新人事制度 大阪での報告①~③
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[全逓文学その後の会]が発行する【A・Z通信】3月1日発行号が届いた。この冊子は三ヶ月に一度のペースで発行されている。いつもありがとうございます。 酔流亭は時評のようなものを書いて載せてもらった。書く場を与えていただき、これもいつもありがとうございます。 映画『家族を想うとき』に触発されて考えたことを中心に書いた。関連して「かんぽ不正」のことも。あの映画についてはこれまでにも何度か書いているが、自分としては一番書き込んだのがこの文章になっていると思う。したがって、すこし長い。6000字近くあります。 今回は長いから、明日は更新を休みますね。 去年一二月一三日に封切られた映画『家族を想うとき』(ケン・ローチ監督、イギリス映画)を、公開が始まって五日後の一八日に観に行った。有楽町駅の近くにある映画館に行くと、上映一時間ほども前であり、平日だというのに、切符売り場には列が出来ている。私は座席を指定された切符(いま大抵の映画館はそうなっている。それに一回上映ごとに入れ替え制になっているから、一昔前のように一日映画館にこもって繰り返し観るということはできない)を手に入れることができたが、開始二〇分くらい前にはその上映回の切符は売り切れになった。早めに来ておいてよかった。時間ギリギリに来て切符を買えなかった人もいたようだ。二年前に公開された同じくケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』から受けた感銘を忘れていない人たちが映画館に詰めかけているのだろう。前作では初老の大工ダニエルやシングルマザーの親子が福祉が削減されていく谷間に落とされた。今作では、いま拡がりつつある「雇用によらない働き方」の罠が働き盛りの主人公を待ち受ける。 数日後、私は自分のブログ【酔流亭日乗】につぎのような感想を書きつけた。
『家族を想うとき』のアクチュアリティ
映画『家族を想うとき』の主人公リッキーが職を転々としてから就いた仕事は宅配の配送である。会社に雇われるのではなく、配達に使う車を自分で調達して個人事業主という形で配達を請け負う。 四年前に刊行されたルポ『仁義なき宅配』(小学館)を思い出した。というのは、この優れたルポルタージュの著者・横田增生さんが行なった潜入取材の最初は、クロネコヤマトの下請け業者の軽トラックに同乗させてもらうことだったからである。取材したヤマト運輸の配送センターには自社の配送車四台の他に下請けが一台入っていた。その運転席に横乗りした。 映画のリッキーと同じように個人事業主として配達にあたる菊池さん(仮名)の報酬は荷物一個につき一五〇円強だ。そのセンターでは車両一台につき荷物は一日一〇〇個前後。朝七時から動き始めて、荷物を配り終えたのは夜九時前だった。拘束は一四時間である。報酬は一五〇×一〇〇=一万五千円くらいだから単純計算すると一万五〇〇〇÷一四で時給換算千円強だけれど、ガソリン代やら車検代、保険代など必要経費を引くと八〇〇円台になってしまう。取材が行なわれたのは二〇一四年であり、その年の東京の最低賃金は八八八円だったから、菊池さんの稼ぎを時給換算すれば最低賃金をおそらく下回るだろう。 雇用されている労働者ならば、雇用主は一日八時間を超す労働を彼にさせてはいけないし、させる場合は超過勤務手当を払わなければならない。賃金はもちろん最低賃金より低いものであってはならない。ところが、映画のリッキーや『仁義なき宅配』における菊池さんのように個人事業主ということにしてしまえば、労働者を保護するための規制であるところの労働時間制限や最低賃金制の縛りをくぐり抜けることができるのだ。イギリスでも日本でも近年フリーランスとか個人事業主という働き方が、労働者にそう選択させるように装いながら、じつは経営側によって広められてきた所以だ。 リッキーの労働時間も毎日一四時間である。妻のアビーも介護士としてそれくらいの時間はたらく。リッキーが宅配の仕事に就くとき配送のバンを手に入れるのに、アビーが訪問介護に使っていた車を売って購入の頭金とした。そのためアビーは家庭訪問するのにバスを利用しなければならなくなり、それが彼女の長時間拘束に拍車をかける。そうして二人が疲れ切ってしまうことが、一六歳の息子と一二歳の娘を加えての四人家族のつながりに陰を落としていく。 ネタバレになってはいけないので、これ以上は書かないが、一二歳の娘がじつに可愛らしい。一六歳の息子も、前途を悲観して反抗的になっているけれど本当は思いやりのある子なのだ。両親は勤勉だし、いい家族なのである。それなのに彼らに不運が次々と襲うのは何故なのかを考えさせられる。 ローチの作品でもうひとつ思うのは「非暴力」の思想だ。思えば、アイルランド独立を目指す若者たちを描いた旧作『麦の穂をゆらす風』などでもそれは貫かれていた。今作でもリッキーは反抗的な息子に手を焼きながらも、日本のTVドラマや映画に出てくる父親たちのように手を上げようとはしない。ところが終盤、どうにも抜き差しならない状況に追い込まれて、つい息子をぶってしまう。それは誤解によるものだったのだが。 けれども、その行為をアビーがただちに厳しく叱責したことが、親が子に暴力を決して振るわないできた家族であったということをかえって印象づける。『麦の穂をゆらす風』が武装闘争をテーマにしながら非暴力の思想に裏打ちされていたように。
