新人事制度 大阪での報告①~③
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<全逓文学・その後の会>から【A・Z通信】の第36号(2019年12月1日付け)を送っていただきました。 いつもありがとうございます。 三ヶ月に一度発行されている【A・Z通信】に、このブログから記事のいくつかを<酔流亭日乗・抄>という形で紹介していただいているのですが、今回は初めて書き下ろしました。全文を貼り付けます。 一〇月四日に開会した第二〇〇回臨時国会冒頭における安倍首相の所信表明演説は酷かった。 高齢になっても働かなくては生きていけないのを「六五歳を超えて働きたい。八割の方がそう願っておられます」とすりかえる。県民の反対の意思は明確なのに、米軍基地の「辺野古への移設を進めます」と強引に押し出し、それでいて「沖縄の皆さんの心に寄り添いながら」と言って恥じない。
安倍「所信表明」における歴史の偽造
こんなふうにデタラメのオンパレードであったがために、演説の「終わりに」でなされた歴史の偽造が見過ごされてしまったのかもしれない。演説に対する野党指導者たちのコメントでそれを指摘した人は誰もいなかった。しかし彼は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本は「人種平等」を掲げたとして、こう述べたのだ。 「世界中に欧米の植民地主義が広がっていた当時、日本の提案は、各国の強い反対にさらされました。しかし、決して怯むことはなかった。各国の代表団を前に、日本全権代表の牧野伸顕は、毅然として、・・(中略)・・。日本が掲げた大いなる理想は、世紀を超えて、今、国際人権規約をはじめ国際社会の基本原則となっています」。 これでは日本の代表があたかも高潔な理想を掲げて世界に立ち向かったかのようだ。しかし事実はまったく違う。現実の日本代表団の獲得目標(日本政府の外交方針)は、中国・山東省の旧ドイツ権益の譲渡と赤道以北のドイツ領南洋諸島の割譲であった。世界大戦で欧州が疲弊していたのを衝いて自国の権益を拡大すること、これだけが狙いだ。 それに「世界中に欧米の植民地主義が広がっていた当時」と、植民地支配は欧米だけがやったことみたいな顔を安倍氏はするが、日本だって朝鮮を植民地支配していた。パリで会議が開催中のまさに一九一九年三月、朝鮮では「三・一独立運動」が燃え広がっていたのである。この点については演説の直後、朝鮮・韓国のメディアはただちに批判した。当然である。 日本が人種平等を掲げたというのは、国際連盟発足にあたって人種平等の条項を加えるよう提案したことを指す。しかしそれは、発足当初イギリス・フランス・日本・イタリアの四国だけだった常任理事国(理事国になる予定だったアメリカは連盟に参加せず)の中で人種的偏見を免れたいという一国的な打算によるものだった。石橋湛山は当時「我が国は、自ら実行していぬことを主張し、他にだけ実行を迫ったのである」(『東洋経済新報』一九二一年八月一三日号「社説」)と指摘している。「だから当の米国・英国が反対しただけではない。支那からも、どこからも、真面目な後援を得られなかった。もしこれらの国から心からの支援を得たなら、かの問題はああ無残に破れはしなかったであろうと信ずる」(同)。 ところで安倍演説は、去年「働き方」云々であれほど旗を振った人が、パリ講和会議の労働法制委員会での日本代表の振る舞いには頬被りしている。この委員会での各国の代表には労働運動の指導者がいたのに、天皇制下で労働運動には弾圧一本槍だった日本の代表は官僚ばかり。労働者の地位改善には関心も情熱も持たなかった。討議にあたっては賛否を判断することができず、いちいち本国に訓令を仰いだ。そして、その訓令がまるで資本家の要求そのものだ。ILO(国際労働機関)設立とか一日八時間労働を国際基準にすることなどはこのとき決まったのだが、労働法制委員会が決議する労働条件を日本はまぬがれようとして牧野全権(安倍演説が「毅然として」と持ち上げた、その牧野だ)は一〇年間の適用猶予を交渉した。①工業の労働時間②失業③母性保護④女性と年少者の夜業⑤工業労働者の最低年齢などについての規制は結局、日本には適用される除外例が作られる。牧野全権が「毅然と」抵抗した成果かもしれない。しかし世界は「日本が自国の労働者に対してさえ差別的待遇を与えるのに、外国には人種平等を要求するのは矛盾ではないか」と批判した。
世界史の綿引弘先生
