新人事制度 大阪での報告①~③
記事ランキング
最新の記事
タグ
労働(124)
最新のコメント
カテゴリ
最新のトラックバック
以前の記事
2025年 05月 2025年 04月 2025年 03月 2025年 02月 2025年 01月 2024年 12月 2024年 11月 2024年 10月 2024年 09月 2024年 08月 more... ブログジャンル
画像一覧
検索
|
雑誌『労働者文学』の最新号が完成した。 ![]() ![]() ![]() 戦争法がまだ法案であって衆議院特別 委員会で強行採決された七月十五日、私 は沖縄にいた。十二日から十六日まで四 泊五日の旅の途中だった。 その日は午前中、那覇市内の不屈館を 訪ねた。沖縄人民党の委員長で、那覇市 長や衆議院議員を務めた瀬長亀次郎を顕 彰している。阿波根昌鴻(一九〇一~二 〇〇二)と瀬長亀次郎(一九〇七~二〇 〇一)が同じ時代を生きた人だというこ とに今さら思い当たった。伊江島の農民、 阿波根は非暴力に徹した抵抗運動によっ て「沖縄のガンジー」と呼ばれた人。二 人の最晩年となった二〇〇一年、たまた ま同じ病院に入院して、もうお互い会話 も不自由であったけれども目を見つめ合 って握手を交わしている様子を報じる新 聞記事が展示されていたのである。二〇 数年ぶりの再会であったという。 不屈館に連れて行ってくれた麓隆治さ んは私が四〇年前、東京中央郵便局に就 職したとき同じ課にいた先輩だ。その後 Uターン転勤で郷里の沖縄に帰った。今 は退職の身。その麓さんが不屈館の売店 でバッジを買って私にくれた。ジュゴン の絵に「辺野古に新基地いらない」とい う標語が印してある。私はこのバッジを 今も職場で作業シャツの胸に着けている。 不屈館を出て、彼の車に乗せてもらって 那覇市内を走っているときカーラジオで 強行採決のニュースを聴いた。 基地の町・嘉手納で 麓さんの自宅は嘉手納町にあり、前夜 は泊めていただいた。嘉手納は基地の町 だ。極東最大の米空軍基地がある。二本 の滑走路は成田空港の規模に匹敵し、広 さは羽田空港の二倍。約二〇〇機の軍用 機が常駐する。夕食の前、麓さんはちょ っと会合があると言って家を出た。嘉手 納でも「島ぐるみ会議」が発足する運び となり、七月三十一日に予定される旗揚 げに向けた会合とのことだ。「島ぐるみ 会議」とは正式名称「沖縄『建白書』を 実現し未来を拓く島ぐるみ会議」であっ て、『建白書』とはオスプレイの配備撤 回や米軍基地の県内移設断念を求めて沖 縄の四十一市町村の首長すべてが署名し たもの。六月末の時点で、その四十一の うち二十二の市町村で「島ぐるみ会議」 が結成され、さらに増え続けていた。嘉 手納も続こうというのである。今この稿 を書いている一〇月上旬、「島ぐるみ会 議」は四十一市町村のうち一村を除く四 〇に結成されたと報じられている。 麓さんがその会合に出ている間、私は 図書館を覗いてみることにした。街並み に不釣り合いな立派な建物の四階が町営 図書館になっている。隣にも立派な建物 があって、沖縄防衛局であった。図書館 のあるほうの建物の一階ロビーには元外 務官僚の岡本行夫氏、千葉商科大学学長 の島田晴雄氏、自治大臣等を務めた故・ 梶山静六の彫像がある。この人たちが尽 力した沖縄米軍基地所在市町村活性化特 別事業というものの説明が彫像の横に書 かれていた。 「米軍基地に施設用地を提供する県内 市町村の閉塞感を打開し、地域活性化を 促進するため、政府の補助を得て・・」。 建物が立派である理由がわかった。岡 本氏は主観ではしんじつ沖縄のためを思 っているつもりかもしれない。一九歳で 敗戦を迎え、あと半年戦争が続いていた ら特攻隊員として戦死していたかもしれ ない梶山静六(彼は敗戦時、陸軍航空士 官学校にいた)の口癖は「戦争は悲惨だ、 絶対やっちゃいかん」であったという。 しかし、この「地域活性化」は札束で人 の心まで支配しようとするものではなか ろうか。そしていま沖縄の人々は中央政 府のそうしたやり方に「否!」を突きつ けているのではないか。 図書館には雑誌『世界』がバックナン バーも併せて置いてあったから、その今 年五月号に掲載されていた翁長雄志・沖 縄県知事と寺島実郎・日本総合研究所理 事長の対談(『沖縄はアジアと日本の架け 橋となる』)に目を通した。