新人事制度 大阪での報告①~③
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『伝送便』誌今月号に寄せた記事です。 ![]() 一九六九年十一月二十六日、東京都立北高校で封鎖が始まる。中心的活動家だった池田さんは三〇人の仲間とともに教室にバリケードを築いた。一月後、機動隊が校門を包囲。最後まで立てこもっていたのは池田さんを含めて三人になっていたが、機動隊突入直前、教師たちが手足を掴んで無理やり裏口から逃がした。高校の闘争を象徴するような情景だ。教え子を警察に突き出すような教師たちでなくて良かったと思う。もっともそのあと、池田さんは無期停学という処分の撤回を求めて定期試験中の教室に入り、試験問題を破り捨てる。これで警察に引き渡されて少年鑑別所に送られた。じき高校を中退して郵便局に就職してからの彼のことは本誌読者なら知っている。「四・二八」のほうの処分撤回闘争には二十八年かけて勝利し、今も現場で働きながら活動中だ。 それにしても、あの時期、全国で頻発した高校紛争とは何であったか。私が通っていた学校で職員室封鎖が起きたのは七〇年の七月、夏休みに入る前だった。一年坊主で事態がよく呑み込めないでいたが、木造の講堂で生徒総会が夜まで続いたのを覚えている。暴挙と詰る者・いや擁護する者・また理非はさておき学校から放り出すような事態だけは避けようと説く者さまざまだった。封鎖は自主的に解かれたのに十一人もが退学になっていたことは本書に載っている紛争校データで知った(忘れていたのか)。 大学での全共闘運動の単なる後追いではなかった。当時、沖縄返還問題があり(返還協定の調印は七一年、発効七二年)、ベトナムの戦火は激しさを増し(パリ和平協定成立は七三年)、水俣病など公害も社会問題となっていた。ベトナムの子どもたちの頭上に爆弾が落とされ、沖縄では十代の少女が米兵による暴行に怯えざるをえないとき、高校生の政治活動は禁止とするだけの文部省「見解」(一九六九年十月三十一日)にいかほどの説得力があったか。忘れられない記憶がある。やはり高校一年のときだ。沖縄出身の社会科の教師がいた。彼があるとき授業中に沖縄返還協定に自分は反対だと言った。何人かの生徒がこれに喰いつく。授業の進め方があまり上手い人ではたしかになかったから、クラスの秀才たちはかねてからツッコミを入れる機会を狙っていたのだろう。とられた領土がともかく戻ってくるのだからいいじゃないか。典型的な本土からのみの視点である。私は教師の側に立って発言しなければいけなかったのにそれができなかった。勉強していなかったから。このことは強い屈辱として今も残っている。本土の教室で孤立する沖縄出身の彼。これはそのまま今日まで続く我が社会の縮図だ。四〇数年前の高校生たちの叛乱は、そんな社会でいいのかという問いかけであったはずである。 こんにち脱原発を契機として人々はまた動き始めたようだ。沖縄へのオスプレイ配備のような「犠牲のシステム」(高橋哲哉氏)へも闘いは向けられなくてはならぬ。本書の掬い取った歴史がそのために活かされることを望む。 ![]() 『高校紛争 1969-1970』小林哲夫著 中公新書 定価860円 ※本稿は上記したように雑誌『伝送便』に載ったものですが、同誌の編集委員である下見徳章さんと郵政期間雇用社員の丸山小次郎さんの対談が明日(8日)午後1時より本郷三丁目HOWSホールで行われます。
by suiryutei
| 2012-09-07 10:02
| 文学・書評
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