他人事ではない
いま全文を引用した拙ブログ記事の更新日付は去年一二月二二日である。読み返してみると、視点が父親リッキー中心になっている。私が二〇歳から六一歳まで四一年間従事していた郵便の仕事は、リッキーが就いた宅配業と近接しているからである。郵便よりゆうパックに力点を移しつつある近年いよいよそうなってきた。現に日本郵便は自社の業務を以前のように郵便とだけ言わず、郵便・物流業と表現するようになった。そして日本のクロネコヤマトや佐川急便やゆうパックの仕事とリッキーのそれはほぼ全く同じだ。荷物に貼られたバーコードを読み込む端末機を持たされ、配達時間を指定されて遅れることは許されない。リッキーは初仕事のとき同僚に空のペットボトルを手渡される。尿瓶に使えというのだ。最初は冗談じゃないと呆れるが、実際、配達中は手洗い所に寄る暇も無い忙しさなのである。日本の配達員たちはそのあたりはどう処理しているのだろう。配達に出たら最後、昼食を落ち着いて摂るなんてことはできず、運転席でバナナを頬張るくらいで済ませてしまうとは聞いている。 違いといえば、映画ではリッキーがいる配送センターは全員がフランチャイズ契約で個人事業主という形なのに対して、クロネコもゆうパックも非正規雇用の時給制が主力ながら直接雇用がまだ多いことだが、前記した拙ブログ記事中に引用したルポ『仁義なき宅配』に登場する菊池さん(仮名)のように個人事業主として業務を委託されるケースも増えつつある。つまりリッキーの受難は、日本の郵便・物流業で働く者にとって他人事ではないのだ。
妻アビーの場合
ところが、年が明けて、一月五日、私は六五歳の誕生日を迎えた。その次の日だったか、介護保険の被保険者証が郵送されてくる。とうとう高齢者の仲間入りをして、介護保険の第一号被保険者になったのである。四〇歳から六四歳まででも、要介護と認定されると、こちらは第二号被保険者となるそうだ。 ともあれ、勝手なもので、介護保険を受ける資格がある身になってみると、あの映画を観る視点にもすこし変化が出てきて、今度は妻アビーが就いている介護の仕事が気にかかってくる。彼女は、身体が不自由で一人暮らしの老人の家庭を訪問して食事を作ったり掃除をしたり用便の世話をする。まだ老人とは言えない年齢の男性も一人出てくるが、彼は日本では前記した第二号被保険者にあたるような人なのだろう。彼女は週四日の勤務で、朝七時半から夜は九時まで、一日の拘束時間は前記したようにリッキーと同じ一四時間にもなる(リッキーは週六日働く)。 しかしアビーが辛いのは、仕事がきつくて長時間拘束されるからだけではない。彼女は自分の仕事に誇りを持っているし、担当する老人たちを自分の実の親に対するように親身に介護しようとする。珍しく一家が揃って夕食を囲んでいる晩に顧客の老女から体の不調を訴える電話がかかってくる。心配して老女の家に向かうのは、会社からの命令で行くのではない。普段は反抗的な息子のセブが提案して、リッキーの配送車に乗って家族全員で出かけて行く。車中、みんなで歌を唄いながら。これは映画の中でも最も美しい場面である。 アビーは、時間刻みのシフトに追われて、介護労働者としての誇りを持てる仕事をできなくされているのがつらいのだ。
長男セブの非行の意味
一二歳の娘ライザが学校の休みの日はリッキーの配送車に同乗して配達を手伝ったりと健気なのに、一六歳の長男セブはどうにも親不孝者に見える。大学に進まなければ「ロクな就職口」が無いし、進学したらしたで高い授業料という借金地獄が待っている。そんな前途を悲観して学校もサボりがち。しかし彼は美術に非凡なセンスを持っているようだ。学校を休んでは仲間とつるんで街の広告の上にペンキを塗って自分たちの「画」を描いている。その行為は大人たちには非行少年の悪質ないたずらにしか見えない。現にペンキを万引きして警察に引っ張られたセブの身柄を引き取りに行くためリッキーは突発欠務せざるをえず、配達に穴を開けたとして罰金を科せられ、いよいよ苦しいところに追い込まれていく。 私は初め、両親があんなに苦労しているのに、一六歳にもなってそんなこともわからないなんてしょうがないガキだなと思った。しかし母アビーの介護労働と街の広告を対比してみると、彼の行動の意味が見えてくるような気がする。 