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今朝も5時過ぎ、朝刊をとりに外に出ると、月は三日月で、その右上には金星が輝く。この三が日、関東は快晴である。 それにしても、夜が明ける前のこの時間、金星はよく輝く。なるほど<明けの明星>だ。 さて暮れに発行された雑誌『季刊社会評論』(スペース伽耶発行)に寄稿した文章を転写します。歴史家・服部之総について書きました。5000字近いので、ブログ記事一回分にしてはすこし長いのですが。 ![]() よみがえれ、服部之総 ~『歴史家 服部之総』(松尾章一 著)を読んで~
この夏、持っている限りの服部之総(一九〇一~一九五六)の著作に久しぶりに目を通した。とはいえ、私の書架は貧しい。彼の全集(福村出版、全二四冊)は持っていない。一〇数年前に早稲田の古書店で入手したコンパクトな『著作集』(理論社、全七冊)と、やはり古本屋で見つけた単行本いくつかがあるばかりだ。 松尾章一氏の大著『歴史家 服部之総』(日本経済評論社)が二〇一六年夏に刊行された。私が同書を購入したのがその年の暮れ。全九八〇ページを二年がかりで読み終え、改めて服部の文章そのものにぶつかってみたくなったのだ。
人間・服部之総
一九三〇年生まれの松尾氏は学生の頃から服部の私設助手を務めた。この本のどこを開いても服部の人間臭さが横溢しているのは、身近にいた人の筆だからこそだろう。服部は一九四九年一月に共産党に入党するが、わずか一年半後の翌五〇年六月には脱党届を出してしまう。その理由を私もかねてから知りたかった。ビラ貼りを家族にやらせなかったことを居住していた鎌倉の党細胞からつるし上げられて立腹したことがきっかけの少なくとも一つではあったらしい。人間臭さを感じるというのは、たとえばそういうところだ。石見国木田正蓮寺という、浄土真宗の古格な寺の一七代目に生まれた服部は、終生人民の側に立ちつつも、いわゆるダンナ的なところもあった人であるように思われる。なお脱党届は党中央の預かりになって五六年の服部の死まで離籍の手続きはされなかった。松尾氏は書いていないが、「五〇年問題」(所感派と国際派への党の分裂)なども党を脱けようとした背景にはあったかと覗わせる。 不満もある。小学校や中学時代の成績簿まで蒐集されていて、コアな服部ファンにはたまるまい。しかし、こんにち必要とされているのは、そうした詳細な評伝であるよりは、服部之総の史学そのものにまた光をあてることではないだろうか。服部の著作を読み返してそれを痛感した。 松尾氏によれば、原稿は二〇〇八年に脱稿、入力されて一六〇〇字詰め一二九六枚におよぶ。二〇〇万字を超すのである。そこで「人物編」と「学問編」とに二分し、今のところ刊行されたのは前者だけなのだ。もう原稿が仕上がっているのなら、順序を逆にしてほしかった。
三鷹事件と服部
もちろんこの「人物編」にも貴重な記述は多い。中でも重要なのは三鷹事件唯一の死刑囚となった竹内景助と服部との交流の記録である。三鷹事件は一九四九年七月、国鉄中央線三鷹駅で無人の電車が暴走して駅前の民家に突入、六名が死亡し一〇数名が重軽傷を負ったことに始まる。同じころ続けて起きた下山事件や松川事件とともに米軍占領下の怪事件である。日本共産党員と国鉄労組員を実行犯人に仕立て上げようとした。しかし、裁判を通じても捜査のでたらめさは次々に明らかにされ、結局、起訴された一〇名の被告のうち九名は無罪となる。ところが、複雑なのは、共産党弾圧を企んだ事件であったのに、被告の中で唯一の非党員だった竹内景助のみが死刑を宣告されたことである。もちろん竹内だって無実なのは間違いない。彼は獄中で無実を叫びつづけ、再審申し立てをしたが、決定が出るのを待たず、一九六七年一月、脳腫瘍のため東京拘置所で死去した。 服部はその竹内と文通をくり返し、ときには金銭のカンパも行ない、励まし続けた。竹内から服部に宛てた書簡が一四通、[第二部 戦後史のなかの服部之総]という項に収録されている。服部からの手紙のほうは未収録だが、それが実のこもったものであったろうことが竹内の返信から覗われるのである。竹内の文面について「まったくの冤罪で死刑に処せられた人間の無念さと心情の激しい動揺・・・これほど赤裸々に吐露されている書簡を見たことがなかった」と松尾氏が書いているのに私も同感する。二〇一一年一一月、竹内景助のご長男が「死後再審」の申し立てを行なった。冤罪をはらす闘いは現在も続く。これら書簡はその闘いのためにも大事な資料となるにちがいない。
