新人事制度 大阪での報告①~③
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[全逓文学・その後の会]が発行する【A・Z通信】の第39号を送っていただいた。36号から時評めいた文章を書かせていただいている。今回は『巣籠もりの日々に新聞やTV放映から考えたこと』と題して6500字ほどの長さになった。3回に分けて転写します。 京都大学名誉教授の佐伯啓思氏が「異論のススメ」というコラムを朝日新聞朝刊のオピニオン欄にときおり載せる。過去の寄稿を見るとほぼ三か月に一回で、この[A・Z通信]の発行頻度と同じくらいのペースだ。梅雨も本格化しようかという六月二七日(それにしても今年の梅雨がこれほど雨多く、長期化するとは!)に掲載されたときのテーマは『死生観への郷愁』。世を覆うコロナ禍に触れつつ、序盤から中盤にかけては「無常」ということを論じており、なかなか興味深く読んだ。
佐伯啓志『異論のススメ』への異論
首を傾げたくなるところもある。一七世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブスの国家論を引いて「近代国家の第一の役割は、国民の生命の安全保障となった」と述べるけれども、事実において近代国家は果たしてそのように行動してきたろうか。戦争のときや内乱のときは? 佐伯氏は二〇世紀ドイツの法学者カール・シュミットの言う「例外状態」にも触れる。戦争や内乱がまさにそれだが、そのとき国家が強権を発動して守ろうとしたのは国民の生命安全よりも国家そのものの存続であろう。 このあたりが、佐伯氏に対する私の「異論」である。しかし、そうしたことも含めて、佐伯氏の論考を読むのは思考のよきトレーニングになると思っている。 ところが今回にわかに生臭くなるのは、 「地上の現象の説明を非理性的な超自然界に求めることは今日ではタブーといってもよい。」 と、神や仏にすがることも無常観に身を委ねることも今や否定されたとして、 「そのかわりに、今日、われわれの生と死に対して責任をもつのは国家なのである。」 こう踏み込んでいく終盤部分だ。 「・・・いささか興味深いことに、今回、世論もメディアも、政府に対して、はやく『緊急事態宣言』を出すよう要求していたのである。ついでにいえば、普段あれほど『人権』や『私権』を唱える野党さえも、国家権力の発動を訴えていたのである。強権発動をためらっていたのは自民党と政府の方であった。・・」
「緊急事態宣言」をめぐって
自民党と政府が「強権発動をためらっていた」のはなぜか。土建国家の性として景気を刺激するため・ゼネコンを儲けさせるため財政出動をくりかえしてきた。その結果として国の財政赤字が膨れ上がっていた。しかも安倍政権は念願の壊憲を実現するまでは支持率をなんとしても維持したいから、不人気の緊縮政策に欧州の保守政府ほどには徹しなかった。国の財政事情はいよいよ悪くなる。ところが、コロナ禍収束のために国が前面に出るなら、経済が止まったことへの補償は国が責任を持たなくてはならない。カネを出さなくてはならない。それが嫌さに、人々の安全と衛生を守るために本当に迅速に行動することが求められたときに逡巡し傍観していたのである。「緊急事態宣言」が出された四月七日には、今からふりかえれば感染急増の最初のピークは過ぎていた。 ところが、佐伯氏は「自民党と政府」のそうした事情や誤判断については何も言わないから、慌てふためいていた世論や野党に比して「自民党と政府」は何か理性的にふるまったかのように読ませてしまう。 そのかわりに佐伯氏の舌鋒は、日ごろ国家権力の横暴への非を鳴らし暴力装置呼ばわりしておきながら何だとばかり、世論や野党やメディアに向かう。 「・・・いざという時には国が何とかしてくれる、というわけである。国家はわれわれを守る義務があり、われわれは国家に命を守ってもらう権利がある、といっているように私は思える。ここには自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない。・・」 トマス・ホッブスやカール・シュミットを縦横に論じる人が、ここへきてずいぶん粗雑な議論をされる。
