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「精神科通信」寄稿『資本論をめぐる雑談』の転写二回目は白井聡『武器としての「資本論」』を取り上げています。 ![]() (二) 寅さんと<包摂>
4月に刊行された『武器としての「資本論」』を手にとったのは、梅雨がダラダラと明けない7月だった。晴耕雨読とばかり夢中になって読む。映画『男はつらいよ』を引いて『資本論』に出てくる<包摂>を説明するあたりは感心した。 シリーズ第一作目、妹さくらの見合いが寅次郎のせいでダメになってしまう場面である。見合いの相手は彼女が勤めている会社(丸の内にある大企業であって、彼女はそこでキーパンチャーをやっている)の子会社の社長令息。つまり、さくらにとっては玉の輿になる縁談だ。 ところが、同席した寅次郎が、酒が入るにつれ、いつもの調子で「くだけて」いってしまい、寅次郎・さくらの兄妹と相手方の社長一家との所属する"階級差”みたいなものが露わになっていき、結局縁談は流れてしまう。 その寅次郎は、普段は裏にある印刷工場で働く青年たちに 「あいつ(さくら)は大学出のサラリーマンと結婚させるんでぇ。てめえらみたいな職工には高嶺の花だよ」 こう毒づきながら、一方、その職工の一人である博がさくらへの思いを 「僕は親兄弟もいないも同然だし、大学も出ていないから・・」 と、学歴の無い貧しい労働者であることに引け目を感じて彼女に打ち明けられないでいるのを 「お前は大学を出なきゃ嫁は貰えねぇってのか? ああ、そうかい。てめえはそういう主義か?」 そうどやしつけもするのである。 たしかにここでの寅次郎の言動は矛盾している。 前者は、最愛の妹を「階級上昇」させてやりたいという思いだ。ところが、後者から覗われるのは、その「階級上昇」という行き方に対する反撥なのである。 しかし、相反するようなそういう両方の思いを我々はたいてい持っている。だから映画の観客は、寅次郎は矛盾しているなどと野暮を言わず、違和感なく受け入れてきた。 ところが、最近の若い世代からは違う反応が観察されるようになってきたらしい。どういうことかというと、寅次郎が自分の地を出してしまって妹の「良縁」を壊してしまったことへの批判しか覗われない反応が、若い世代から出てきているというのだ。 <性格に難がありすぎて結婚もできない独身の自称テキ屋という男が、やりたい放題やっているだけ> <クソみたいな男> 寅さんがクズにしか見えないのは、「階級上昇」に対する反撥が効かなくなってきたということであろうか。白井の表現では「資本主義的価値観への同調に対するためらい」(83ページ)が弱くなってきたということだろう。 『資本論』での包摂は、機械制大工場で労働者が単調な作業をくり返すうち、自律性を奪われて資本の命令に従うようにさせられていくことを言うのだが、このように資本主義的価値観に抱き込まれてしまうのも包摂の今日の形態だ。
『共産党宣言』VS『資本論』
いっぽう不満も残る。一番引っかかるのは終盤、階級闘争について著者が突っ込んで論じ出す第12講~14講だ。 同じマルクスの著作でも『共産党宣言』(エンゲルスとの共著)のほうを「言ってみればマルクスの革命家時代の著作です」と白井は断言する(243ページ)。この書き方では、革命家時代とそうでない時代とがマルクスにあったみたいである。ロンドンに亡命して『資本論』の執筆に打ち込んでいた時期のマルクスを革命運動からもう卒業して研究者になったと思い込んでいるらしい。 「私は、マルクス自身が革命の闘士としての第一線から退いたことで、逆にどうすれば革命が可能になるのか、理論的に練り直すことになったのだろうと思います。」(248~9ページ) なるほど亡命生活を強いられたことでマルクスの実践活動上に色々制約があっただろうことは想像がつく。それを「第一線から退いた」と表現したっていい。現実には第一インターナショナル結成(1864年)に向けた実践活動を止めてはいないし、米大陸で起きた南北戦争にあたっては奴隷解放令支持のメッセージをインターナショナルとして採択するとき「そんなことは関係ない」という消極派を説き伏せたのもマルクスである。インターナショナルにリンカーンから送られてきた感謝の返書が残っている。 しかし、そのあたりは、まあいい。問題は、それに続くこんな叙述だ。 「練り直した結果、『資本論』では革命の話は出てこなくなりました。おそらく革命の話をするよりも、<資本主義社会とは何か>という問題について、底の底まで見通さなければならないと考えたのでしょう。」 一見わかりやすい説明のようで、その実いかにも浅い理解である。 ここは「革命の話をするよりも」ではなく、「革命をするためにも」と書かれなくてはならないのではないか。 1848年の『共産党宣言』から1867年の『資本論』第一巻の間にマルクスの思想が深化していったのは当然である。その深化は『資本論』第一巻以降も続く。それを追うには、斉藤幸平のほうの『人新世の「資本論」』が参考になる。『資本論』において革命家マルクスが喫緊にやらなければならなかったことこそ資本主義社会の仕組みをとことん分析し解明することだった。だから叙述がそこに集中し、革命へのアジテーションみたいな文章があまり覗われないからといって、マルクスが革命家であることをやめたことにはちっともならない。 ところが白井は、 『共産党宣言』における革命家マルクス VS 『資本論』での研究者マルクス あるいは 『共産党宣言』=階級闘争 VS 『資本論』=構造主義 という奇妙な割り切りをしてしまう。構造主義とは、著者の解説を借用すれば「社会を構造として把握する方法論」(253ページ)のことだが、しかしそれなら階級史観だってそうでなかろうか。
