新人事制度 大阪での報告①~③
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『坂の上の雲』の時代 さて第一巻ですが、色んなエピソードをちりばめながら、子規は東大に進み、真之は東大予備門をやめて士官学校に入り、そこを首席で卒業するあたりまでです。時代にして明治20年代のなかばまで。子規はすでに喀血を経験していますが、まだ寝たきりになるまではいっていない。新聞「日本」に入社する前です。内容は読んでのとおりなので、その中で私が気づいた箇所だけいくつか挙げておきたい。 まず秋山兄弟のあいだでの興味深い会話が195ページに載っています。このとき弟の真之は大学予備門の学生なので10代の終わりごろです。兄の好古は、もう陸軍の騎兵士官になっている。 真之がこう質問するのです。「人間とは、どう生きればよいのでしょう?」。 これに対して好古はこう答えます。「わしは日本陸軍騎兵大意秋山好古という者で、残念ながら漠然とした人間ではない」。 この小説の世界のひとつの雰囲気、あるいは明治のその当時の時代というものがよく現れているように思います。色川先生とも縁の深い服部之総という歴史家がいましたね。羽仁五郎とともに維新史研究のパイオニアです。この人は明治維新の期間というものを非常に長くとって、1853年のペリー来航から1890年(明治23年)の明治憲法発効までを維新変革の進行する時期と規定しています。それにならえば、上記の会話が行われた頃、明治10年代の終わりというのは、変革期がそろそろ終わり、明治の国家体制が固まってきた時期です。そのときに秋山好古は、その国家体制の中の自分の持ち場でどう生きるかしか考えられないと述べているのです。 幕末から戊辰戦争、そして明治10年代の自由民権運動の高揚期であったなら、歴史小説の主人公たちは日本という国をどうするかでスッタモンダしたはずです。しかし『坂の上の雲』の主人公のひとりは、形成された国家体制の中で専門家として生きていこうとしている。そして彼らはやがて日露戦争に勝つというテーマだけに自分の全身全霊を打ち込んで行くことになる。じつは、この小説を通勤電車の中などで熱心に読んだ人たちー高度成長期の企業社会の一員となった団塊世代は、こういうところにも共感したのではないか。世の中をどうするかということより、就職した企業の中の自分の持ち場でいかに能力を発揮するかということが高度成長期のサラリーマンにとっての最大の関心事だったでしょうから。 国民国家と絶対主義 もう一点。「真之」という章の冒頭ですが、こんなふうに書かれています。75ページです。 「・・明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった士族しかいなかった」。 この認識は正確でしょうか。もし正確だったなら、司馬さんののちの著書『菜の花の沖』が書かれることはなかったはずです。『菜の花の沖』では、幕末の日本列島に農業だけではなく様々な産業が自生していったことが描かれている。各地に特産品が生まれています。代表的なのは灘・伏見の酒造業、西陣や桐生の織物業でしょう。産業革命の前ですから大工業はもちろんまだありませんが、マニファクチュアくらいの規模にはなっている。その活発な産業活動の上に列島をめぐる交易航路が活性化するのです。そして、あの小説の主人公・高田屋嘉兵衛は船乗りであって士族ではありませんが、日本国をいわば代表してロシアと交渉している。人材は士族しかいなかったなんてことはありえません。 そして幕藩体制の胎内に資本主義経済が孕まれていったことが市民層を成長させます。「フォーラム」の先月のフィールドワークでは明治村のあと馬籠と妻籠に行ったのですが、妻籠の脇本陣を勤めた林家の屋敷を見学しました。この家は幕末から昭和の初めまで造り酒屋をやっていた。つまり富農であるとともに醸造業を営むブルジョアジーでもあった。ということは他方では、貧農であるとともに、このブルジョワジーに雇われるプロレタリアを兼ねる人たちも生まれていたということです。こうして農村にも賃労働と資本の関係が生まれ、資本主義経済が成長していく。 そのブルジョワジーたちは流通の自由と統一市場の形成を求めて封建的割拠の打破を要求することになります。それが明治維新でした。黒船による外圧ということもあるけれど、それだけで世の中がひっくりかえったのではない。幕藩体制の内部矛盾が熟していたのです。