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昨日の続きです。【A・Z通信】掲載記事のうち、昨日は再放送朝ドラ『ひよっこ』を論じた前半を転写しました。今日は後半、ブレイディみかこさんのノンフィクション『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー・・』について。 まったく別のこの二つの作品が、『ぼくイエ』の少年がふと口にした「グリーン」という言葉で結びつく・・というのが、書き手である酔流亭の意図なのですが、さてうまくいったかどうか。 快作『ぼくはイエローでホワイトで・・』
一九二二年生まれになるはずの宗男は、どんなにビートルズに惚れ込んでいようとイギリスまで行こうとは考えない。外国は遠くにあって憧れるもの。彼はビートルズが来ているとき同じ東京の空にいるということだけで満足なのだ。ところが『ひよっこ』の物語が東京と茨城で進行していたことになっている最中の一九六五年に福岡で生まれた一女性は、これは時代が変わったということか、少女のときからのパンクロック好きが嵩じて、日本を飛び出して本場イギリスまで行ってしまった。かの地で伴侶を見つけ男の子を産み、定住している。ブレイディみかこさんのことである。彼女が去年出した『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)をこの春読んで、私はすっかりいい気持ちになった。 題名にある「ぼく」は著者の息子。「イエロー」は母親が日本人だから。「ホワイト」は父親がアイルランド人だからである。そして著者の記述から引用すれば「彼の中には『白人』と『非白人』の二つの部分が別々にあって、その二つは必ずしも一つに溶け合っているわけではないようだ」(三六ページ)。 親子三人の一家はイギリスのブライトンという町に住んでいる。イングランド南東部に位置して人口は二八万人強。海浜の観光都市として知られているところだそうだ。 少年が一一歳、日本とは学制がすこし違うのだろう中学に進学するところから始まって一六の話が収められている。最後の一六話目では一年半が経って少年は一二歳になっている。 その年齢といえば、やはりイギリスが舞台なので思い出してしまう。映画『家族を想うとき』(ケン・ローチ監督)の感想めいたことを本誌前号に長々と書かせていただいた。この映画に登場する四人家族の娘ライザも一二歳である。ライザは聡明な少女で、家族の気持ちがバラバラになっていかないよう案じていた。この少年も賢い。一一~一二歳にして、格差や貧困や差別や自分のアイデンティティについて「いっちょ前に」(著者が何度か使う表現)に悩んでいる。 著者の語り口が快い。息子への愛に溢れながら、ベタつかない。前記した格差やアイデンティティについて息子とともに悩み、ときに配偶者も交えて話し合う。配偶者は希にしか出てこないのに、なかなか存在感がある。若い頃はシティの銀行で働いていたのが、今は大型ダンプの運転手をやっていて、深夜労働にも従事する。 著者がライターの他に保育士を生業としているのは出世作『子どもたちの階級闘争』によってよく知られている。ただし、彼女が働いていた底辺託児所(底辺というのは、貧しい家庭の子どもたちが集まっていたという意味)は潰れてしまって、この本執筆時点では保育の仕事は休んでいるようだ。 イギリスはブレクジット(EU離脱)で揺れている最中だし、お隣のフランスでは黄色いベスト運動が燃え広がっている。スウェーデンで一五歳の少女が決起したことに端を発する「スクール・ストライキ」(環境問題での大人たちへの異議申し立て)も飛び火してくる。レイシズムはもちろん、性的少数者の問題も出てくるが、貧困・格差・労働問題を階級政治の軸と捉えているところに著者の面目、躍如たるものがあるように思う。これまでの著作にも「労働者階級」とか「階級闘争」という言葉を使うのを躊躇わない人だ。 しかし、階級矛盾が軸であるということは、それ以外の矛盾や差別がどうでもいいということではない。第四話「スクール・ポリティクス」の終わりのほうで息子と同じくらいの年齢の少女だった頃の自身の思い出が語られる。 九州の貧乏な家で育った。あるとき、同級生の、裕福な家の息子に「ボロい借家の子」とからかわれた。悔しくて「おまえだってあの地区の住人のくせに」と言い返した。男の子は被差別部落に住んでいたのだ。殴り合いの喧嘩になった。 二人を担任する先生が止めに入った。学校を出て間もない、若い女の先生である。少女(子ども時代の著者)は先生が何も言わないうちから下を向いて泣きじゃくった。叱られるのは自分だと思った。自分が酷いことを言ったことはわかっていたし、その先生は被差別部落の男性を好きになって、しかし周囲からも家族からも反対され、家出して部落に移り住んで結婚した人である。そのことを大人たちから聞いていた。 ところが、先生は二人を平等に叱った。 「暴力は言葉でもふるえるんです。二人とも、殴られるよりそっちのほうが痛かったでしょう」(六九ページ)。 それから四〇年後、少女は母親となっていて息子にこう語る。 「差別はいけないと教えることが大事なのはもちろんだけど、あの先生はちょっと違ってた。どの差別がいけない、っていう前に、人を傷つけることはどんなことでもよくないっていつも言っていた。だから二人を平等に叱ったんだと思う」(七〇ページ)。 著者がこういう見事な本を書くことができるのは、人格形成期にこんな先生と出会えたことも背景にあったろう。
ブルーよりグリーン
タイトルの『ぼくはエローでホワイトで、ちょっとブルー』にまた触れる。宿題のノートの片隅に落書きされていたのを借用した。それで少年に「人のメモを勝手にタイトルに使うな」「著作権料を払え」とぶうぶう言われたらしい。 ブルーというのは「悲しみ」とか「気持ちがふさぎこんでいる」ということだ。ところが少年は直近までそれを「怒り」という意味と思い込んでいたという。国語の先生に違いを教えられた。 すると落書きしたのはブルーの正しい意味を知った前か後かというのは、著者(読者にも)に残された謎である。本書中に答えは出されていない。しかし最後の一六話目のおしまいのところで少年は言う。 「いまはどっちかというとグリーン」。 そのすこし前に行なわれた環境デモに参加できなかったことに拘っているのかと著者は初め思う。裕福な子弟が通う私立校はデモがあった当日は授業を早めに切り上げて生徒たちがデモに参加できるようにしたのに、少年が通う、貧しい家庭の子が多い公立校はそういう融通を利かせない。こんなところにも格差が顕われる。授業を欠席するとイギリスでは親に罰金が科せられるという。 だが、それに拘ったのではなかった。 「いや、グリーンって、もちろん『環境問題』とか『嫉妬』という意味もあるけれど、『未熟』とか『経験が足りない』とかいう意味もあるでしょ。僕はいま、そのカラーなんだと思う」。 おや、未熟とか経験が足りないって、日本の言葉では[ひよっこ]ということではないか。日本の朝ドラとイギリスが舞台の秀逸なノンフィクションがここでつながった。 (完) ![]()
by suiryutei
| 2020-06-08 08:24
| 文学・書評
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Comments(2)
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