新人事制度 大阪での報告①~③
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昨夜(25日)、全水道会館で開催された<8月土砂投入ストップ!首都圏集会>は会場に溢れる200人以上の参加でした。下の写真は、沖縄現地の状況を報告する北上田毅さん(沖縄平和市民連絡会)です。 ![]() ![]() 海と風の宿 翌朝、七時前に寝床から起き出すと台所には若い女性がすでにいて、お湯を沸かしている。コーヒーを淹れてくれた。てっきり宿の娘さんだと思ったら、彼女も宿泊客である。一日前から来ているという。女性客はもう一人いて、二人は歌と踊りのデュオということであった。あちこちのライヴハウスをまわっている。最初に顔を合わしたほうがアカネさんといって踊り手。歌のほうはオチョコさんと名乗った。彼女たちとはその晩も翌晩も宿の広間で泡盛を一緒に飲むことになる。 宿とは素泊まりの契約である。二段ベッド、一泊二〇〇〇円で三泊。しかし黍(キビ)の雑炊を炊飯器に用意してあるから自由にどうぞと寝る前にあるじに聞かされた。アカネさんが味噌汁を作る。ジャガイモと何か地元の野菜の青い葉っぱが入っている。滞在しているあいだ毎朝そうだった。 二四日、ゲート前での進行役は高里鈴代さんである。「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表。この人も沖縄の運動を引っぱってきた一人だ。『沖縄を返せ』という歌を歌うとき 「この歌には色々意見もあるようですが」 軽く前置きをした。 ・・・・・ われらとわれらの祖先が 血と汗をもて守り育てた沖縄よ われらは叫ぶ沖縄よ われらのものだ沖縄は 沖縄を返せ 沖縄を返せ
この歌が沖縄の人びとによって歌われるならわかる。しかし本土でも歌う。そのまま歌っていいのだろうか。俺たちのものだから返せというのは、日本国が沖縄に対してやってきたことを思うなら、本土の人間はとても口にできないのではないか。高里さんが「意見がある」と言ったのはそのあたりを指しているのだろう。 その場では「沖縄を返せ」を繰り返すのではなく、二度目は「沖縄に返せ」と歌詞を変えて歌われた。 昼前、麓隆治さんがゲート前まで会いにきてくれた。私が一九七五年に東京中央郵便局に就職したとき、同じ課にいた先輩である。一〇年ほど一緒に働いてから、彼はUターン転勤で郷里の沖縄に帰った。今は郵便局を退職して嘉手納市に住んでいる。正午の座り込みのあと辺野古の集落まで二人で歩き、スーパーで麓さんが奢ってくれた弁当を店頭のベンチに座って食べながら 「沖縄は独立するべきだって言う人もいますよね」 「オレは独立論には与しないけれど、独立しようって言う議員が国会に何人かいたほうが日本の民主主義にとっていいんじゃない」 そんな問答をした。 『琉球新報』と『沖縄タイムス』は毎日必ず取材に来ていた。顔ぶれは連日替わる。若い女性の記者の場合が多かった。記者同士でにこやかに話したりしているところはあまり見かけなかったのは、二社は商売の上では競争相手ということになるからだろうか。 取材に来ているのだから座り込みに参加するのではない。しかし、工事用車両の搬入が迫り、私たちが機動隊員にごぼう抜きされていくときもずっと近くにいる。そのように記者が現場にいることが、機動隊員があからさまな暴力を振るうことの抑止になっているのは間違いない。だから、高江では<Press>の腕章を着けていたにもかかわらず記者が現場から隔離されたりしたことがあったのである。 南城市の市長選挙では落選した古謝景春氏が投開票日の翌日、くやしまぎれだろう、「相手候補の違反ビラを新報、タイムスが会社ぐるみで各戸に配布した」云々と自分のフェイスブックに書きこんだ。ところが、そのビラとは選挙管理委員会に届け出た法定ビラで、新聞に折り込んでの配布が公職選挙法で認められている。古謝氏はフェイスブックの書き込みを後で削除したそうである。座り込みの場で笑いのタネになっていたこのエピソード、沖縄の地元二紙が基地推進派からどう見られているかを示している。 座り込みを終えた後、夕方はまた名護警察署に行った。前日逮捕された人はこの夕、勾留を解かれ、私たちは拍手で彼を迎え入れる。
泡盛と餅(むーちー)
宿に戻る。玄関を上がってすぐの板敷は台所とつながっていて、朝はここで雑炊を食べ味噌汁を啜った。夜は泡盛の時間である。土地の若い人が来ていて、お湯割りのコップを傾けながら彼が言うには、今年はサトウキビが豊作なのに県内のトラックが基地埋め立ての砕石搬入に駆り出されているため収穫しても運送が滞っているとのことだった。 「基地なんかより地場の産業が大事なのに」 麓さんが別れ際、泡盛の一升パックと餅をくれたので、テーブルにそれを出すと、 「あっ、ムーチー!」 アカネさんの目が輝いた。 餅を沖縄ではムーチーと言う。ただの餅ではない。小豆色と紅色の二色になっていて葉っぱに包まれている(月桃の葉ということを後で知った)。甘い。沖縄では健康願いや厄除けとして旧暦の一二月八日にこれを食べる風習がある。新暦では一月二四日すなわちこの日であった。 二五日も一日ゲート前で過ごし、夜は宿の広間で泡盛を飲んだ。二六日の朝が私たちの座り込みの最後。午後の飛行機で東京に帰らなければならない。 前日から、ゲート前では川口真由美さんの歌声が響いていた。関西出身で辺野古にもよく来るミュージシャンだ。
沖縄の未来は 沖縄が開く 戦さ世を拒み 平和に生きるため 今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう
元々は、ドゴール政権を倒したパリ五月革命(一九六八年)の中で歌われていた『美しき五月のパリ』という歌を、メロディはそのままで山城博治さんが歌詞を替えた。今、ゲート前では『座り込め、ここへ』と共に一番よく歌われている歌だろう。 彼女の歌声にあわせて、つい身体を揺すってしまう機動隊員がいたのが可笑しかった。ゲート前からごぼう抜きされて工事車両搬入が始まっても、今度は私たちは国道の端からせり出すようにしてトラックの運転席にプラカードを突きつける。「NO WAR」とか「違法な工事をやめよ」とか。機動隊員がそれを規制する。言い合いになる。 「もっと下がってください」 「いやだよ。これ以上引くもんか」 機動隊員の訛りで沖縄の若者だということがわかる。トラックの運転手だって地元の人だ。ここがつらいところだ。彼らにしても生活がある。沖縄に理不尽を強いているのは本土であり、自分は本土から来ているのだから。 その本土に戻る時間が迫ってきた。一緒に座り込んだアカネさんが、夏蜜柑を一つ取り出して、周囲に分けてくれた。彼女はその夜、那覇市内でオチョコさんとライヴをやることになっている。 「いつかまたどこかで会いましょう」 そう握手して別れた。
by suiryutei
| 2018-07-26 08:31
| 文学・書評
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