北海道出身の 寺島氏は、北海道には米軍基地はひとつ もなく、その北限は青森県三沢市のそれ も通信基地であることを指摘する。 日米安保条約が本当に日本を防衛する ためにあるならば、こんなことはおかし いのではないか。かつて一九八〇年代な ど仮想敵国は圧倒的に旧ソ連であり、そ の脅威が盛んに喧伝されて今にも北海道 に侵攻しそうな記事を載せた雑誌が書店 に並んだことだってあるのに。つまり沖 縄を含めて在日米軍基地は日本を守るた めに置かれているのではない。あれはア メリカ軍がアジア全域にまた世界に展開 する上での後方基地なのだ。だから、直 接日本に危機が招来していたわけではな いベトナム戦争では沖縄から爆撃機が空 爆のため飛んで行ったし、今日でも沖縄 の米海兵隊の主力が中東あたりに出かけ て行って基地を空にすることもある。抑 止力といえば何だか攻めてこようとする 相手をそれで防いでいるみたいだが、現 実はアメリカが世界で行っている戦争に 後方基地を提供することで加担している のではないか。 会合から戻った麓さんと泡盛を酌み交 わす。庭に用意された食卓に奥様の手料 理が並んだ。夜が更けていく。爆音が時 おり聴こえるのはやはり基地の町である。 いっぽう近くで 「キュッ、キュッ」 聴こえるのを 「ヤモリの鳴き声」 奥様がそう教えてくれた。千葉県にあ る我が家にもヤモリが棲みついているけ れども鳴き声を聴いたことがない。南国 特有の生態であろうか。 辺野古と高江で 今回の私の沖縄への旅は、十二日はま ず那覇市内のホテルに泊まり、翌朝早く、 比嘉宏さんの車で辺野古キャンプ・シュ ワブのゲート前に連れて行かれた。比嘉 さんは一昨年那覇の郵便局を定年退職し てから一坪反戦地主会の事務局長を務め ている。途中、沿道にあった某土建会社 の看板を指さして比嘉さんが言うのに、 「この会社、前は基地の工事を請け負 っていたんだが、今は介護関係を主にし て老人ホームの建築なんかやってる。目 先の儲けではアメリカ軍の仕事をやった ほうが大きいから切り替えるのは大変だ ったろうけど、先を見る目があった」 軍需は利潤が大きくとも、経済は本当 は平和でなくては発展しない。土建業が 保守の地盤なのはどこでもそう。しかし、 沖縄における直近の選挙での保守の分岐、 中央と対峙する翁長氏のような知事が保 守の中から現われてきた背景には、こう した土台からの変化があるのだろう。 さて辺野古ゲート前にいたとき緊張が 走ったのは午前一〇時過ぎだ。工事用車 両がゲートに向かっているとの情報に、 道を塞ぐべく、その場にいた八〇人ほど が密集してスクラムを組む。もちろん私 も比嘉さんも。そこへ数十人の機動隊員 が隊列をなして向かってきた。 「座りこもう!」 誰かが声をかけた。それを合図に、ス クラムを組んだまま腰を落とす。三列で、 私は二列目の真ん中あたり。機動隊員に よるごぼう抜きが始まった。警備会社の 人々はゲートを背に立っている。 「こっちに来い!」 座り込みの中から声が飛ぶ。喧嘩を売 ろうというのではない。一緒に座り込み に参加しようと呼びかけているのである。 うつむく警備員。 最前列で座り込んでいた人たちがみん な抜かれ、二列目も三列目も左から一人 ずつ抜かれていく。私より左のそのまた 左の人が抜かれたところで (いよいよ来るな) そう身構えたが、そこでごぼう抜きは 止まった。車両が通れるだけの幅を確保 したと警備側が判断したようだ。そこを 数台の車が通って米軍基地の中に入って いく。機動隊の指揮を執っていたのは「 中隊長」と呼ばれて、座り込む人たちを 日頃から犯罪者呼ばわりして憚らぬとい う。この日も「公務執行妨害!」という 言葉を何度もちらつかせた。じつは私が 沖縄を訪ねた七月中旬というのは台風九 号が通過したばかり。のみならず十一号 が接近していて海の荒れた状態が続き、 辺野古沖の海底ボーリング調査も中断さ れていた。そのまま八月初めからの一カ 月の工事中断(八月一〇日―九月九日) につながっていくのだが、その「一時休 戦」の間も、ゲート前では身体を張って の抗議行動が続いていたに違いない。 その日は比嘉さんと名護市内のホテル に泊まった。翌日は高江に向かう。 沖縄本島北部の森に囲まれた地域をや んばる(山原)という。ヤンバルクイナ やノグチゲラなど絶滅危惧種が数多く生 息している。