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この回では齋藤幸平『人新世の「資本論」』を論じます。ブログをずっと読んでくださってきた方には既読感があるかと思いますが。 ![]() (三) グリーン・ニューディールあれこれ
九月に出た斉藤幸平『人新世の「資本論」』について私は『労働者文学』という雑誌に短い書評を書いた。まずそれをここに写す。 ![]() 「人新世」とは、人類の経済活動が与えた影響があまりに大きく、地球は地質学的に見て新たな年代に突入したという意味だという。 産業革命以降の地球環境破壊がいかにすさまじいかは、すでに多くの人が語るところ。その破壊を止める道として、いま言われているのがグリーン・ニューディールだ。緑と、一九三〇年代の大恐慌から脱け出そうとする方策だったニューディールとが結びあわされていることから知られるように、それは「環境にやさしい」新産業を起こすことによって経済の長期停滞からも脱しようという一石二鳥を狙った策である。だが、それによって環境破壊を止めることはできるのか?否というのが本書の立場だ。もっとも、同じくグリーン・ニューディールを唱えるといっても、イギリス労働党の前党首だったコービンのような運動の中から出てきた左派と、それをむしろビジネスチャンスにしようとする企業サイドとではニュアンスの差がある。前者は、社会運動の発展しだいでは著者が目指す脱成長コミュニズムの立場に近づいていくかもしれない。著者が気候ケインズ主義と呼ぶ後者は、あくまで資本主義の枠の中でしか発想しない。 なぜ気候ケインズ主義ではダメなのか。たとえば二酸化炭素排出を減らす救世主のように言われている電気自動車。ガソリン自動車を全てこれに置き換えるなら、巨大な新市場と雇用が生まれるし、環境にもやさしい。ところが電気自動車に不可欠なリチウムイオン電池のリチウムは南米アンデス山脈沿いの地域に埋まっている。乾燥した地域で長い時間をかけて地下水として濃縮されている。リチウム採掘には大量の地下水を汲み上げねばならない。これが地域の生態系に重大な影響を与えるのだ。「先進国における気候変動対策のために、石油の代りに別の限りある資源が、グローバル・サウス(グローバル化で被害を受ける地域・引用者)でより一層激しく採掘・収奪されるようになっているにすぎない」(84ページ)。一事が万事こうであることが、本書の前半では他の例も引いて詳しく述べられている。 「資本とは、価値を絶えず増やしていく終わりなき運動である」(132ページ)。だから資本主義の下にあるかぎり人類は経済成長を手放すことができず、環境破壊は止まらない。ならば資本主義を終わりにしなくては。著者が社会運動を重視するのにはグラムシの「陣地戦」をふと思った。中央の政治権力を奪取する前に社会の隅々で人民の側が権力から主導権を奪っていくのである。ただグラムシはその先に権力奪取を展望するが、本書ではそこはまだ不明確。著者の言う脱成長コミュニズムの中身と併せて、さらに考えていきたい。・ (『労働者文学』第88号51ページ) <物質代謝>の修復と脱成長コミュニズム
『資本論』から物質代謝という概念をクローズアップさせて環境問題を論じ、資本主義というシステムを続けていては地球環境がもうもたないことを明らかにしたのは『人新世の「資本論」』の優れたところだ。物質代謝とは自然と人間の相互作用とでも言ったらいいのか、労働を通じての人間の自然への関与ということだろう。これについては、物質代謝という言葉は出さなかったけれど、上掲『労文』掲載書評で触れたつもり。書き漏らしたのは、ヨーロッパ中心主義と生産力至上主義という、マルクスに浴びせられ続けてきた批判についてだ。斉藤も若きマルクスにはそれを認めている。 マルクスは亡くなる二年前の1881年、ロシアのヴェラ・ザスーリチから手紙を受け取る。ヴェラは当時ナロードニキからマルクス主義へと立場を移しつつあった女性革命家だ。 ナロードニキはロシアに残るミールと呼ばれる農耕共同体を拡げていくことによって資本主義を通らずともツアーリを倒して社会主義へ進めると考えていた。いっぽうマルクス主義は封建制→資本主義→社会主義という方向を展望する。どちらが正しいかをザスーリチはマルクスに問うたのである。 これに対するマルクスの返書の内容はよく知られている。近代化を推し進めることでロシアに残っている共同体をわざわざ破壊してしまうことはない、ロシアでは資本主義を通らずとも社会主義に進める展望はあり、『資本論』における歴史分析は西ヨーロッパに限定される、というものだった。 ここにはマルクスの視野の拡がりが覗われ、以前のヨーロッパ中心主義から晩年のマルクスが脱け出していた証しと斉藤が考えるのに私も異論はない。環境破壊に突き進んだ近代に懐疑的な斉藤が、ロシアに近代以前からあった農耕共同体へのマルクスの肯定的評価に注目するのは当然だろう。脱成長コミュニズムの構想はそこから拡がる。ただ、近代以前の共同体には丸山真男がつとに指摘していたように個人の自立を抑えつけてしまう面もある。ザスーリチへの手紙を書くにあたって、その著作からマルクスが影響を受けたと言われるチェルヌィシェフスキーは共同体を擁護しつつも、個人の自立をどう両立させるか腐心していたようだ。齋藤はこの点をあまり考慮していないように思われる。チェルヌィシェフスキー(1828-89))はロシアの民主主義的思想家で、のちのレーニンが彼を深く敬慕していたことはよく知られている。 ![]() それから齋藤がつぎのように述べるのは、生産力至上主義とはそういうものだろうが、若き日のマルクスもそこに含めることに私は肯けない。 「生産力至上主義とは、資本主義のもとで生産力をどんどん高めていくことで、貧困問題も環境問題も解決でき、最終的には、人類の解放がもたらされるという近代化賛美の考え方である。」(第4章、153ページ) 「人類の解放」をマルクスは「資本主義のもとで生産力をどんどん高めていく」先などに夢見てはいない。資本主義を倒した先に求めたのだ。第4章全体を通して、若きマルクスは近代化(資本主義化)を推し進めようと旗を振っていたかに斉藤は思い描いている。脱成長へと転換した晩年のマルクスをそれに対置するのである。しかし、若き日のマルクスにしても、資本主義が世界を覆うのは必然的方向だと見通したからといって、自分をその推進者と任じたわけではなかろう。生産力を上げろと生産者各位にマルクスが働きかけたことなどない。彼が働きかけたのは資本主義を倒すための運動にであった。 もういちど丸山の名前を出そう。といっても、あの有名な論文(岩波新書『日本の思想』所収)で丸山真男が含意したのとは違う用い方をいま私はするが、「である」ことと「する」こととの混同ないし混乱が斉藤にはないであろうか。脱成長コミュニズムに充分な魅力を感じるとともに私はそう思う。 (つづく) ![]()
by suiryutei
| 2021-09-05 07:30
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