日本資本主義論争
では服部之総の史学とは、どういうものであったか。それを知るには、『歴史家 服部之総』の刊行直後、『図書新聞』二〇一六年一〇月一五日付に載った歴史家・川村善二郎氏へのインタビュー記事(『いま、なぜ、服部之総か』)がよい手引きとなる。一九三〇年ごろ行なわれた日本資本主義論争は、川村氏によれば「日本の国家権力が、封建的な性格を強く持つものなのか、それとも近代的なものなのかという論争だった」「問題は、日本の近代国家における封建的な要素、わかりやすく言えば近代の君主制(天皇制)の性格の封建的な要素は、根底にあるものなのか、それとも残りものなのか。後者であれば自然になくなる。しかし前者なら、きちんと取り除かないといけない。・・講座派と労農派の論点はそこだった」。 言うまでもなく前者の立場に立ったのが講座派であり、服部も講座派の一人として論争に参加した。ところが服部のユニークな点は、労農派と論争するのと併せて講座派における内部批判もためらわなかったことである。もういちど川村氏の言を引こう。 「ところが講座派の人たちがあまりにも封建的な要素を固定化して捉える傾向が強かった。そこで『日本資本主義発達史講座』における服部さんの論文は、決してそうではなくて、封建的な要素を持つと同時に、近代、民主主義を目指す動きもあったんだと言おうとした」。
幕末マニュファクチュアとは
そうして服部が提起したのが有名な、幕末をもって「厳密なる意味におけるマニュファクチュア時代」とする説である。マニュファクチュアというのは、一つの作業場に幾人かの職工を抱え、彼らが分業に基づいて仕事をしている。まだ機械化はされていない。しかし、作業場を経営するのはすでにして産業資本である。服部は、我が国においては一八世紀後半にはこうしたマニュファクチュアが各地に生まれていたと仮説した。西陣や桐生、足利の織物業、全国に自生した酒造業・醸造業など。 産業革命を経過した欧米列強のアジア侵略に遭って、インドや中国は植民地ないし半植民地化されたのに日本はそうはならず、逆に明治維新の後ごく短期間で自ら帝国主義国となってアジアを侵略する側にまわってしまった。それはなぜか。国際情勢の違いもあったにせよ、根底には日本の当時の経済が幕藩体制の内部にマニュファクチュアを孕むところまで来ており、その土台の上に明治維新以降、機械制大工業を受け入れることができたからだとした。これは他のアジアの国々にはない状況である。先ほど仮説という言葉を使ったように、マニュファクチュアの存在が実証されたからそう唱えたのではない。『資本論』の理論に導かれて、方法的な思索の上でマニュファクチュアがなくてはならないと考えたのである。 これは、うっかりすると、アジアで唯一近代化に成功した結構な日本というおめでたい話と間違われかねない。現に姜尚中氏などは、服部の議論を一国史観の一つに数えこんで批判的だ。氏の著書『反ナショナリズム』(教育資料出版会)から引けば、「それ(服部の問題意識)は、『西洋』と較べて『後進的な』アジアにありながら、それにもかかわらず他のアジアよりもより『進んだ』日本の中世史、あるいは近世史のなかに内在的な『近代化の萌芽』を読み取ろうとする一国史的な歴史発展の論理に貫かれていた」(『反ナショナリズム』二五九ページ)。 だが、経済の発達とは本来不均等に進むものであろう。