そして、それまでの封建勢力、それは旧大名や公卿から転じた華族とかですが、この旧勢力と、成長しつつある市民層の均衡の上に明治の絶対主義が成立する。旧勢力は新興の市民階級をもう抑えきれないし、市民階級も単独ではまだ権力を取れない。いっぽう、幕末から明治初めにかけては一揆と打ち壊しが激増しています。これを抑えるためにも強い権力が求められる。近代日本ではそれは天皇制という形で出現しました。 ところが司馬さんは絶対主義という言葉は絶対に使いませんね。絶対主義のかわりに国民国家という言葉を使います。しかし国民国家は絶対主義の成立を通じて形成されるのです。イギリスでもフランスでも絶対主義の段階で封建的割拠が打ち破られて中央集権が達成され統一国家が出来る。この段階で国民がほぼ形成されるといっていい。そして国民の上に乗っかっている王制を市民革命によって除去すれば国民国家の完成となる。 明治の日本にも市民革命を目指す動きはありました。明治10年代の自由民権運動です。けれども、この革命は結局つぶされてしまう。そうして、その上に明治の絶対主義が完成した。この絶対主義は国内の民衆に対しては凶暴なものだったしアジアに対しては侵略的だった。司馬さんはここをちゃんと見ていないと思う。ロシアからの圧迫(それは事実あったと思いますが)を受ける存在としてだけ明治国家を捉えている。じつは日本もまた朝鮮や中国に対して侵略の牙を砥いでいたのは先ほどの中野好夫の文章でも明らかです。 いや幕末の日本社会に資本主義経済がかなり孕まれていたということは司馬さんはわかっているのです。後期のエッセイではそれをちゃんと書いているし、近代化に踏み出すにあたっての日本と朝鮮の違いとして商品経済の発展に差があったということも知っている。それでも絶対主義というものは飛ばしてしまって明治維新と明治憲法の発効で国民国家や立憲主義が完成したと解釈するのは、やはり天皇制のことがあるからだと思う。絶対主義を認めてしまっては、この前の戦争のとき、その頂点にいた天皇の戦争責任の問題が出てきますから。だから明治憲法における天皇の存在をできるだけ小さなものにしておきたい。これはじつは司馬さんに限らず、美濃部達吉とか津田左右吉とか、いわゆるオールドリベラリストといわれる人たちに共通する姿勢です。民衆のあいだに天皇に対する崇拝があるとき、天皇を批判すれば民衆から孤立するという恐れがある。しかし、それでは正岡子規のリアリズム、事実を正確に見るという態度に背くことにならないか。 最後にもう一度、服部之総の話を出します。この人は1956年に死んでいるのですが、死の4年前に福島大学で行った有名な講演があります。「マニュファクチュア論争についての所感」と題されたもので、戦前の例の日本資本主義論争について回顧している。その最後に、明治10年代の自由民権運動に触れて、この運動が敗北して天皇制絶対主義の成立を許したことが、のちの日中戦争と太平洋戦争の大犠牲につながったと述べています。明治における近代天皇制の成立と、昭和前期の軍国主義・ファシズムとの間には内面的つながりがあるということです。『坂の上の雲』の作者が避けて通ったのは、この点ではなかったでしょうか。 (完) ※関連する過去ログとして ☆『明治憲法の“二重構造”~司馬遼太郎をめぐって』(08年3月29日)
by suiryutei
| 2008-10-21 21:40
| 文学・書評
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Comments(2)
司馬遼太郎は絶対主義天皇制やアジアへの侵略、つまり暗い明治を書かず明るい明治を書いた。しかし、それはそれでいいのではないか、とも思います。
藤沢周平は司馬さんほどには社会批判をしなかった。しかし、それはそれでいい、のと同じことだと思います。
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suiryutei at 2008-10-22 23:22
きとらさん、こんばんは。
おっしゃるとおりです。私もこの小説家を全面的に否定するものではないことは、おわかりいただけると思います。この報告の最後は、いくらか批判のトーンが強くなりはしましたが。 むしろ司馬遼太郎について自分なりの発見がいくつかありました。
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