新人事制度 大阪での報告①~③
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パソコンに向かってブログを書き始めた。11月4日に迫った郵政株式上場について書き出す。 ところが、途中で嫌になった。酔流亭は日本郵便に勤めている身。だからこの問題の当事者ではあるのだけれど、株式の売買の話なんて面白くないではないか。それに思うところはすでに下のPDFに述べているし。 http://densobin.ubin-net.jp/headlines15/images/1006_joujou.pdf そこで、このテーマは放り出して朝刊を開いてみる。今日は月曜だから、歌壇が載る日である。 せみのこゑたえにしあとはこほろぎのこゑにかさなるこほろぎのこゑ 全部ひらがなのこの歌の巧拙は酔流亭にはわからない。でも、今の季節を、夏から秋への移行を、じつによく捉えているなあと思う。秋田市の佐々木義幸さんという方の投歌で、選は高野公彦氏。 うまいなあと舌を巻いたのは、朝日歌壇おそらく一番の常連であろう松田わこちゃんのこの歌だ。 後悔をよく噛んで一つ食べましたカステラ色の月を見ながら 馬場あき子氏と佐々木幸綱氏の二人が選んでいる。松田家は姉の梨子ちゃんと母上の由紀子さんも歌壇の常連。梨子ちゃんは現在進行中らしい初恋を妹によく歌の種にされている。それはかなわんなあと思いきや、本人も自分の初恋を詠んで何度も採歌されているから、末恐ろしい姉妹である。梨子ちゃん高校生、わこちゃんは中学生であったかな。 安保法制(酔流亭はこれを戦争法制と呼ぶが)に批判的な歌も多く採られている。どれも共感する。 ありのまま自分のままで連帯す六十年には見られなかった 大和高田市の森本忠紀さんという方の投歌で、永田和弘氏選。ここで六十年とはもちろん60年安保を指す。60年安保反対運動と今年の安保法制反対運動との違いを詠んだものだ。 前半の<ありのまま自分のままで連帯す>には酔流亭も共感するけれども、後半<六十年には見られなかった>には、本当にそうですか?という思いもすこしある。 酔流亭は1955年生まれだから60年安保反対運動のときはまだ5歳。だから記憶にはない。いや、かすかにあるのは、当時わが家にあったほとんど唯一の電気製品であるラジオから流れてきた「アンポ反対!」の声である。ニュースが街頭の声を採って流したのではないかと想像するのだけれども、しかしもしかするとこの音声も後になっての思い込みであるのかもしれない。そのあたり、今やもう曖昧である。 だから、当時を知らない人間として勝手に想像するのだが、あの当時だって<ありのまま自分のままで連帯>した人たちは少なからずいたのではなかろうか。大学教授としてデモの先頭に立った故・丸山真男(1914年生まれ)、あるいは職業安定所に通う半失業者でありながら連日あちこちのデモに参加したという色川大吉さん(1925年生まれ)の当時の回想など読むと、そう思うのである。たとえば色川さんは書く。 「・・私は六〇年五月の危機からほとんど毎日、国会周辺に日参していたが、無所属の私が参加したデモは、あるときは官公労や総評系大単産労組の隊列であったり、あるときは大田区や品川区、江東区などから駆けつけてきた中小企業や零細工場の者たちの列であった。私はそれらに自由に出入りした。そうしたことができるほど、このときのデモは開放的で寛容であった」 「・・国民的な大デモンストレーションには社共・総評系の国民共闘会議の指揮からはみだした、さまざまな人びとが参加していた。とくに五月一九日(新安保条約承認の強行採決があった日=引用者注)以降、雪だるま式にふくれあがっている。ノンポリ学生の大群がそうだったし、零細企業の労働者・職人たちがそうだった。・・・それに家庭の主婦まで、いわゆる市民としかいいようのない個人も参加していた」(どちらも『若者が主役だったころ』岩波書店から) 丸山真男はいささか辛辣に、こう書く。 「組合幹部より組合員大衆のほうが素朴に立ち上がったということも、ある意味では当然である。ということは、社会・労働運動の内部では強行採決的なことを至るところでやってきたのが、今までの革新陣営のまずい点ではないか」(著作集第八巻) 言いたいのは、個人の自発的な立ち上がり・連帯は当時もあったろうということだ。労組の組織動員にしても、自発的個人が労組の中にあっては戦闘的活動家として周囲に働きかけ、組織として動くところまで持っていくことによって実現したのではないか。そうして組織の外の個人の立ちあがりと組織の力とが(両者の間に軋轢も含みながらも)相まってあれだけ大きな運動に膨れ上がったのではないだろうか。 今日は、この両者のうちの組織のほうが動かなくなってしまった。労組の取り組みは鈍いままここまで来ているのだ。大労組の中が典型的だが、個人が組織の中で身動きつかなくなっている。その結果として組織外の個人の活動が目立っているのではないか。 JP労組という大労組に身を置きながらも、酔流亭自身、編集に関わっているミニコミ誌で呼びかけたり個人的つながりのある人に声をかけて国会デモに参加することしかできなかった。忸怩たる思いがある。個人の自発性は本当に貴重だ。しかし、そのことを称賛しているだけで組織を動かすことを工夫するのを怠っていては現政権の暴走を止めるのは難しいのではないか。
by suiryutei
| 2015-10-12 13:21
| 文学・書評
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Comments(2)
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