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朝日新聞の『文芸時評』は現在、加藤典洋氏が執筆しているが、昨日(25日)の朝刊に載ったそれは、冒頭で丸谷才一氏の新刊『袖のボタン』に言及している。この春まで丸谷さんが朝日に月一で連載していたコラムを単行本にしたものである。 「これほどほぼ全編、読みごたえのある新聞コラム集というのも珍しい」と加藤氏は述べ、ことに日本海軍の伝統というか悪習にふれた『守るも攻むるも』という一編を「その視野の『広さ』、さらに『深さ』に目を奪われた。新聞コラムの真骨頂とは、このようなものか」と絶賛する。 酔流亭も丸谷さんのあの連載エッセーを読むのを毎月たのしみにしていたし、『守るも攻むるも』については加藤さん同様、おおいに感心して拙ブログでも紹介した。だから、無名の一ブロガーが高名な文芸評論家に向かってこんなこと言うのはまことに生意気なのだけれど、「おっ、この先生(加藤氏)、なかなかいいとこ見ているじゃん」と、昨日の朝、新聞を開いて嬉しくなった。 さて、これはたまたま偶然なのだけれど、その前日(つまり今日からみると一昨日)、酔流亭は加藤典洋氏の最新の論考『戦後から遠く離れて』をざっと読んでいたところであった。地元の図書館で借りた月刊誌『論座』6月号に載っているのである。 この論は、「『敗戦後論』から10年」という副題が付いている。酔流亭はその『敗戦後論』を読んでいない。それで加藤氏の論に何か言うのは無茶な気もする。しかし加藤氏の議論は興味深いと同時に、かなり杜撰なものでもあるように感じた。 加藤氏は現在の憲法の内容は評価されているようだ。しかし、制定過程での「占領軍による押し付け」を重視する。その押し付けられたという出自のために憲法は今だ日本国民自身のものになっていないとする。憲法は立派なだけでなく、「恥ずかしい」ところがある、と。 そこで10年前の『敗戦後論』では「憲法の選びなおし」を提唱したけれど、現在はむしろ「恥ずかしい」ままに、この憲法(というか現在の状況)を引き受けようと考えているようである。「・・つまり、一方にやや空文化した『憲法9条』があり、他方に日米同盟と自衛隊がある。この相すくみの欺瞞的な『ねじれ』状態のままが、現在の日本国民の大半の人々の不安と願いにもっともよく応える道であることを示すことが、いわば現時点で、憲法9条に対するもっとも正しい対し方であり・・・」(51ページ)。 つまり、安倍内閣が目指しているような「改憲」の動きにも賛成しないけれど、日本列島に存在する強大な軍事力もこのままでよいと考えているようだ。 酔流亭の異論は、まず現在の憲法、ことに9条は、加藤氏が言うほど「恥ずかしい」ものであるかということだ。 「憲法9条を客観的に眺めるなら、そもそも戦後憲法における戦争の放棄というものが、占領軍の駐留、戦後の日米同盟(日米安全保障条約)、それに基づく日本列島への米軍の残置とコミの形で、存在してきた」(37ページ)。 これは加藤氏が言われるとおりだ。しかし、ならば、恥ずかしいのは憲法そのものではなく、そのような戦後日本の歩みのほうではなかろうか。 これは同じ事態の言い方を変えただけのように聞こえるかもしれないけれど、そうでもない。 恥ずかしいのが憲法なのであれば、それに処する道は、憲法を選びなおして、その「汚れを清める」か、あるいは安倍政権の「改憲」路線と自己を区別したければ「恥ずかしい」ままに現状を受け入れる他ない。 酔流亭が恥ずかしさを感じるのは、憲法に対してではなく、その憲法を生かしてこなかったことにである。日米安保ー冷戦構造に安易に乗っかり、自らは緊張緩和を進める努力を怠ってきた、そのことだ。軍事同盟や自衛隊の強化への対案とは、加藤氏がいささか揶揄的に描くような「丸腰になって、攻めてきた敵には無条件降伏する」ことだけだろうか。 アジアに緊張緩和を導き入れることによって、この地に存在する巨大な軍事力(日米同盟のそれも中国や北朝鮮のそれも)の削減を進めることは充分に可能だ。なるほどそれを実現したところで日米安保がただちに「破棄」されるわけではないし、「西側同盟」の巨大な一員となった日本が今さら「非武装中立」になどなるわけがない。しかし、それでも、その先には軍事ブロックを非軍事的な協力機構に徐々に組み替えていく展望は開けよう。NATOと全欧安保が並立するヨーロッパのように。 憲法9条は、そのための「武器」にならないだろうか。 そして、かつてアジアで侵略戦争の暴威をふるった日本としては、せめてそれくらいはやらぬかぎりアジアからの視線にいずれ耐えられなくなるだろう。「他の国が攻めてきたら、どうする?」という被害者としての視点だけで語る議論の内向きさに、我々はいい加減気づかなくてはならないのではないか。
by suiryutei
| 2007-07-26 11:24
| 文学・書評
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Comments(2)
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by
Fou
at 2007-07-27 03:29
x
日本国憲法第九条と前文に関して「恥ずかしい」と言うとしたら、現代史の中で先端を行くこの先進的な価値についての認識を国民社会として維持できなかったことではないでしょうか。
変な喩えかとは思いますが、優れた美術品を所有しているとして、「他人からもらったものだから」とか「自分で作ったものではないので」という理由からそれを棄てたり、自前のものを作ろうとするでしょうか。 憲法制定当時の国民的な歓びと決意を維持できたなら、安保によってアメリカの核の傘の下に身を寄せることなど不要なこととしてアメリカのお誘いを謝辞して、平和外交に徹する国として国際社会に威厳ある存在となれたであろうのに。 と、思いませんか。
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by
suiryutei at 2007-07-27 13:52
Fouさん、こんにちは。今日は暑いですね。
その喩えはうまいですね。私もそう思います。 それに、制定過程でGHQの強力が介在したのは事実にしても、現憲法には明治の自由民権運動期に民間で作られた私擬憲法案が反映しています。だから、よく誇張して言われるように「海の向こうから持ってきた」というわけではない。 すでに明治に、日本の民衆自身が優れた憲法案を作っていたこと、それが戦後息を吹き返したことを、私たちは恥ずかしがるどころか誇っていいはずです。 しかし、そんな憲法を充分使いきれないで今日まで来てしまったことは、本当にもったいないことでした。
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