをえないのだ。この躊躇いをすっと飛ばして「在日歌手・玄美星=Be-Songの歌う<君が代アリラン>」と滑らかに繋げてしまってはならないのではなかろうか。 『職場を去る』で書きたかったこと 小林さんはまた、八一号の短編競作特集に載った、黄作品以外の七編についても論評され、そこには私が書いた『職場を去る』も対象に含まれている。 感謝するとともに不満もある。不満は、主人公・平原が最後の泊まり勤務のとき職場で遭遇した、高橋と松永の諍いについて全く触れていないことだ。今日の労働現場の問題を凝縮するエピソードであるがゆえに、主人公・平原に直接かかわることではないにもかかわらず私はこれを書かずにはいられなかったのだが。 四〇歳の高橋は大学を出て三五歳まで一〇年以上も非正規雇用だった。半年ごとに契約を更新する有期雇用である。地域の最低賃金をわずかに上回るくらいの基本給に加えられるのはこれもまたわずかなスキル評価加算給だけ。正規雇用に顎で使われるようにして単調な重筋労働をやってきた。それが六年ほど前、正規への登用試験に受かった。ところが民営化をめぐって経営がジグザグした日本郵政では正規登用は高橋たちの後また止まってしまった。最近ようやく細々と登用の道が開かれるようになったけれど、そうして登用されたのはいわゆる名ばかり正社員。雇用こそ有期から無期に変わったものの賃金などは非正規だった頃といくらも違わない。こうなると六年前の高橋たちはかなり特別な存在になる。「運よく掬い上げられた少数」である以上、それだけの働きをしなければ、と。そんな高橋は、非正規雇用の苦労も知らず、初めから正規で採用されノラリクラリと定年までなんとか逃げ切ればいいかのような五二歳の松永が許せない。松永は松永で年々衰えていく自分の体力と過酷さを増す労働環境との逆ザヤ状態にあって辛いのだが。 ここに出てくるのは、非正規雇用労働者が低賃金で使い捨てられることと背中合わせの、正規雇用労働者の極端な精鋭化=働きすぎの問題である。東電社員・高橋まつりさんの過労死と直結するのだが、元々は非正規つまりノン・エリートだった高橋が正規登用されたことでそういう位置に立ってしまったところがいりくんでいる。 正規と非正規のあまりの待遇格差についてはよく言われるようになってきた。それを解消するとして非正規から正規への登用もまだ少ないけれども行なわれるようになったし、非正規と従来の正規とのあいだに中間的な「限定正社員」というものを置くという方向が政府の「働き方改革」の中で議論されてもきた。けれどもそれらは、状況を改善するより、むしろ働く者へのいっそうの鞭となる場合が少なくないのだ。 じつは、一年ほど前だが、これらのことを小説に書いてみたいと思って書き始めた。ところが叙述がどうしても状況説明的になってしまう。創作としてこなれない。その原稿は中断したまま私のパソコンの中に眠っている。『職場を去る』の後半が自分史的に流れて行ったのも同じ理由からだ。だから自分史みたいな記述ばかりやっていてはダメだと言う小林さんの叱正は肝に銘じよう。だが「ほんとうに書きたいものが見えてこない」という評は納得できない。自分の資質の乏しさ・技量の未熟ことに構成のまずさが読みとりにくくしてしまったことは棚に上げて言うけれど、見えてこないのではなく見落とされたのではないか。
by suiryutei
| 2017-08-17 16:47
| 文学・書評
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