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今日から8月! 前回更新記事で予告したとおり、『伝送便』8月号に寄稿した書評記事を転写します。 著者は一九六五年生まれ。パンクロック好きが嵩じて渡英し、同国のブライトン市でアイルランド出身の夫、中学生の息子と暮らす。息子が成長するのを見守りつつイギリス社会を地べたから活写した『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(二〇一九年)がベストセラーになったのは記憶に新しい。 今年六月刊行の本書は、その『ぼくイエ』の第五章[誰かの靴を履いてみること]を承けている。二年前、中学に進学して間もない息子の期末試験に「エンパシーとは何か」という問題が出た。息子はそれに<自分で誰かの靴を履いてみること>と答えたというのである。英語の定型表現で、他人の立場に立ってみるということだという。 それ(エンパシー)は共感力と日本語に訳されることがある。でも、ちょっとちがう。たとえば人種差別発言をする人がいる。その発言に賛成・共感することは決してできない。しかし、その人に人種差別発言をさせるものは何だろうかを考えることはできるし、差別を無くしていくためにも必要なことだ。 しかし、エンパシーには落し穴もある。イギリスも日本も製造業が衰退してきたから、労働者階級の多数を占めるのは今や工場労働者よりも介護士や保育士、看護師などのケア労働をする人とかサービス業従事者だ。著者も今はライター専業のようだが、このあいだまでは保育士であった。ケア労働やサービス労働をする人は、仕事柄、相手を思いやる能力に長けてくるのである。いっぽう、支配階級は周りにかしずかれるのが日常だから、相手を思いやる能力なんて、てんで育まれない。安倍晋三や麻生太郎を思えば納得する。 すると、どういうことになるか。「支配者たちはまったく庶民の厳しさなど考えもせず(だいたい成功する人たちは強い自我を持つ人たちなので)、ただ財政規律を守ったという数字の実績を残して自分が出世したいために福祉や医療や教育への支出を削り続けているだけかもしれないのに、下々の者が為政者へのいらぬエンパシーを発揮してしまうのだ。『政府にも苦しい財政事情があるのだから』と」(二三六ページ)。 そうならぬために著者が提唱するのは、エンパシーと、自分を貫く反逆的なアナーキーとを繋げることである。本書の副題が「アナーキック・エンパシーのすすめ」となっている所以。私が読後に思ったのは、一九世紀ロシアの革命的民主主義思想家チェルヌイシェフスキーが遺した小説『何をなすべきか』である。そこで展開される理性的エゴイズムー利己的であることと利他的であることとは必ずしも相反しないーと本書に述べられる思想との距離は近い。チェルヌイシェフスキーはレーニンが敬慕した人だが、この点では無政府主義者クロポトキンもレーニンに劣らない。金子文子や急逝したデヴィット・クレーバーとともにクロポトキンが本書では何度も言及される。チェルヌイシェフスキーの思想がクロポトキンの良き面を通じて著者に伝わっているのだろう。 (文藝春秋社、税込み一五九五円) ※関連するものとして、同じ著者による『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(2019年)を論じた過去記事を貼り付けます。
by suiryutei
| 2021-08-01 08:00
| 文学・書評
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