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新人事制度 大阪での報告①~③
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雑誌『地域と労働運動』の連載記事「日本労働運動の再建のために」から酔流亭は多くのことを学ばせてもらっている。その連載の第8回目(同誌今年1月号掲載)は郵政のかんぽ不正問題について、それを労働運動としてどう捉えるかという視点から重要な指摘と提起をされていると思う。 昨日完成した『伝送便』3月号に酔流亭が書いた記事はそれへの応答のつもりである。以下、全文を転写する。
雑誌『地域と労働運動』の今年一月号で「かんぽ不正」問題が取り上げられている。同誌編集長の川副詔三さんが連載している「日本労働運動再建のために」という記事の第八回である。深く同感する内容であった。同記事から指摘をいくつか抜く。
『地域と労働運動』から
「・・究極、詰めて考えれば問題は郵政労働者に対する詐欺まがいの犯罪労働強要事件という労働問題でもある。しかも、新聞によれば八〇歳近い認知症の老人に対していくつもの不利益契約を労働者が結ばせているというのである。経営の責任ばかりではなく、労働者の腐敗をも示しているのである」。 「郵政労働社会が腐敗の巣窟となれば労働者もまたその腐敗を身にまとうのである。・・労働運動家や労働組合はそういう意味でこの詐欺まがいの不正事件をまずは労働者とその労働の問題として捉えねばならない」。 「・・私は郵政労働運動内の左翼的立場の人々が、すべての責任は経営者にある、経営者は直ちに責任をとって辞任しろ、労働者は被害者であって責任はないという基本論理の主張について、全面的に正当だとは思わない。もちろん言っていることに誤りがあるというのではない。すべて正しいとは思う。ただ、労働運動のあり方の問題として、『われわれは許されざる社会的犯罪を犯してしまった。真摯に反省したい』という態度で、いったんは不正労働を結果としておかしてしまった郵政労働者の責任と痛みとをともに背負うという姿勢をはっきりと打ち出さねば、変革の主体の位置にはたどり着けないと思う」。
労働組合の責任は
会社は初め、不正営業が行なわれてきた事実を認めることすら拒んでいた。マスメディアの報道によって実態が広く明らかになり、どうにもシラを切りとおせなくなって、去年六月、初めて「謝罪会見」に応じたが、そのときはまだ経営側の責任に触れない。すべてを現場になすりつけようとした。そうした状況の中で、経営側の責任逃れは許されないとまず声を上げることは当然であった。しかし、雇用する側とされる側の双方によって労働社会は形作られる。労働社会としての郵政をこんなに腐敗したものにしてしまったことについては、当事者の一方の労働側も、経営側にとらせなければならない責任とはまた別の次元で、やはり責めを負わなければならないと思う。不正営業に手を染めた労働者は、パワハラによってそこに駆り立てられたという点で被害者であっても、大事な蓄えを詐欺的にむしり取られた顧客に対しては加害者である。それを止められなかった労働組合には加害責任がある。
自身をふりかえる
自分自身の位置を明らかにしておかなくてはならない。私は二〇一六年に退職するまで旧全逓→現JP労組の組合員であり続けた。ユニオンに入らなかったのは、かつて旧全逓内で一緒に闘う仲間がいたからである。全逓東京中郵支部にあっては分会を足場に、東京中郵の大半の業務が新東京郵便局に移管されてからは「分会交流会」というものを新東京局の仲間たちと共に。一九九六年、これも賃金制度の能力主義的改悪である「新昇格制度」が導入されるときは旧全逓全国大会の代議員選挙に定数枠いっぱいの本部路線反対候補を立てた。結果は落選であったけれど。 しかし、ここらを境に、私たちは支部執行部から「分裂集団」「全郵政を利する」と謗られ、分会の役員から外されるようになった。東京中郵では分会役員も選挙で選んでいたのが、新東京では支部執行部からの任命制になっていた。加えて、当時盛んに行なわれていた「人事交流」で中心的メンバーが他局に動かされた。本部路線に批判を持つ分会をつなぐネットワークという分会交流会の当初の性格は失われ、役員を外された個人のつながりという面が強くなっていった。会合も勢い、排除されたことの鬱憤をぶつける場になりがちになる。そういう場では、私たちの間で生じた意見の違い・対立を、討論を深めることで克服することもできない。分会交流会は解散した。 全逓がJP労組に変わり、「新人事給与制度」導入がちらつき出した二〇一二年と一三年、私はまたも全国大会代議員選挙に立候補した。このときはただ一人での挑戦である。それを誇っているのではない。私たちの運動はそれだけ小さくなっていたのである。そうしたことの結果としてのJP労組の今日の惨状であり、かんぽ不正だ。 渉外部門で基本給が一二%カットされていたことをJP労組の役員が知らず、それを暴くユニオンのビラに「そんなことしたら暴動だ!」と反応したというエピソードを本誌去年一〇月号冒頭記事で鈴木英夫さんが報告している。渉外部門の基本給一二%カットは「新人事給与制度」に潜り込んでいたのである。しかし、私はこのJP労組役員を哂うことができない。あれほど「新人事給与制度反対」を叫びながら、私も当時それを知らなかったのだ。集中処理局である新東京の中ばかり見ていて渉外部門に目が行かなかったからだが、鈴木さんが書いているように「でも、会社はそんなまわりの無関心を衝いて、火事場泥棒のように賃金制度を改悪したのである」。 労働組合に、また私たちにも加害責任があるというのは、そういう点である。少数反対派が、多数派から、また会社から攻撃を受けるのは、ある意味あたりまえだ。それをはね返すだけの運動を創り出すことができなかったのは何故かを考えなければならない。私は、すでに現場を離れてしまって、このさき何ほどのことができるかわからないけれど、郵政の労働運動に関わり続けることで、この責めをすこしでも果たしていきたいと考えている。
民営化が足りない?
