新人事制度 大阪での報告①~③
記事ランキング
最新の記事
タグ
労働(124)
最新のコメント
カテゴリ
最新のトラックバック
以前の記事
2025年 04月 2025年 03月 2025年 02月 2025年 01月 2024年 12月 2024年 11月 2024年 10月 2024年 09月 2024年 08月 2024年 07月 more... ブログジャンル
画像一覧
検索
|
『伝送便』4月号には記事がもうひとつ載っています。2月19日に開催された『伝送便カレッジ』における報告の後半です。なお前半は3月号に掲載されています(本ブログでは2月25日~28日にUP)。 ![]() 濱口桂一郎氏の論考をめぐって 近年、限定正社員問題でもっとも積極的に発言しているのは独立行政法人「労働政策研究・研修機構」客員研究員の濱口桂一郎氏だ。初めに断っておけば氏は御用学者では決してない。「日本ほど解雇しづらい国は無い」などという、竹中平蔵氏らがふりまくウソ八百にはまっとうな反論をしている。彼の議論の特徴は日本の雇用を「メンバーシップ型」と捉える点。たしかに日本の会社はこれまでのところ“同じメンバー”である正社員を簡単には解雇しないできた。しかしそれは長時間労働や過労死を生んできた会社への無限忠誠と引き換えなのだ。竹中氏らは、故意か無知か、ここには触れない。 そこで濱口氏の近年の主張は、会社への無限忠誠を生むところのメンバーシップ型雇用から脱出する途としてのジョブ型雇用の創出であり、それが限定正社員だというのである。私は『伝送便』誌去年一〇月号に氏の近著『若者と労働』についての書評記事を書いた。この記事は自分のブログにもアップし、これを濱口さんのブログ(『EU労働法政策雑記帳』)にトラックバック。すると氏は、ご自身のそのブログ一回分を使って私の記事全文を掲載してくれた。私の書評記事の特に後半は濱口さんに対する批判になっているのだが、にもかかわらず一字一句の削除も無い。非常にフェアな態度だと感銘を受けたし、研究者として誠実な方だと思う。 そう断った上で、私の氏に対する批判は格差の問題が軽視されていることである。三〇歳そこそこで年収に一〇〇万円も差をつけられたら、そしてその後その差は開く一方としたら、メンバーシップ型から脱出しようと考えるより必死でメンバーシップ型にしがみつくようにならざるをえないのではないか。去年八月のJP労組全国大会の会場前で撒いた『奔流』にも以下のように書いたのは濱口氏の議論を念頭に置いてのこと。 従来の正社員をメンバーシップ型、<限定正社員>をジョブ型と規定し、企業の構成員という身分と引き換えに長時間労働や無限の忠誠を要求される前者よりは、職務に対応した雇用契約である後者のほうが雇用の本来の在り方には近いと考える論者もいます。一理はある。世界でも珍しい<社畜>的働かされ方から、多少の賃下げを代償として日本の正社員が脱け出すための契機になるのではないかというのです。日本の雇用の在り方全体がジョブ型に転換するのであれば、また限定正社員や新一般職の賃金が提案されているような低いものでなければ、そういう見方もできるでしょう。(『奔流』No.118) 「改正」労働契約法 二〇一二年の労働契約法「改正」によって、五年以上有期契約を反復更新してきた有期契約労働者は希望すれば無期契約に転換できることになった。これは、そのため五年を前にして雇止めされるんじゃないかという不安も出されているのだが、それは今はひとまず措く。この改正労働契約法によって有期から無期に転換する人たちがジョブ型正社員(限定正社員)の核になるのではないかと濱口氏は構想しているようだ。 たしかに無期に転換すれば雇用の安定という点では一歩前進で、氏はそこを重視する。けれどもそれだけでは賃金などの待遇に変化はないのである。EUのように雇用形態に関わりなく均等待遇がある程度実現していれば氏の構想で大きな問題はないが、我が国の現実では正規と非正規の待遇格差が甚だしい。厚生労働省の賃金構造基本統計調査の一番新しい数字(二〇一四年二月二〇日発表)によれば、正社員・正職員の月額賃金平均三十一万四七〇〇円(年齢四十一・四歳、勤続一二・九年)に対して正社員・正職員以外一九万五三〇〇円(年齢四五・五歳、勤続七・一年)となっている。正規雇用一〇〇に対して非正規雇用六十二という比率だ。この甚だしい格差がそのままメンバーシップ型正社員(従来の正社員)とジョブ型正社員(限定正社員)の間に持ち込まれてしまう。しかもメンバーシップ型は数を減らしてジョブ型に置き換えていこうというのだから、いよいよ<狭き門>になるメンバーシップ型に「這い上がろう」とするジョブ型正社員同士の競争が激しくなるのではないか。メンバーシップ型内部でも賃金のずっと下がるジョブ型には「落とされたくない」とサバイバル競争が激しくなる。事態は、謳われている<ワーク・ライフ・バランス>とは逆の方向に進むだろう。 おそらく濱口氏としては、待遇のことは労使自治で決めることであって、自分はあるべき枠組みを提示するだけだ、ということなのだろう。