この安倍「所信表明演説」を私は一〇月五日の朝刊で読んだ。その翌日、六日は、高校の同窓会があった日。会場は新宿のホテルの地階にある宴会場だった。一九七三年に卒業した学年の同期会である。こういう集まりには出不精なのに、出席してみる気になったのは、高校二年と三年の二年間、世界史を教わった綿引弘先生が出席されると聞いたからだ。 私が集会やデモに初めて参加したのは高校二年生、一九七一年だった。初めてのデモのテーマがベトナム反戦だったか沖縄返還だったのか今や記憶が曖昧だが、この二つはつながっていた。アメリカによるベトナム侵略戦争の遂行には沖縄の米軍基地が不可欠だったからである。米軍の大型爆撃機は嘉手納基地を飛び立ってベトナム空爆に赴いた。ベトナムの人たちにとって沖縄は悪魔の島だったろう。だから沖縄の人たちは日本の他のどの地域よりも強くベトナム戦争に反対して闘っていた。 そんなふうにいくらかは世の中の動きに関心を持ち出した私に、綿引先生の世界史の授業はじつに魅力あるものであった。先生は今年八三歳だから、当時は三〇代後半である。 何が魅力的だったかというと、教科書をほとんど全く使わないのである。そのかわり黒板を上手に使う。チョークで事象をつぎつぎ書いていって、その間を矢印でつなぐ。それで私たち生徒は先生にヤジルシという綽名をつけた。歴史的事件がなぜ起きたのかをこの矢印によって生徒に考えさせるのである。必然性とか歴史の法則性ということを私は先生の授業を通じて教わった。 小説家の筆による証言がある。赤川次郎である。赤川さんは同じ学校で私より数学年先輩だった。 「歴史は、いわば長い長い連載小説です。前を知らずに一回や二回、途中を読んでも、さっぱりわけが分からないように、今日は昨日の続きで、昨日はまたその前の続きなのです。 事件の原因を探れば、その原因はさらに以前の歴史の中にある。人間の歴史は決して途切れることなく、続いて来たのですから。 -こういう僕の歴史に対する見方は、中学・高校の六年間、桐朋学園で世界史を教えていただいた綿引先生から与えられたものです。 成績は下から数えたほうがずっと早い、という生徒だった僕にとって、学校での勉強はあまり楽しいものではなかったのですが、その中で、唯一、授業を心待ちに(眠くもならずに)していたのが世界史でした。 綿引先生の授業は、個々の年表的な出来事を暗記させるよりは、大きな『流れ』を教えることに力を注いでいました。そのお話は、特に中世ヨーロッパの世界にひかれていた僕には、ドラマのように面白いものだったのです」。 これは、綿引先生の著書『世界史の散歩路』(聖文社、一八九九年刊)に赤川さんが寄せた『青春の中の世界史』という文章からの引用だ。わが母校は中高一貫校であり、赤川さんの中学一年のときのクラス担任が綿引先生だった。私の場合は、先生には高校二年と三年のとき教わっただけで、世界史の授業時間以外の接触はまったくなかった。そうして卒業して四〇数年が過ぎた。
たとえ暗黒であっても
ところが、意外なところから、つい最近になって先生との縁ができることになる。私は自分が働いてきた新東京郵便局の労働現場に取材したルポルタージュ『深夜労働』を二〇一四年に書き、同年の労働者文学賞(記録・評論部門)を頂いた。この年の受賞作品はもうひとつあって、牧子嘉丸さんの評論『文学は現実をどう描いたか』である。私のルポは身のまわりの観察に過ぎないが、牧子さんの評論は日本近代文学の夥しい数の作品を読み込んで書かれた堂々たる力作だ。 牧子さんは労文受賞以前から、お住まいのある地元で『阿修羅』という同人雑誌の発行に関わってこられた。その同人仲間に綿引先生がいるということを、同時受賞以来親しくなった私に知らせてくれたのだ。それからは時々、先生とメールのやりとりをするようになった。 『阿修羅』第六七号(二〇一八年一〇月刊)に綿引先生は『たとえ暗黒であっても』という文章を寄せている。「暗黒」とは、日本と朝鮮の間の歴史の中で、日本が行なってきた数々の非道を指す。江華島事件・閔妃殺害・日本統治下における朝鮮農民からの土地取り上げ・独立運動に対する苛烈な弾圧・関東大震災下での朝鮮人虐殺・・・。そして、こう書かれている。 「日本の拉致問題が放送される度に、私は一度として、かつての朝鮮人が突然家族から切り離され、日本に拉致されて、炭坑や土木工事に酷使され命を失ったことに触れるのを聞いたことがない。強制連行された家族の悲しみは、日本の拉致被害者家族の悲しみと全く変わらない。日本の拉致被害者家族が、その被害を北朝鮮に訴える時、どうしてこの過去に言及しないのか、いつも私は違和感を覚えてきたのだった。その背景に日本人の無知があるのではないか。拉致問題の真の解決には、日本側の朝鮮人強制連行への正しい認識と謝罪が欠かせないと、私は考える」。 韓国・釜山の日本総領事館前に徴用工像を市民団体が設置しようとしている新聞記事(二〇一八年五月一日付朝日新聞夕刊)に触れては 「警官隊と揉みあう様子を報じる大きな写真も掲載されていた。