等価交換の廃棄とは
白井の本を読んで得た最大の収穫は、エフゲニー・パシュカーニス(1891-1937)というマルクス主義法学者の存在を知ったことだ。最終の14講に出てくる。 ロシア革命後の1920年代から30年代にかけて、ソビエト法学を主導した人。30年代に粛清の犠牲になったが、50年代後半に行なわれたスターリン批判の中で名誉回復する。 パシュカーニスが目指したのは「等価交換の廃棄」であったという。ただ白井は、それはどういうことかについては説明してくれない。思うにそれは、まずは「等価交換を通じた搾取の廃棄」ということではなかろうか。そう理解すれば『資本論』におけるマルクスの分析ともつじつまが合うからだ。資本主義社会がそれ以前の社会と違うところは、労働力商品の売り買いという「等価交換」を通じて搾取が行なわれていることであり、その仕組みを明らかにしたものこそまさに『資本論』だからだ。賃金として顕わされるその商品の価格(価値)以上の価値を産み出すところに労働力という商品の使用価値があるということである。 本当のところは、資本制社会における労働力商品の売り買いだって厳密には等価交換ではない。資本と労働の力関係、労働力商品の買い手と売り手の関係は、たいてい前者のほうが強いから、売り手(労働者)は買い叩かれてしまう。しかし、原理としては等価交換ということになっているのである(だから、その原理に照らして「安く買い叩かれた」という判断ができる)。 そこで、資本制社会にあっては国家や法律の役割も、それ以前の社会でのように搾取階級が腕づくで収奪する(経済外的強制)のを支えることより、労働力商品の売り買いという等価交換が潤滑にまわっていくのを担保することに置かれる。パシュカーニスが言いたいのは、そうした資本主義的搾取を廃棄するということではなかろうか。
収奪者の収奪
問題は、そうした資本主義的搾取の廃棄はいかにして行なわれるかだ。等価交換を通じて被搾取者を搾取している人びとに退場していただくことを通じて以外にはなかろう。『資本論』の中の有名な <資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される> は、そのことを言っている。 ところが白井は、この「収奪者が収奪される」を矮小化してしまう。 「実はこの部分は『資本論』全体の体系から見て、いささか疑問を感じざるを得ない記述です。<資本家をやっつけよう>と言いたいのだとしたら、<ではどうしたらいいんだ>ということになる。<とりあえず隣の資本家をぶん殴ればいいんだ>と言う人もいるかもしれません。」(13講、252ページ) 大学で教えてもいる白井は、普段こういう調子で教室の笑いをとっているのだろうか。 資本家が悪いのではなくて資本制社会の構造に問題があるといったようなことを白井は続けて述べる。これはそのとおりだ。問題はその先にある。そういう構造の社会によって利益を得ている人たちは、人間として悪人ではなくたって、その社会の存続が脅かされるような事態に直面すれば死に物狂いになる。残忍なことだって、平然としてやったか悩みながらやったかどうか知らないが、とんでもない酷いことだってやる。 ![]() 一昨年出版されて、この手の本では意外にもベストセラーになった『独ソ戦』(岩波新書)の著者・大木毅氏は防衛省や陸上自衛隊幹部学校の講師を務めた経歴をみても、間違っても親社会主義のプロパガンダをやるような人ではなかろう。しかし、その実証的な叙述から覗われるのは、ナチス・ドイツの異常さだけではない。国際ブルジョワジーの総体がナチスを後押ししてソ連邦人民絶滅戦争をけしかけたことである。その結果が独ソ戦におけるソ連側の死者約2700万人という途方もない数字だ。『独ソ戦』は反撃に転じてからのソ連軍の報復の凄まじさにも目を塞がないが、ジェノサイトを仕掛けたのはナチスからであり、ドイツ内外のブルジョアジーはそれを使嗾するか黙認した。日本の天皇制権力とブルジョワジーはナチス・ドイツの直接の同盟者であった。 そうした相手とのせめぎ合いだから、社会主義には随分な無理や強引も重ねられ、それが祟ってソ連も東欧も倒壊してしまったが、それは笑い話にすることではなかろう。 (つづく) ![]()
by suiryutei
| 2021-09-04 08:00
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