アビーが時間刻みのシフトに追われて納得のいく介護ができないのは、人びとに本当に必要とされているのに大きな利潤を上げることは期待できない介護のような分野には金があまり回ってこないからだろう。その一方で、儲けが期待できるなら、すでに需要が飽和状態であっても無理にでも需要が創り出される。資本が投じられ、利潤が生みだされる。資本主義経済のそのサイクルの中で重要な役割を担う一つは広告である。じつは聡明なセブは、街に氾濫する広告にそんな胡散臭さを直感したのではなかろうか。 映画の終盤、リッキーは配達の途中に例の空のペットボトルを尿瓶にして用を足している背後を強盗に襲われ、文字通り打ちのめされてしまう。重傷を負ったのみならず、配達中のトラブルは自己責任だとして、壊された端末機や奪われた荷物の賠償まで請求されるのだ。けれども父親としてのリッキーはセブの美的センスが非凡であることに気づき、彼がとってきた行動が単なる非行ではないことにも思いが至るようである。壊れかけていた家族がつながりを取り戻す兆しが仄見え、暗いばかりの結末ではない。
かんぽ不正の本質は
冒頭に書いたように、この映画を私が観たのは去年一二月一八日だった。「かんぽ不正営業」についての調査報告が発表された日である。 この「かんぽ不正」は、すでに広く知られているからここで具体例をいちいち述べはしない。一つだけ挙げれば、一月一五日に放送されたNHK「クローズアップ現代+」が伝えたところでは、認知機能に衰えがみられる八〇代の女性から二年間で七本の新しい契約をとったケースがある。保険料の毎月の払いが六〇万円だという。私たちが働いてきた郵便局の労働者が、こんな悪質な詐欺的行為にどうして走ったのであるか。 かんぽの商品が顧客のニーズに合わなくなっているとはよく聞く。ニーズに沿っていないから魅力がなく、売れない。それでも売らなければ会社に利益が出ないから、詐欺的手法を使ってまで売る。民営化推進論者に言わせれば、かんぽの商品が顧客のニーズに合わなくなっているのは、民営化が不充分で、かんぽの株式の半分以上を国が背景にいる持ち株会社・日本郵政がまだ持っているからだということになる。かんぽ生命の株の日本郵政による保有率は去年九月一日時点で六四・四八%である。だから経営の自由度に足かせがかけられて新商品の開発ができない。しかし、株式売却が五〇%を超せば、新商品の開発にしても認可制が届け出制に緩んで経営の自由度が増す。そこで民営化を進めて株式を売却していけば顧客のニーズに合った新商品を開発できるだろう。一月六日に発足した増田寛也・日本郵政社長以下の新経営陣が目指す「立て直し」とは、おそらくそういう方向だろう。 けれども、保険業界の需要はすでに飽和状態なのではなかろうか。それでも商品を売らなければ会社の儲けが出ないから、人びとが本当に必要としているわけでもない「需要」を無理に創り出し、大同小異のサービスの差を競い合う。映画でセブが塗りつぶしていった街の広告と同じだ。かんぽ不正とは、民営企業としてスタートして日が浅く、そのぶん「洗練」されていないかんぽ生命がこの需要創出競争・サービス差異化競争に後れをとったがために無理をしたということではなかろうか。 人びとが本当に必要としているからではなく、利潤を生むために無理にも需要を創り出すというのは、たとえばダムや道路の建設でそれがやられてきた。実は日本経済の高度成長期、かんぽやゆうちょを通じてかき集められた金が財政投融資という形でそうした土木事業の財源となってゼネコンを儲けさせたことはよく知られるとおり。郵政民営化論は「無駄な公共事業をやめさせるには、まずサイフを絶つことだ」という理屈を立てて台頭したのである。現在の沖縄辺野古基地建設工事だって、ゼネコンを儲けさせるために、基地が必要という虚構の「建前」をひねりだし、振りかざしているという面もある。 利潤原理で世の中をまわしていけば利潤が上がらない商品は不良品として淘汰されて全てうまくいくというのが資本主義の公理である。社会を運営するのにそれが一番いいと思い込まされてきた。しかし、それは違うのではないか。利潤が上がらなくたって人々に必要なものはあるし、その逆に必要が無いどころか有害なのに利潤が上がるがゆえに需要が無理やりひねり出されもする。利潤追求原理は、人びとの幸福とはかけ離れたところに世の中を持って行ってしまった。かんぽ不正はそのことを露呈させているのではないか。ならば、その糾明を「かんぽがまともな保険会社になること」あたりにとどめてはならない。映画『家族を想うとき』の長男セブの行為は、日本の郵便労働者OBである私をそんな思いに至らせる。
by suiryutei
| 2020-03-06 08:07
| 映画・TV
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