これを見て私の脳裏をかすめたのは、この韓国の人びとの怒りを理解出来る日本人がどれだけいるだろうか、ということだった。単純に、自国の総領事館の前に設置されたことに不快感を抱くのだろう。大戦中は二〇〇万人、現在でも約五〇万(帰化した人は除く)の韓国・朝鮮人が日本にいる。彼らの多くは戦中に日本に渡った人々(移住者・応募者と強制連行された人)の子孫である。大多数の日本人はそのことに気づかないままでいる。まして、この像の主がかつて徴用工として強制連行され、タコ部屋に押し込められ、厳しい監視下での重労働の末、二度と親や妻子に会えなかったという悲しい事実を知らないのである。市民団体は、既に設置されている慰安婦像の隣に並べて設置しようとしたまでである」。 朝鮮・韓国と向き合うとき私たちが心に刻んでおかなくてはならないことが述べられていると思う。
朝鮮漁船の沈没 この稿の冒頭に触れた安倍「所信表明演説」から三日後の一〇月七日、日本海の日本が排他的経済水域(EEZ)と主張する大和堆(やまとたい)という海域で日本水産庁の漁業取締船と朝鮮漁船とが衝突し、漁船は沈没、約六〇名の漁民が海に投げ出された。幸い死者は出ていない。漁民たちは取締船の救出活動を受けた後、近くにいた朝鮮漁船に乗り移った。 TVニュースの画像や新聞の写真を見ると、取締船と漁船ではガタイが全然ちがう。取締船は堂々たる船体なのに漁船は小さく、はっきり言って老朽船だ。排他的経済水域から退去させるため約一時間以上、取締船から放水を続けているうち、漁船が旋回して取締船の左舷と漁船の船首が衝突したのだという。なお漁船が「違法操業」していたとは確認されていない。 排他的経済水域というのは、公海である。領海ではない。その国の沿岸から三七〇キロ以内の海を指す。衝突があったのは能登半島から約三四〇キロ離れたところだから日本の水域内であろう。そこにおける経済活動(この場合は漁業)は日本に優先権があると日本が主張するのは間違っていない。ところが地図を見てみると、衝突場所は日本列島と朝鮮半島のちょうど中間あたりでもある。つまり日本と朝鮮、双方の排他的経済水域が重なりそうな海域だ。現に、日本のメディアは全く報じないけれど、朝鮮はあのあたりは自国の排他的経済水域と以前から主張しているようだ。しかし、その境界線争いはどちらに軍配が上がるかが今ここでの問題なのではない。 そういう微妙な海域で相手を沈没するまで追い詰める必要があったのだろうか。幸い死者は出なかったとはいえ、船の沈没は人命にかかわることではないか。ところが、事件後、自民党の一部からは「甘い」「なぜ国内に連行してこなかったのか」という声が上がった。それを咎める声は野党からもメディアからも聞こえてこない。いま日本国内では、朝鮮に対しては何をやってもいい、いやもっと強気に出ろ、という声が満ち溢れているようだ。そして従軍慰安婦や徴用工問題を通じて、朝鮮と同胞である韓国にも敵意が向けられている。加害者が被害者面してふんぞり返っているのだ。それが私は日本人として恥ずかしい。 さて一〇月六日の同窓会の会場で、私は綿引先生と卒業以来じつに四六年ぶりにじかに言葉を交わすことができた。先生は八年ほど前、スキー場で衝突事故に遭われ、その後遺症が残って体調は万全とはいえないとのことだが、快活な語りぶりにかつての教室が思い出された。安倍首相のような歴史修正主義と闘う上で、先生に習った世界史は私の血肉になっている。そのことが嬉しい。
by suiryutei
| 2019-12-03 08:24
| 文学・書評
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Comments(2)
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やはり中高時代の教育の影響は大きいですね。これが今、外国語や国語の入試を民間試験に委託すれば、ますます点取り主義の授業しかできなくなるでしょう。
他者への痛みなどまったく関知しない、エゴイズムの化け物みたいな政治家・官僚・資本家に対して、立ち向かうべき青年層までがそうなってしまうのは悲しいですね。 しかし、これも大人の責任でもあり、たとえ小さな声でも発していかねばなりません。
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牧子さん、おはようございます。コメントありがとうございます。
綿引先生とはいい出会いであったと、40数年たって改めて感じ入ります。これも牧子さんが橋渡ししてくださったおかげです。感謝! 「たとえ小さな声でも発していかねば」。肝に銘じます。
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