新人事制度 大阪での報告①~③
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新聞『思想運動』の連載コラム「時代と切りむすぶ銘文・銘言」に執筆した記事を転写します(7月15日発行号)。今回紹介するのは小説家・山口瞳。このコラムへの酔流亭の寄稿はこれが4回目です。過去に佐多稲子、服部之総、石橋湛山について書いてきました。 ![]() 私は、職を失って、まったくの失意の状態であったときにサントリーの宣伝部に就職することができたし、父の借金を返すために書いた雑文が小説として評価され、いきなり文学賞を受けるなど、およそ信じられないくらいの幸運にめぐまれた男なのであるけれど、わが生涯の幸運は、戦争に負けたことと憲法第九条に尽きると思っている。 (中略) 不思議な経験をした。 私は、しばしば、所沢の西武球場へ野球を見に行くのであるが、この西武球場では、試合前に国歌が演奏され、選手はグラウンドで整列し、脱帽して直立不動の姿勢をとる。観客も起立して脱帽する。 私は、生来、単純な人間であって、国家には国歌があったほうがいいと思うし、大勢の人間が同じ行動をするというときの一種の快さを好んでいたので、必ず起立して脱帽していた。それどころか、一緒に行った友人に「立とうじゃないか」と起立を促すことさえあったのである。 ところが、清水先生の「話題の爆弾論文」を読んでからは、国歌が演奏されても起立することができなくなってしまった。金縛りにあったようだった。 そうして、背中に、何とも言えない不快な痛みを感じた。いきなり背中を棒で突かれるのではないかという恐怖を感じた。そういう時代が来るのではないか。いや、絶対に来させてはいけない。目の前の人工芝のグラウンドが学徒出陣の場になるのではないか。いや、そいつだけは御免だ。命を捨てるとすれば、そこのところだ。そういう思いが去来して体が慄えてくるのである。 (新潮文庫『男性自身 卑怯者の弁⑤』山口瞳) (ここから酔流亭の文章) 市井の一平和主義者として 六十年安保のとき反対運動の指導者の一人でありながら、そのご改憲論者に転じた清水幾太郎(一九〇七~一九八八)が論文『日本よ、国家たれ!』で日本は独自核武装すべしと主張したのは、一九八〇年のこと。文中に「清水先生の『話題の爆弾論文』」とあるのはそれを指す。自らの戦中体験を踏まえて反論に立ったのが山口瞳だった。「卑怯者の弁」と題し、雑誌『週刊新潮』に彼が毎号連載していたエッセー『男性自身』に五週にわたって書かれた。一九二六年生まれの山口(一九九五年没)は、敗戦前に早稲田大学を中退したあと応召、短いながら軍隊生活を体験している。戦争で命を落とした同世代は少なくない。 しかし山口瞳といえば、サントリー・ウィスキイやJRA(日本中央競馬会)のCMからの印象のほうが強い。本人自身が語っているように、平和のために行動するという人ではなかった。エッセーを連載していた『週刊新潮』にしてからが、われわれに言わせれば相当いかがわしい雑誌。文中に国歌とあるのは「君が代」のことだけれども、これだって、あれをそうあっさり国歌と決めてかかっていいものか。細かいことを言うと、この文章が書かれた一九八〇年当時「君が代」を国歌と定めた法律など存在していない。法的には一九九九年に成立した「国旗国歌法」に拠る。虚構の二月十一日を「建国の日」とする歴史の偽造に基づく悪法だ。あの恥ずべき歌を国歌などとはとても言われない。 にもかかわらず、敢えて本コラムに山口瞳を紹介する所以を述べれば、いつもは駄洒落ばかり言って周囲を笑わせている横丁の隠居が、しかしこればかりは黙っていられませんと居住まいを正したようなところに、この発言の価値があるからだ。「君が代」についても前記のような弱点を議論に含んでいるにしても、歌わせたいがために口元のチェックまで指示した今日の大阪市長の異常さと対照されたい。立派に時代と切り結んでいよう。大逆事件の報に接しての永井荷風の態度がそうであったように、斜に構えて戯作者ぶるのは我がくに文士たちのあまり感心できない伝統だが、「もし作者が内に士人の気節清操を秘める底の人物でなくてはよく外に戯詠に遊びがたい」(石川淳『江戸人の発想法について』)とも言いうるか。 敗戦後の一時期、若き山口瞳は鎌倉アカデミアに学んだことがある。戦火を免れた寺を校舎として開校され、大学であるような違うような奇妙な学び舎であったというが、教授陣には三枝博音、吉野秀雄、林達夫、服部之総らがいた。 あるとき外から職員室を眺めていると、林達夫と服部之総が談笑している。学問の難しいことは自分にはわからないけれど、でも学問とはいいものだなと思った。当時を回想して、こんなことを書いた山口の文章がある。筆が真率なので、情景が目に浮かんでくるようだ。 ※『銘文・銘言』にこれまで書いてきた記事は ☆『佐多稲子「私の東京地図」』(11年5月4日) ☆『服部之総「近代日本のなりたち」』(12年1月9日) ☆『石橋湛山「池田外交路線にのぞむ」』(12年4月6日)
by suiryutei
| 2012-07-21 10:03
| ニュース・評論
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Comments(2)
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大津市のいじめ問題など、事件が起こるたびにマスコミは騒ぎますが、フーテンなどが言うまでもなく、教育版新自由主義改革のもとで、勝ち組・負け組という構造ができて、勝ち組になる為には仲間を蹴落さざるを得ない学校現場ができてしまったのではないでしょうか?弱肉強食は自然の摂理であって、弱者は淘汰されざるを得ないのだ、というような大人社会の論理を子供が見習ったということだと思うのです。自然の摂理と言っても、同じ種類の仲間同士でいじめたり殺しあったりする野生動物の例は少ないと思うのですが、都合のいいところだけ自然の摂理を持ち出して騙してるような気がします。酔流亭さんはどう思われますか?(自然の摂理に反した原発は再稼働させて平気な2枚舌の人たちに抵抗するために、ここのところ集会やデモが多いので、運動は体力勝負になっていますね。)
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フーテンさん、こんにちは。
労働現場でも「弱者の淘汰」がすすんでいます。私の職場では深夜労働などが拡大する中で身体がついていかずに早期退職に追い込まれていく人たちがこれまでも随分出ていますが、このさき賃金制度がいっそうの能力給へと変わっていくため競争がますます激しくなり、労働強化に拍車がかかると思います。そして不満は会社へ向かうより「動きの悪い」同僚に向かう。そんなことにならないように労働組合が頑張らなくてはならないのですが。 梅雨明けしたというのに天候不順ですね。暑さにそなえてきた身体が、こう気温が低くてはおかしくなってしまいます。運動は、おっしゃるとおり本当に体力勝負で、しかも原発もオスプレイもこの夏が大事です。フーテンさんも、お身体に気をつけて。
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