ヨーロッパでは産業資本勃興にまずオランダが前に出、じきイギリスがそれに替わったように。歴史上の一時期に、ある地域が他の地域より商品経済において一歩進んだとしても、そのことは、その地域に住む集団のなにか先天的優位のごときを示すことにはならない。むしろ、植民地になるか帝国主義となるか、その分かれ道はどこにあったのかという根拠を科学的思考において明らかにしなくては、それこそ神話的な優越史観や英雄史観に道を開いてしまうことになる。服部にとっては日本の急速な近代化は成功体験などでは決してなかった。生成期の革命性をまだ喪っていなかったブルジョアジーが農民と同盟して絶対主義権力に挑んだ明治一〇年代の自由民権運動こそは我が国におけるブルジョア民主主義革命である。秩父事件があそこまで闘われたのは、農村工業の発達(秩父の場合は生糸の生産)による農民分解がプロレタリア的要素を蜂起に持ち込んだからだ。これらの闘いが敗北したことによって「アジアの友」に対して日本が「番犬的」位置に立ち、「全帝国主義列強のためのアジアの憲兵」となったのを服部は痛憤する(著作集第一巻収録『マニュファクチュア論争についての所感』)。
福沢諭吉をめぐって
二〇一一年のHOWS夏季セミナーで名古屋大学名誉教授の安川寿之輔氏から講義を受けたとき、氏が配布したレジメにこうあった。 「・・信じ難い事実であるが、戦後日本を代表する有名な学者たちー服部之総、遠山茂樹、(一時期の)家永三郎、岩井忠熊・・(中略)・・らが、『すすめ』第三篇の目次の字面の意味に惑わされ、『絶対主義的国家意識に対抗する、近代的国民意識』、『民権の確立の上にのみ国権の確立が可能となる所以』、『国民主義と国家主義の結節』の定式化等と、丸山の決定的な誤読に追従したことです」。 名前を列記された他の諸氏は知らず、丸山的福沢理解に対する服部は批判者であって追随者ではないのではないか。そのことを私が質問したところ、安川氏は『学問のすすめ』で福沢が展開した議論について丸山が「・・個人的自由と国民的独立、国民的独立と国際的平等は全く同じ原理で貫かれ、見事なバランスを保っている。それは福沢のナショナリズム、いな日本の近代ナショナリズムにとって美しくも薄命な古典的均衡の時代であった」と述べているのを服部が「丸山氏のこの分析をわたしは全面的に支持する」と書いている(服部『福沢諭吉』、著作集第六卷収録)ことを紹介して丸山に追随している証拠とされた。 ところが今度その箇所を読み返すと、服部はそのあとすぐ「その人の言にしたがってただちにその人を規定するということは歴史家の厳に戒めなければならぬところ」と釘を刺し、さらに続けて福沢の言動にいかに嘘が多かったかを『福翁自伝』を例に挙げて明らかにしているのだ。つまり服部は、飾られた文言だけを分析すれば丸山の言うとおりだが、福沢の本質は別にあると若き丸山を諭したのである。福沢諭吉の虚像を暴かんとする安川氏の奮戦には心から敬意を払うけれども、こと服部理解についてはいささか浅くなかろうか。 服部史学とはどういうものかという問いに立ち戻れば、日本の歴史を分析するにあたってマルクス主義の理論にもっとも徹した歴史家が彼だということに尽きるだろう。服部がよく口にした「公式に徹する」とは、公式で現実を割り切る「あてはめ主義」ではない。生きた歴史的現実を法則においてつかむことである。講座派の内部批判に赴いたのも、封建的な要素を固定化してしまっては、マルクスやエンゲルスがヨーロッパの歴史から取り出してきたところの法則は「後進的」アジアには適用しないといった議論に進んでしまいかねないと危惧したからだ。この謬論が今日ますますくりかえされているから服部がいま忘れられかけているのである。ならば同じ理由から、彼の史学をこんにちに蘇らせなければならないではないか。 ![]()
by suiryutei
| 2019-01-03 11:09
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