国家とは何か
国家の本質は抑圧機能にあると私は思う。ホッブスもこのことを否定しないはずである。彼が国家をそれに象徴させたリヴァイアサンとは、暴力に裏打ちされた絶対権力だ。しかし本質は抑圧機能だと言ったところで、国家は人民を抑圧する以外の機能はいっさい持たないということにはならない。その社会を構成する者同士の諍いを調停したり、衛生や福利に責任を持つことも国家の仕事だ。であればこそ人々は税金を払うのである。国家が抑圧機能しか持たないとしたら、自分を抑えつけるだけの相手に、人々は(文句を言いながらであっても)税金を払いはしない。国家の本質たる人民抑圧にしたところで、国家が日ごろ公的に機能していなければうまく貫徹されえないのである。 今回のコロナ禍にあって、人々が政府にすみやかな対応を要求したのは、国家のこうした公的機能をちゃんと発揮せよ、という当然の要求を行なったに過ぎない。「自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない」などと揶揄するのはお門違いだ。 ただ、私たちが用心しなければならないのは、国家のこの両面(人民抑圧と公共的機能)はきれいに切り分けられているのではないということだ。権力は公共的な機能の中に抑圧的本質を忍び込ませてきもする。だから、メディアや野党が「緊急事態宣言」を早く、と求めたことには権力の本質への警戒心を欠いていた面があったのは否めないと私は思う。「宣言」など出さずともやれることはあった。しかし「自民党と政府」以外が一色で「緊急事態宣言」を望んでいたわけではない。朝日紙面で言えば四月一七日付け紙面における石川健治・東大法学部教授のインタビューは「緊急事態宣言」に批判的であった。 また、佐伯氏には馴染みの薄い界隈だろうが、市民運動や平和運動のグループの間では「緊急事態」への警戒は強かったのである。自分の筆の運びに都合よいように一色に事態を染めないよう、佐伯氏にお願いしたいと思う。
「武器を持つ自由」を考える
「自分の生命はまず自分で守るという自立の基本」という佐伯氏の言についてもう一言すれば、その「基本」とやらがかなり徹底しているのがアメリカ合州国の銃社会であろう。けれども、これを「自立の基本」とばかり持ち上げていいものかどうか。あの国の「銃を持つ権利」とは、国家権力に対峙するものとしての「人民の武装権」と似ているようで非なるものである。それは各自の私有財産を腕づくで守る権利ということに他ならない。 合州国の歴史に即して言えば、南北戦争さなかの一八六二年、大統領リンカーンが成立させた自営農地法(ホームステッド法)は、公有地を五年間開墾すれば一五〇エーカーの土地を無償で得られるとした。この法律によって一九世紀末までに約五〇万の家族が西部に土地を得た。しかし、白人にとっては無主の「公有地」であったとしても、そこにはずっと前から先住民族が暮らしていたのである。五〇万の家族がそれぞれ一五〇エーカーの土地を得ていったのは、先住民が追い立てられ、抵抗すれば迫害されていったのと同じ過程であった。今年六月NHKBS放送で放映された『ダンス・ウィズ・ウルブス』(一九九〇年、ケビン・コスナー監督)から、この映画も商業主義的に歪められた部分をいくらか感じたとはいえ、先住民が侵略され土地を追われていく実相を窺い知ることができた。ある推計によれば一六〇〇年~一八四五年の間およそ一一〇〇万人いたと考えられる先住民が、一八七〇年には実に二万五七三一人に激減している。直接の虐殺の他に白人が持ち込んだ病原菌による疫病死もあったようだ。本来は革命的であるはずの「銃を持つ権利」が人民の武装権から我利我利の「私有財産を守る権利」へと意味転換していったのは、こうした先住民殺害・侵略を通じてであったろう。 年間で約四万人が銃で命を落とす国・アメリカ。しかも有色人種の比率が高いという人種差別そのものの死者数であるのは、こんにち日々のアメリカからの報道で知らされているところだ。 (つづく)
by suiryutei
| 2020-08-24 08:33
| 文学・書評
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