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5日の朝日新聞朝刊の文化欄に書いてあったことだが、大江健三郎と村上春樹の近似性について加藤典洋氏が論じているらしい(加藤『大江と村上と20年』朝日新聞出版)。 大江健三郎氏の読者でもハルキストでもなく、また文芸評論家・加藤典洋氏にもあまり好感を持っていない酔流亭だけれど、この記事にはちょっと興味を引かれた。 大江さんは、加藤氏によれば初期は「『能動的な姿勢』への懐疑、抵抗を足場に小説世界を成立させて」いたが、広島の原爆を取材した『ヒロシマ・ノート』(65年)の前後から能動的姿勢に転じていった。 いっぽう村上春樹は能動的な姿勢への懐疑という点では一貫しているだろう。しかし、その村上さんも「意外なほどの深度で、初期から社会への関心に裏打ちされた作品を書いてきた」(加藤氏)。たとえば第一短編集に収められた『ニューヨーク炭鉱の悲劇』という作品には、「学生運動の『内ゲバ』に巻き込まれた人々を重ねている」。 言うまでもなく、権力とは非人間的なものである。アメリカ合衆国政府という国家権力はかつて、すでに勝敗の明らかになっている戦争であえて原子爆弾を使用して数十万人の非戦闘員の生命を奪った。戦後世界で自分の地位を強いものにしておくというだけの理由で。 だが、権力のそんな非人間性と闘ってきたはずの反体制の運動も、往々にして自らも非人間的存在に転落する。学生運動の内ゲバなんて、キャンパスで角材ふりまわして集団乱闘やってたうちはまだ児戯に毛の生えた程度だったのが、角材が鉄パイプに、さらにバールへとエスカレートした。ついには「天誅!」と叫んで人殺し合戦を始めたのである。党派間抗争が生む疑心暗鬼は、ときに無関係の学生を対立党派の「スパイ」と誤認したリンチ殺人まで起こした。村上春樹の小説『海辺のカフカ』では、佐伯さんの恋人はそんなふうにして命を落としている。あのエピソードは1972年11月8日に早稲田大学文学部の自治会室で起きた川口大三郎君殺害事件がモデルになっていることは明らかで、村上さんはそのころまだ早稲田文学部に在籍していた。つまり、変革を呼号する人間集団の非人間性を、村上さんは運動の内部ではないがかなり間近なところで目撃していたのだ。 実践家たちの「能動性」に対して彼が懐疑的なのは、それなりの理由があってのことである。 じつは酔流亭自身も「能動性」と「懐疑」のあいだを揺れているところがある。この新聞記事に興味を引かれたのも、おそらくそのためだろう。自らは人間的であることを失うことなく、非人間的なるものと闘い続けるのは、容易なことではない。もちろんそれを為してきた人はいるし、酔流亭も及ばずながらそれに倣いたいとは思っている。 ともあれ、加藤さんの論考そのものを読んでみないことには、わからない。いずれ目にすることがあれば、また改めて考えてみたいと思う。 ※関連する過去ログとして ☆『村上春樹「海辺のカフカ」再読』(08年7月29日)
by suiryutei
| 2009-02-10 08:51
| 文学・書評
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Comments(4)
私は「能動性」を否定するものではありません。
・・・が、そのベクトルが内へと向かった時、 あるいは俯瞰する視点を失った時に時として人間性を失います。 戦争然り、内ゲバ然り、そして暴力革命然りです。 ナチスも、旧大日本帝国も、カルト宗教も然りです。 理念と哲学がどこにあるのか、 何のための「能動性」なのかについて 常に自らを省みる姿勢が「能動性」と表裏一体だと思います。 そして何より異なる意見を暴力で封じ込めたり 口を閉ざすために(あるいは存在を邪魔に感じて) 命を奪うことは人間として絶対に許すことができない。 「正義」に定義がない以上それは理由にはなりません。 どんなにそのイデオロギーに同意し、共感しても どんなにその「能動性」を応援しても 暴力が起きた時点で私は糾弾しなければならない。 そう思うのです。
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suiryutei at 2009-02-11 09:17
風屋さん、おはようございます。
おっしゃることに、私もおおむね同感です。 そのことによってより大きな暴力を排除できるときに最小限の実力を行使する場合はありえるかと思いますが(私は昨日、チェ・ゲバラの映画を観てきたのですけれど、キューバの革命を、それが武力闘争で成就したという理由でもって否定することはできないと思います)、しかし今日ではそういうケースもきわめて限られると思います。90年前後の東欧革命が基本的には非暴力で遂行されたことはもっと評価されてよいと思うのです。 国家権力は本質的に暴力的なものですが、しかしその暴力がたやすくは発動できない力関係が作られつつあります。ドイツの哲学者ハーバーマスが言うところの「国家と社会の立憲化」の進行です。その方向を強めていきたいと思うのです。
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tak-shonai
at 2009-02-12 16:22
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加藤典洋氏の論点の詳細までが不明なので、あまりどうこう言えませんが、あるいは無意識のうちに、「能動性」 を (他社に対する) 「攻撃性」、「懐疑」 を、(それに対する) 「抵抗」 と読み換えてしまいかねないことには、注意を払いたいと思います。
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suiryutei at 2009-02-12 21:44
takさん、こんばんは。
私も加藤典洋氏の文章そのものを読んでおらず、あの新聞記事だけから自分の思い込みを述べてしまったのですが、そのあたりの「読み換え」はたしかに注意しないといけないでしょうね。 ご指摘ありがとうございます。
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