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昨日の午後、NHKBSで映画『鉄道員』を視た。同題で<ぽっぽや>と読ませる邦画もあり、これも浅田次郎原作・高倉健主演の佳作(1999年制作)であるけれど、酔流亭にとって映画の『鉄道員』といえば、やはり断然こちらのイタリア映画のほうだ。ピエトロ・ジェルミ監督・主演。1956年制作(日本での初公開は1958年)。 初めて視たのは高校生のとき。故・淀川長治が解説をしていた日曜洋画劇場での放映であった。・・ここまで書いたところでネットを見渡してみると、1971年7月に日曜洋画劇場でこの映画を視たと書き込んでいる人がいる。すると、酔流亭もそのときの放映を視たのである。高校二年生であった。音声は日本語に吹き替えられているし、放送時間の枠内に収めるためあちこちカットされていたろうとはいえ、こういう映画にTV放映ながら接したことを通じて、酔流亭少年は映画が好きになっていったのであった。 さて、65歳になった酔流亭老人は、この映画を改めて視て、つい比較してみたくなるのは去年暮れに観たケン・ローチ監督の『家族を想うとき』とである。作品の優劣ではない。その点ではどちらも秀作であり、こういう作品を並べて甲乙を付ける気にはとてもならない。 比べてみたいのは、そこに描かれた労働者の置かれている状態だ。 『家族を想うとき』の一家は夫婦と息子と娘の4人。夫は宅配ドライバーとして、妻は訪問介護士として、それぞれ一日13時間ぐらい働く。外食はおろか、勤務時間もすれ違うから夫婦で<家呑み>することもない。それだけ働いても生活はギリギリだ。 『鉄道員』の一家は夫婦と長男、長女、それに末っ子の男の子の5人(この末っ子の小学生の目を通してという形で映画は進む)。特急の運転士(鉄道員として花形職種だろう)である夫マルコビッチは自分一人の稼ぎで家族5人を、贅沢をしなければ食わせていくことが出来る。だから彼は家の中ではかなり専制的で、それがホーム・ドラマとしての起伏になっていく。 『家族を想うとき』の息子や娘は、食事時間に両親が不在なのが普通になっているから、冷凍のピザやパスタをレンジで温めて食べたりすることが多いのに対して、『鉄道員』の家庭では粗食であっても妻が作る温かいスープが用意されている。 それに酒好きのマルコビッチには、勤務のあと居酒屋で閉店までワインを飲み続けることが出来るくらいの小遣いがある。そんな長年の飲酒も祟って、映画の終盤、クリスマスの夜に亡くなるまでの数ヶ月を彼は自宅で療養することになるのだが、働けなくなっても一家の生活が立っているのは、休業補償など労働者の権利が確保されているからだろう。初めて視た高校生のときにはあまりよくわからなかったけれど、労働組合というものの存在の大きさの上にこの映画のストーリーは展開しているのである。だからこそ後半、自暴自棄になったマルコビッチがストライキの最中に特急に乗務してしまう(スト破りをしてしまう)行為は深刻なのだ。 『家族を想うとき』の夫リッキーはまさに労働者そのものの業務をしているのに自営業者という形で宅配会社と契約しているから、どんな理由であれ仕事を休めば休業補償どころか罰金や損害賠償を請求される。こちらの映画で労働組合が存在を覗わせるのは、妻アビーの訪問介護先の老女が炭鉱労働者のストライキの思い出をアビーに聴かせるときだけである(つまり監督ケン・ローチはそういう形で状況を打開する方向を示唆しているわけだが)。 初めて視たときはもしかしたらカットされてたのかもしれない。酔ったマルコビッチが居酒屋で労働組合に対する不満をぶちまけたとき「組合の指令で破壊活動もした・・」と語る場面がある。これは反ファシズムのレジスタンスに参加していたことを指すのだろう。『鉄道員』が制作されたのは1956年だから、ファシズムから解放されて、まだ10年ちょっとしか経っていない。イタリアの鉄道労働組合は自国のムッソリーニ・ファシスト政権と、またナチス・ドイツのファシストたちと果敢な抵抗闘争を組んだのである。マルコビッチの組合に対する不満は、そういうふうに闘ってきた組合員が困難に直面しているとき(このとき彼は不運な事故を起こして特急乗務から外されていた)、労働組合はそれを個人の問題にしてしまって、組合員に寄り添おうとしないではないか、ということであった。 ファシズムを打倒する闘いに労働者が果敢に参加したことなどを通じて労働者が闘いとってきた権利が、いま新自由主義の下で奪い取られている。『鉄道員』から約60年後、『家族を想うとき』でリッキーらの置かれた状況だ。新自由主義は、ファシズムとはまた違った形で仕掛けられた、資本の側から労働者に対する階級闘争なのであろう。 昨日の午後、カルロ・ルスティケリ作曲になる哀愁あふれる映画主題曲を聴きながら、そんなこともまた考えたのであった。
by suiryutei
| 2020-09-04 10:20
| 映画・TV
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