新人事制度 大阪での報告①~③
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年末の片づけとして本棚の整理をしていたら、こんな雑誌が出てきた。 どういうわけか、そこに酔流亭も一文を草する破目になった。たしか原稿料として一万円いただいたと記憶する。いま読み返すと青臭い文章で、とても原稿料なんか頂けるような出来ではないのだけれど。 なお中国の詩人、陶淵明と李白の名を知らない人は少ないだろうが、細野喜代四郎は逆にその名を知る人のほうが少ないだろう。明治の自由民権活動家である。 陶淵明、李白、そして細野喜代四郎 中国の詩人の中では、私は陶淵明と李白をもっとも好む。なぜこの二人かといえば、どちらも酒好きだからだ。酒を好む詩人、これ全て我が心の師である。 みずからを語った『五柳先生伝』によれば、陶淵明は「書を読むことを好むも、甚だしくは解することを求めず。ただ意(こころ)に会(かな)うこと有る毎に、すなわち欣然として食をすら忘る」とある。字句のこまかな解釈より大意をつかめということだろう。そして気に入った条に出くわすと喜んでくり返し熟読し、そのため食事を忘れることすらある。こうありたいものだ。 また彼は音楽を愛したけれども、ひどい音痴であって、彼の琴には絃が無く、ために「無絃琴」と号したという。絃の無い琴というのはまさかと思うが、私も音痴だから、ここも好き。そして酒を飲んでも「既に酔えば退く。去るにも留まるにも、いささかも吝(きたな)き情なし」。酔いがまわれば、だらだら長居はしない。ちょっと耳が痛い。もっとも「ひとえに恨めしきは世に在りし時、酒を飲みて足るを得ざりしを」。つまり、酒を飲み足りなかったことだけが世を去るにあたっての心残りだと臨終のとき言い残しているから、この先生、やっぱりもうちょっと飲んでいたかったようだ。 いっぽう、李白。酒についてのエピソードはこちらも事欠かないが、友人・杜甫のつぎの詩はあまりに有名である。 李白は一斗 詩百篇 長安市上 酒家に眠る 天子呼び来れど 舟に上らず 自ずから称す臣は是れ 酒中の仙と 李白はその詩才をときの皇帝・玄宗に認められて側近に仕えていた。あるとき、宮廷で牡丹の花が満開となり、玄宗は愛人の楊貴妃をつれて宴会を開いた。美しい牡丹の花と、さらにうつくしい楊貴妃。ここはどうしても李白の新しい詩がほしい。ところが、李白は例によって二日酔いで町の酒家に寝ている。宮廷に引っ張り出されるが、泥酔していたものだから宦官の高力士の前に足を突き出し靴を脱がせるという傍弱無人をやってみせた。 これが宮中に隠然たる勢力を持つ高力士の恨みを買うところとなり、李白は失脚する。そのとき作った楊貴妃を称える詩に漢代の美女・飛燕の名を出したのにナンクセをつけられたのだ。飛燕は漢の時代、宮廷きっての美女だったが、ときの成帝を日夜誘惑したので、そのため成帝は精根つきはてて死んでしまう。李白にすれば、彼はこの漢代随一の美女が好きだったらしく、それ以前にも飛燕を褒める詩を作っているから(『宮中行楽詞』)、伝説的美女をひきあいに出すことで素直に楊貴妃を持ち上げようとしたのだろうけれど、自分に敵意を持つ相手の前ではややウカツだったかしれぬ。彼は首都・長安から追放された。 その後の李白は不遇だった。諸国を流浪し、安禄山の乱に際しては叛軍に加わったとされて囚われ、夜郎の国に流される。赦されたときはもう晩年だった。しかし、権力者を褒め称える詩を作るぬくぬくとした詩人だったとしたら、李白がこれほど愛されることはないだろう。当時の人々はこう言ったという。李白が権力者の前で身をかがめることができなかったのは、腰のあいだにもう一本、傲骨というものがあったからだと。 話が飛ぶ。 一昨年の夏、私は青梅の御岳渓谷にある[河鹿園]という宿屋に泊まったあと、翌日は車で五日市(あきるの市)に抜けた。[むべ]という落ち着いた喫茶店で旨いコーヒーを飲んだが、その店に置いてあった土産用の絵葉書に明治の自由民権運動を題材にしたものがあったのが印象に残った。