新人事制度 大阪での報告①~③
最新の記事
タグ
労働(124)
辺野古(46) 郵便局(43) 文学(31) コロナウイルス(31) 韓国(19) 朝鮮半島(12) 映画(11) NHK朝ドラ(10) ひよっこ(9) 大西巨人(9) なつぞら(8) 神田まつや(8) 労働者文学(8) 神聖喜劇(7) 関西生コン労組(6) 狭山事件(6) ブレイディみかこ(6) ケン・ローチ(6) 蕪水亭(6) 最新のコメント
記事ランキング
カテゴリ
以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 more... ブログジャンル
画像一覧
検索
|
HOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)連続講座[大西巨人の批評を読む]の第4回目が一昨日2月27日(土曜日)の午後、本郷三丁目にあるHOWSホールで開催された。下は当日配られた講座ニュースで、載っている写真は前回1月の3回目の講座の様子だが、一昨日も同じような雰囲気での開催であった。 今回採り上げられた大西批評は『コンプレックス脱却の当為』である。中野重治の詩『雨の降る品川駅』(1929年)について、また同詩をめぐるさまざまな言説に対する大西巨人の考えが述べられている。報告をされたのは山口直孝・二松学舎大学教授。大西の文章が書かれた1997年当時の思想状況も目配った周到な報告で、酔流亭は納得が行った。 中野の『雨の降る品川駅』で議論になる点はいくつかある中で、ことによく論じられるのが終盤に置かれた<日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾>という一行だ。このあたりについては、このブログでも先月17日更新記事ですこし触れた。 中野重治自身の自己批判もある。中野は、自らもその中にいる日本の左翼運動が朝鮮・沖縄・被差別部落の問題等々をどこまで深く我が事として受け止めていたか、重大な欠落があったのではないかを反省しているのである。 その自己批判は真摯なものだ。ところが、上掲17日更新記事でも触れた「朝鮮プロレタリアートを日本のそれの弾よけにするのか」といった類いの批判は、中野の省察にいわば乗じて、作品の解釈をねじ曲げるものだろう。 大西巨人が中野の「『前半期の言行についての自己批判』類の過半を私が至極うとましく冷淡にー消極面五分・積極面五分、むしろ消極面六分ないし九分・積極面四分ないし一分、もしかすると消極面十分・積極面零分(すなわちこんな紛らわしい『自己批判』なんかなあらずもがな)・・」と書く所以だ。 (下の写真は大西の自筆原稿のコピー。山口教授が講座の資料のひとつとして提供) 大西の文のその箇所を初めて読んだときは、この人はどうしてこんなくどくどしい書き方をするのだろうかと酔流亭は訝った。こういう書き方をするから、たとえば『神聖喜劇』にしたって、あれだけ質が高い小説なのになかなか受け入れられず評価を得るまで時間がかかったのではないか、と。 けれども、しちくどく書かないことには正確に表現できない、ということもある。真摯な自己批判と悪意によるねじ曲げが玉石混淆しているからだ。 文学の世界だけのことではない。【いてんぜ通信】寄稿文を酔流亭は昨日まで3回にわたってこのブログに転載してきた。あの文章を書くにあたっては「資本論」について考えるついで・・と言っては語弊があるが社会主義のこともいくらかは考えてみた。攻撃からは守りながら、運動についての省察・自己批判が絶えず必要だ。どっちも欠かせないのである。
by suiryutei
| 2021-02-28 17:01
| 文学・書評
|
Comments(4)
Commented
by
隅田のカッパ
at 2021-03-01 11:56
x
西田信春の獄中からの手紙をめぐって、丸山珪一の論文(1990年)で、
西田は、三一年テーゼ草案に基づいていると指摘していますが、誤りです。 西田は、といいますか、当時の中堅活動家の論議は二七テーゼをめぐってモナーキー云々の論議があったことと丸山が取り違えているのではないでしょうか 「品川駅」の詩を、中野自身が、西田に「拙かった」と言ったのは、 二七テーゼが日常の闘いに結びつかいないことや、大逆事件以来の弾圧という困難があったのでしょう 中野は、モナーキーを覆すことを朝鮮人プロレタリアの任務にしたことが「拙かった」と言ったのではないでしょうか。問題は、日朝連帯の内容で、表現の「拙さ」だけではないはずです。民族排外主義の限界が厳然と存在していると思います。 まえ盾、うしろ盾の解釈ですが、 中野にとっては、日本と朝鮮の闘う仲間が一体であるという意識があったのではないでしょうか。 この詩が民族排外主義、民族利用主義に陥っているというのは、現在の地平からみた解釈で、言い過ぎです。しかしキムさんの糾弾が、日常普段の民族差別にたいして融和主義に陥らず、糾弾を通じて連帯と共同闘争を呼びかけているという点で、誠意をもって応えていくべきです。大西巨人の「コンプレックス脱却」はそれにこたえようとしていると思います。 当時の日本の活動家の意識には、前になり後ろになって日本の活動家と一体になって闘う朝鮮プロレタリアが存在していたのだと思います。この詩からそれが力強く読みとれます。大西の主題は、このことを断固として突き出すべきということのはずです。 しかしそれは、当時において民族排外主義に陥っていないからそうであるにすぎません。その意味で、成果と限界を示している詩であり、動的な詩であり、階級闘争の詩です。したがって現状のままでいいのだということにはならないのです。中野ののちの自己批判は、そのように受けとめることができます。 日本のプロレタリアにおいて厳然としてある民族排外主義と闘うことを通じて連帯する、という視点から書かれた詩だということはできせん。 しかし、にもかかわらず民族排外主義との闘いと天皇制打倒とを結びつけて、朝鮮プロレタリアの敬意と連帯を高らかに歌う点で、すぐれていると思います。
3
Commented
by
suiryutei at 2021-03-01 16:15
添田さん、コメントありがとうございます。
同感です。ことに後半に強く共感しました。
Commented
by
牧子嘉丸
at 2021-03-01 23:30
x
先日はどうも。講座では西田の「拙かった」の意味が問われませんでした。私は共産主義者がテロを容認したり、君主制の打倒だけに専念するのを「拙い」と言っていると思いましたが、添田さんに指摘も大事ですね。
この詩を読んで「民族主義むきだし」などという北川透の解釈は論外ですが、朝鮮人プロレタリアから見たら、そこに何らかの共感と不満、つまり「成果と限界」を感じての批判だったかもしれません。講座で添田さんに問題提起してもらいたかったですね。
Commented
by
suiryutei at 2021-03-02 08:31
牧子さん、おはようございます。
もっと討論したかったですね。コロナ禍で仕方ないのですが、読書会ではあとのフリートークが大事だと思います。早く収束して、それができるようになるといいのですが。
|
ファン申請 |
||