新人事制度 大阪での報告①~③
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『伝送便』誌今月号に載った文章を転写します。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 金子兜太さんの新春詠 元旦の朝日新聞朝刊の文化欄に『新春詠』として、この新聞の歌壇・俳壇の選者たちの詠んだ短歌・俳句が並んだ。毎年恒例のものだ。なかで今年とくに私に印象深かったのは、俳壇のほうの金子兜太さんのこの一句。 荒星(あらぼし)遊ぶ秩父連山戦さあるな 一昨年の夏、少年時代からの友人たちと秩父に一泊旅行したときのことが思い出されたからだ。[鳩の湯]旅館に泊まり、翌日は秩父鉄道のSLに乗ったりして、夕方、皆野町の駅近くにある鰻屋に入った。鰻が焼けるまでのあいだ冷酒を酌み交わしていると、給仕の女性が言うに、裏の離れで金子伊昔紅という人の遺品の展示をやっている。なんでも明治・大正の頃の人で土地の文化人であり、秩父音頭を現在のかたちに調えたことで知られる。そこで、鰻を食べ終えてから、電車の時刻までまだ間があることだし、ちょっと覗いてみることにした。俳人でもあったようで、秩父事件を詠んだ句なんかもあった。店に戻ると女性が「このあいだ息子のトウタさんが来て・・・」と話す。トウタ・・・金子・・・。えっ、金子兜太のこと? 俳人の金子兜太さんが秩父の生まれであることをそのとき知った。 さて話を今年の正月に戻して、1月4日のこと。その金子兜太さんのインタビュー番組がNHK教育で放送された(『こころの時代』)。普段なら視てなかったろうが、数日前の元旦、兜太さんの句に惹かれたばかりである。 1919年生まれの金子兜太さんは、生家で開かれていた句会に子どもの頃から顔を出していたという。句会には土地の若者たちも集まった。そういうものが当時の地方の知的サロンだったのだろう。そういえば秩父事件の指導者のひとり(困民党会計長)井上伝蔵も俳句が達者だった。伝蔵は、たとえばこんな句を残している。 年越しの二合の酒の美味(うま)かりし 金子さんは海軍で戦争を体験し、戦後は日本銀行に復職、職場で労働組合の活動に没頭する。そのときは俳句を作るのを止そうとしたけれど、それでも五七五が自然に出てきたそうだ。このあたり、同じころ一世を風靡したはずの桑原武夫の『第二芸術』論と考え合わせると面白い。桑原の言うことを煎じ詰めれば、俳句なんてつまらぬものに労力を費やすより他のもっと有意義なことに向けよ、ということだ。その論が全然見当はずれとは私は思わないけれど、真の芸術ではなかろうが第二芸術であろうが、内奥から涌き出てくるものは抑えようがないではないか。 戦争のこと。帝国主義戦争であるとは理屈ではわかっていたが、人々の暮らしは貧しく、その貧しさから戦争で脱却できるのではという気分はたしかにあった。だが戦争とは殺戮だ。戦場を実際に知っているのは自分より10歳若いくらいまで。だから反戦ということを強く詠んでいく。そう金子さんは語っていた。 新春詠の「戦さあるな」という結句が改めて心に沁みる。 ※関連する過去ログとして ☆『SL乗ってひまつぶし(ひつまぶし)』(08年8月13日) ☆『金子兜太さんと秩父と反戦』(10年1月6日) ■
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by suiryutei
| 2010-02-03 14:59
| 文学・書評
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