五日市は“自由民権の里”としても知られているのだ。1960年代末、東京経済大学の色川大吉教授のゼミが五日市の旧家を調査した際、その土蔵から先進的内容を持つ憲法私案が発見され、『五日市憲法』として一躍注目を浴びることになったからである。 これは明治10年代に作られたもので、当時は国会開設請願運動が全国にひろがっており各地で憲法私案が生まれたが、五日市のそれは内容の豊かさで5本の指に入ると言われている。全体で204条、君主主権ながら人権擁護の規定が厚い。「敗戦の体験にもとづいてできた現行憲法は五日市憲法そっくりの所が多いのです。そういったことからすれば五日市憲法は戦後民主主義の原点であり、現行憲法の祖型であるともいえます」(石井道郎著『戸倉物語・秋川谷の夜明け』)。 五日市のような草深い山里で、どうしてこのような先進的内容を持つ憲法私案が生まれたのだろうか。その背景にはこの地方の民権活動家たちの地に足がついた実践・学習活動があったようだ。『五日市憲法』の発掘調査を指導した色川大吉教授は自身の著作『近代国家の出発』(中央公論社「日本の歴史・23」)の中で、民権活動家・細野喜代四郎が書いたつぎの詩を共感をこめて紹介している。 名誉を願わず又奢りを作(な)さず 文学に従来して生涯を任せん 雅居事無く風月を娯しむ 当処多端国家を憂う 進んでは長安に現れて政道を論じ 退いては磐谷に潜んで横邪を避けん 只期す他日銀海を傾け 扶桑の開花の花に坐臥せんことを 細野喜代四郎は八王子の豪農で当時まだ20代。民権思想の普及をめざして多摩地方の村落で学習会を組織したり演説会に奔走していた。その詩は陶淵明や李白、杜甫と文学として比較できるようなものではあるまい。だが、世間一般の物質的な矯奢や名誉がなんであろう、人間にとっては内面的価値こそ尊いとするその思想は、時代を超えて遠く中国の詩人たちと響きあうものがあると思う。 しかも、彼にあっては立身出世主義の拒否と社会的関心の強さとが結びついているのである。「進んでは長安に現れて政道を論じ」という。機会があれば世の中のために一肌ぬぎたいということだろう。しかし、それは自分の立身のためではないから、ことが収まれば「退いては磐谷に潜んで横邪を避けん」。「戦闘力を秘めた田夫野人の悠々たる生こそが細野の理想」(色川氏)なのである。 矮小な立身出世主義と社会的無関心が横行しているのが現在だからだろう。この詩を初めて目にしたとき、私は何とも言えぬ爽快感に打たれた。 陶淵明や李白もけっして悟りすました世捨て人だったのではない。機会あれば世に役立つべく一働きしようと李白はしばしば詩の中で述べている。だが人民主権という観念がまだ無かった当時、世の役に立とうと言っても、それは天子をたすけて善政を布くといったあたりにとどまるのであって、民衆自身に訴えたり民衆の力そのものに依拠するところまではいかない。ところが、宮廷で天子のまわりにのさばっているのは高力士みたいなロクでもない連中ばかりだから、詩人は政治の世界では自分の居場所をみつけることはできなかった。 かくて陶淵明は知事の座を捨てて田園に帰って『帰去来の辞』を書き、李白は一斗酒のあいだに百篇の詩を作って憂さを晴らすことになる。 細野喜代四郎がその後どんな人生を生きたかについて私は詳しいことは知らない。天皇制権力の下で民権運動そのものが窒息させられていくのだから、細野が青年時代のゆたかな感受性を後半生においても持ち続けるのはむずかしかったろう。が、だとしたとしても、それがあの詩の価値を減じはしない。「戦闘力を秘めた田夫野人の悠々たる生」。そのように生きてゆきたいというのが私のひそかな願いである。 (1998年7月初出 2003年8月改稿)
by suiryutei
| 2015-12-25 09:16
| 文学・書評
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