この豊かな自然の中に総面 積七八〇〇ヘクタールもの米軍北部訓練 場が居座っているのである。ジャングル での戦闘訓練のため一九五七年に使用が 始まり、ベトナム戦争でのゲリラ戦訓練 が行われた。二十二ヶ所のヘリパッド( ヘリコプター着陸帯)があって住民は墜 落の危険や爆音にさらされている。人口 約一五〇人の高江は、この北部訓練場と 隣り合わせ。二〇〇七年から、集落を取 り囲むように新たに六ヶ所でヘリパッド の建設が始まった。一番近い民家と五〇 〇mしか離れていないものは二〇一四年 三月に完成し、二〇一五年一月、米軍へ の先行提供が閣議決定されオスプレイの 飛行訓練が本格的に始まった。先行とい うのは、北部訓練場の半分を返還すると して、その返還予定地にあるヘリパッド を高江に移設という話だったのに返還の ほうはなされていないのである。 比嘉さんと私が高江の座り込みテント に到着したときは一〇人ほどの人がいた。 チェ・ゲバラの顔写真がプリントされた 赤いTシャツ姿の女性は団塊世代とおぼ しく、関西から来たという。「今日から 八月いっぱいここにいる」とのことだ。 フランス人とイタリア人の若い男女がい て、バックパッカーというのであろうか ヒッチハイクのようにしてここまでたど り着いたという。高江のことは日本の友 人から聞いたらしい。 そのうち、ボーリング調査船が荒波を 避けて停泊している入江で抗議行動をや るという情報が入った。そちらに向かう。 その羽地内海にはカヌーも浮かんでいた。 これは普段は辺野古沖で果敢な抗議行動 を展開している若者たちだ。がっしりし た体躯でサングラスの男性が浜で腕組み してそれを見守っている。風貌からして 沖縄在住の芥川賞作家・目取真俊氏であ るように思った。プレスの腕章を巻いた 若い女性は沖縄タイムスの記者。琉球新 報と共に、この地元二紙は終日抗議行動 に貼りついて紙面だけでなくツィッター 等でも発信している。私が調査船に向か って拳を突き上げシュプレヒコールして いる後姿の写真もタイムス辺野古取材班 のツィッター[辺野古刻々]に載った。 旅のいい記念だ。 ここまで案内してくれた比嘉さんは一 坪反戦地主会の仕事(普天間基地使用認 定取消請求裁判の提訴準備)のため那覇 に戻らなくてはならない。ここで私のお 守り役は前出の麓さんにバトンタッチ。 麓さんは嘉手納の自宅に向かう途中、座 喜味城のグスク跡や残波岬に連れて行っ てくれた。そろそろ陽が傾きだした時刻 の残波岬からの海の眺めは素晴らしかっ たけれど、沖縄戦における米軍上陸地は この近くだ。海上を埋め尽くす米軍艦船 を目にしたときの島民の恐怖はどれほど だったかと思うと胸が潰れそうになった。 労働者にできることは 旅から二か月が経った九月十七日、私 は国会正門前にいた。朝から続いていた 座り込みは夕方五時にいったん終わる。 四時半から、その総括集会が始まった。 民主党の阿部ともこ衆院議員がスピーチ をしようとしたところに「参院特別委員 会で強行採決!」というニュースが走る。 本会議での採決は十九日の未明だった。 それまでの毎日、人々は国会を取り囲 んだ。しかし、歩道は埋め尽くしたもの の機動隊の車列に阻まれもして広い車道 は空いていた。これではデモとして不充 分である。つまり私たちは戦争法案反対 の意思表示はしたけれども権力を震え上 がらすほどの闘いはまだ創っていないの だ。どうすれば震え上がらせられるか。 言うまでもなく、非暴力に徹するという ことは権力に従順であることとは違う。 キャンプ・シュワブのゲート前座り込み で私はそのことに改めて気づかされたよ うな気がする。労働組合ならストライキ だ。私は郵便労働者だから郵便と物流を 止めることだ。少なくとも正規雇用では 圧倒的多数の労働者を組織しているJP 労組は今夏の全国大会で法案成立阻止に 全力を尽くすと特別決議まで上げたのだ から、やろうと思えばできる。今秋、郵 政は株式を東証一部上場するのに労組が ストなんかしたら株価が下がる? それ くらいの出血は覚悟しようではないか。 ※雑誌『労働者文学』の購入法については、こちらを http://rohbun.ciao.jp/index.html
by suiryutei
| 2015-12-29 09:02
| 文学・書評
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||