奈良在住の吉田智弥さんから
労働者文学会に送られたメールに酔流亭の文章が言及されている。そこで吉田さんと労働者文学会の了解を得て、そのメールをここに紹介します。なお吉田智弥さんは酔流亭はまだお会いしたことがないのですが、「
1941年生まれ、奈良県立大学、花園大学などで人権関係の講義を担当。著書に『脱コンピューター管理社会』、『忘れ去られた西光万吉』など。共著書は多数」(労働者文学会からの手紙での紹介)という方です。
最近は「文学」方面の関心も薄くなり、「労働者」の「文学」という問題意識からモノを考えることも殆どなくなったのですが、かつてあった「新日本文学」とか「民主文学」という運動は、結局、継承されることなく、今日では消えてしまったのでしょうか?
今回、お願いしてわざわざ送って頂いたのは、「労働者文学賞」を受けられた土田宏樹さんの作品を読みたかったからですが、(というのは、直接の面識はないのですが、彼が属する少数派労働組合の機関誌「伝送便」に連載されているコラムが非常に素晴らしいと感じてきましたので)、で、実際に読ませて頂いたところ、受賞作品も、76号の創作「春一番」も期待を裏切らない中身の濃いもので、その限りでは「読み甲斐のある」「読んで良かった」と大いに満足しました。
むろん、単に「読み物」として楽しむ性質のモノではないことは承知していますが、とりあえず、「作品」としては質の高いもので、「受賞」されて当然だと思い、無関係な第三者ではありますが、個人的にも喜びたいと思いました。
ただ、ちょっと納得できなかったのは、各選考委員の方々の「選評」の文章の中で文中の、ブログやビラの文章を「地の文」に入れてほしかった、という意味の注文があったことです。「そうかな?」というのが私の疑問です。
マスコミであれミニコミであれ、各種のメディアに掲載されている「ルポルタージュ」の多くは、部外者が問題の渦中にいる人たちに取材して「実態報告」としてまとめ、読者に伝えるのが一般的でしょう。
ところが、土田氏の場合は、自分が日々そこで働いている現場を、現在進行形で「ルポ」しているわけで、であれば、当然のことながら、「キミ自身は、その問題に対してどういう態度をとったのか」が問われる。問われざるをえない。そのことを外してしまえば、出来上がった「ルポ」(作品)は、単なる「客観」主義的なレポートになってしまう。
つまり、リアルな、そしてアクチュアルな立場性を問われることなしに完結することができない、そういう「ルポ」を彼は書いたわけで、その中に、自分自身の対応や活動をも対象化して書かざるをえなかったのは当然ではないか、と私には思えるのですが。
選考委員諸氏の「選評」の主旨は「読者を職場の中に限定しないで」ということだろうと思いますが、私には、まとまった執筆時間を確保するのも困難な彼が、その時々に訴えてきた主張をこんな形でまとめてくれた方がずっと切実性が伝わってくるものとして受けとめることが出来たように思いました。
まさか「労働者文学」誌は、彼に、将来、プロのルポライターになってもらうことを期待しているわけではないでしょう。郵政内外の、さまざまな職場で、同じように呻吟しながら苦闘している労働者たちに、ペンをもって文章としてまとめることを呼びかけ、それを励ますために「賞」を設定しているのだろうと、私なりに忖度するのですが。
土田氏の作品を批評するとすれば、これだけ厳しい労働を強いられていながら、その同じ職場の仲間が、彼を「代議員」に選ばなかったのは何故か。
土田氏を支持することで「失う」ものがあると感じて、それを恐れた、そういう選択をする同僚たちの「弱さ」「悲しさ」「辛さ」を、日常の中の、具体的な表れのディテールとして書き込み、それらの全体像を描写することに更に力点を置くべきではなかったか、ということであるように、私には思えました。
「選考」の文章はいずれも短いモノですから、紙幅の関係で意を尽くせなかったという憾みはあるでしょうが、せっかくの受賞作品の、その今日的な重要な意味を「きっちり受けとめていますよ」というメッセージを記すことが、次の応募者たちに必要な指針を示すことになるのではないか、と思うのですが。
失礼なものの言い様をしている恐れもあります。ご寛恕くださいますように。
とり急ぎ、一読して感じたことをあるがままに書かせて頂きました。
(以下、略)
酔流亭の拙い文章をきちんと受けとめてくださった上に、これからの課題も指し示してくれています。書き手として、こうした読み手に出会うことほど嬉しいことはありません。
吉田さん、どうもありがとうございました。
※関連する過去ログとして
☆『労働者文学賞<合評会>での発言』(14年7月30日)