『地域と労働運動』の川副記事に、こうもある。 「かんぽ生命不正事件は利子率の低下という歴史状況の中で、生命保険も以前のような有利な資金投資先も失われ、利潤を獲得することが不可能となっているから、有利な利子を付けることが出来ず、契約者にとって年々不利な商品しか作れなくなっているという状況が基礎となっている」。 かんぽの商品が顧客のニーズに合わなくなっているとはよく聞く。ニーズに沿っていないから魅力がなく、売れない。それでも売らなければ会社に利益が出ないから、詐欺的手法を使ってまで売る。民営化推進論者に言わせれば、かんぽの保険が顧客のニーズに合わなくなっているのは、民営化が不充分で、株式の半分以上を国が背景にいる日本郵政がまだ持っているからだということになる。かんぽ生命の株の日本郵政による保有率は去年九月一日時点で六四・四八%である。だから経営の自由度に足かせがかけられて新商品の開発ができない。しかし、株式売却が五〇%を超せば、新商品の開発にしても認可制が届け出制に緩んで経営の自由度が増す。そこで民営化を進めて株式を売却していけば顧客のニーズに合った保険を開発できるだろう。一月六日に発足した増田寛也・日本郵政社長以下の新経営陣が目指す「立て直し」とは、おそらくそういう方向だろう。
保険の需要は飽和
けれども、保険業界の需要はすでに飽和状態なのである。それでも商品を売らなければ会社の儲けが出ないから、人びとが本当に必要としているわけでもない「需要」を無理に創り出し、大同小異のサービスの差を競い合う。かんぽ不正とは、民営企業としてスタートして日が浅く、そのぶん「洗練」されていないかんぽ生命がこの需要創出競争・サービス差異化競争に後れをとったために無理をしたということではなかろうか。 去年暮れに公開されたケン・ローチ監督の映画『家族を想うとき』は、あの一家の両親の過酷な働き方が話題になったが、私は一六歳の長男セブの「非行」も気にかかった。彼は仲間とともに街なかの広告の上にペンキを塗りたくって自分たちの画を描いていくのである。一見するとタチの悪い悪戯だ。しかし、母親アビーの介護労働と街に氾濫する広告とを対比させるとセブの行為の意味が見えてくる。 アビーは身体の不自由な老人の在宅介護をやっている。こうした仕事は、人びとに切実に必要であっても大きな利潤はあがらない。それでも利潤をひねり出すには、アビーのような訪問介護士には短時間で多くの家庭を回るような時間割が押し付けられる。介護の仕事に誇りを持ち、もっと親身な介護をしたいアビーはそれが辛い。葛藤する。その一方で、利潤が見込める商品には巨額の広告費が投じられて人びとの消費欲を無理やりにでも喚起しにかかる。街の広告は、そうした資本主義のメカニズムを象徴しているのであり、セブの行動はそれへの抗議なのだ。 人びとが本当に必要としているからではなく、利潤を生むために無理にも需要を作り出すというのは、たとえばダムや道路の建設でそれがやられてきた。実は日本経済の高度成長期、かんぽやゆうちょを通じてかき集められた金が財政投融資という形でそうした土木事業の財源となってゼネコンを儲けさせたことはよく知られるとおり。郵政民営化論は「無駄な公共事業をやめさせるには、まずサイフを絶つことだ」という理屈を立てて台頭したのである。現在の沖縄辺野古基地建設工事だってゼネコンを儲けさせるために、基地が必要という「建前」を振りかざしているという面がいよいよ強まってきた。 利潤原理で世の中をまわしていけば利潤が上がらない商品は不良品として淘汰されて全てうまくいくというのが資本主義の公理である。社会を運営するのにそれが一番いいと思い込まされてきた。しかし、それは違うのではないか。利潤追求原理はこんにち人びとの幸福とはかけ離れたところに世の中を持って行ってしまった。かんぽ不正の糾明は、新経営陣が目指すような「まともな保険会社になること」あたりをゴールにしてはならない。利潤追求原理そのものとぶつかり、それを規制し、いつか廃棄する方向を目指したい。 ![]()
by suiryutei
| 2020-02-29 08:31
| ニュース・評論
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