しかし、こんにちの資本と労組官僚による“自治”では、良心的研究者による善意の処方箋も彼らに都合よくつまみ食いされるだけではないのか。 つぎに、メンバーシップ型は正社員を解雇しないというのは今日どこまで妥当だろうか。最近のブラック企業は若者を正社員として採用するが、とことん酷使して多数を短期間に退職へと追い込んでしまう。ブラックではない著名企業でも“追い出し部屋”などを使っての<希望退職>の強要が広く行われている(希望と強要という言葉は結びつかないはずなのに、これが現実)。JALは<整理解雇四要件>があるにかかわらず正規雇用の客室乗務員たちを指名解雇した。 日本の企業が直接の解雇を避けるようになったのは、六〇年を前後する三井・三池の大闘争などを通じて「首切りは高くつく」ことを思い知らされたから。労組のほうも、解雇を避けるのと引き換えに会社の要求に従順になった。このいわば休戦ラインが、労資の力関係で労働側が弱くなってきたため崩されてきているのだ。メンバーシップ型雇用に抱きすくめられて戦闘性を眠り込まされたことが力関係が変化してきたことの背景にはあるとは言えよう。この力関係を逆の方向に変えていくことが濱口氏ならぬ私たちの課題ではないか。 新人事制度とどう<つきあう>か あれこれ批判をぶつけても、しかし新人事制度は四月からスタートする。その下で私たちはどうすればいいのか。同制度の狙いが競争を煽ることで労働密度を高めていくことにあるなら、私たちはその逆を張る他はない。煽られても乗せられず、ゆとりを守ること。郵便内務の深夜勤は一〇時間労働だから深夜に一時間の休憩がある(労働基準法は八時間労働なら四十五分、それを超す労働時間には一時間の休憩を最低限と定めている)。ところが、いま職制層ではこの夜中の一時間がちゃんと確保されていないのではないか。これは大袈裟ではなく生命を脅かす。外務の労働実態もおそらく同じようなもの。この労働実態に依拠して、これ以上煽るな、搾り取るな、と開き直ることはできないだろうか。 もっとも、それが難しいことをここまで分析してきたわけで、これだけ格差をつけられては、よほど余裕のある人でないかぎり泰然と我が道を行くことはできない。そこで地域基幹職と新一般職、正規と非正規の格差を縮めていく闘いがなくてはならない。<みずほ情報総研>というところの調査によれば、従来の正社員と限定正社員どちらを選びますかと問われて、両者の賃金差が前者の一〇〇に対して後者は八七~八八あたりにとどまるのであれば限定正社員を望む人のほうが多数になるとのことだ(賃金を一割以上削られてもそのほうがいいと考える人のほうが多いというところに今日の正規雇用労働者の過酷な働かされぶりも覗われるけれど)。また均等待遇が実現している国といわれるオランダではフルタイマーとパートタイマーの時間あたり賃金差は最大で前者の一〇〇に後者の七九。均等待遇といっても仕事によってはそれくらいの差は出る(最大で、ということ。ほとんど差の無い業種もあるのだろう)。そしてオランダの労働者は事情に応じて両者の間を行き来しているそうだ。 もちろん格差は僅かであれ無いほうがいいし、オランダの状況に全く問題が無いわけではないと思う。しかし一つの目安にはなる。調査結果や実例が示すのは、一〇対九ないし一〇対八くらいの賃金格差にとどまるのなら、競争の無理強い効果をかなり減殺することができるということではないか。 郵政の地域基幹職と新一般職の年収差は、さきほど見たように三〇歳過ぎで約五〇〇万円対四〇〇万円弱だから、この時点ではギリギリ一〇対八に近いところにある。しかし、それからどんどん開いていって五〇代なかばでは一〇対六になってしまう。これは紹介した厚労省の賃金構造統計調査における正規と非正規の賃金格差とほぼ同じ。その年齢に達するまでの三〇代・四〇代というのは家庭を持ち子どもを作り、場合によっては家も建てで、生活費がかさむ時期である。地域基幹職の賃金を下げるのではなく新一般職の賃金をかさ上げする方向で差を縮めていかなくては。これは非正規の賃上げもそう。 会社は格差を拡げようとしているのに、その逆ができるかよ、という声が飛んできそうだ。しかし会社だって査定幅を一割増やすだけでこれだけ苦労したのだ。連中の思い通りに事が進んでいるわけでは決してない。こっちも苦しいけれど、向こうにだって好き勝手はやらせない、こういう<攻防戦>(陣地戦でしょうかね)を、諦めずに粘り強く闘っていきたいものである。さらに、強められ、狭められる選別は、選別されることによって個人として上昇していく途を選ぶのではなく、選ばれざる者(ノン・エリート)としての開き直りに途を開くかもしれない。戦後日本の「能力主義的管理」は、査定を通じて個人的上昇への途に労働者を誘い、団結や連帯を骨抜きにしようとしてきたわけだが、ここへきて企業のほうも余裕がなくなってきた。「『新時代の日本的経営』の質的深化」は“両刀の剣”になる可能性がある。いや私たちの闘いでその可能性をおしひろげていこう。
by suiryutei
| 2014-04-08 10:42
| ニュース・評論
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||