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『伝送便』10月号に掲載されたもうひとつの文章を今日は転写します。9月7日に亡くなった歴史家、色川大吉さんを追悼するものです。 歴史家の色川大吉さんが九月七日の早朝、老衰で息をひきとった。九六歳であった。 その講演を私が初めて聴いたのは一九七五年初秋のことだから、もう四六年前になる。なにかの市民講座で、演目はもう忘れてしまったけれど、三人いた講師の中で色川さんの名前だけ記憶に残っているのは話が一番おもしろかったからだ。 その年の一〇月から働き出した東京中央郵便局で、私は数年後、反マル生越年闘争(七八~七九年)が過ぎたあたりから全逓青年部の役員を務めるようになった。労働と組合活動とそれから飲酒の日々に歴史の本を開くどころではない。ところが時が流れ、労働運動の状況が変わってくる。労資協調路線への傾斜である。越年闘争で首を切られた仲間たちは、本誌における池田実さんの連載が述べてきたように、全逓労組からも切り捨てられた。その流れに抗しなければ。では、どうすればよいか。自分の立ち位置を確認することを迫られた。学ばなければならない。そのとき思い出したのが、たった一度だけ話を聴いたことがある色川大吉という歴史家の存在である。著作をむさぼり読んだ。 『近代国家の出発』における、明治一〇年代の民権運動家たちの姿がことに印象に残った。労働運動もあのように闘いたい。同書中に紹介されている多摩の農民、細野喜代四郎の詩稿には今も魅了される。『近代国家の出発』は中央公論社[日本の歴史]全二六卷の二一巻目として一九六六年刊行、そのご文庫にもなって版を重ねる。 さて色川さんは天皇制に対する厳しい批判者であった。天皇制下の民衆の精神構造に分け入ろうとしただけでなく、左翼運動の運動圏内ならともかく、アカデミズムやマスメディアの場で昭和天皇の戦争責任を彼ほど追及した人は他には少ない。ただし、美智子さんが五日市憲法草案に関心を示したことが伝えられたからでもあろうか、前の天皇夫妻に人間としての好感は抱いていた節がある。 その五日市憲法草案を、西多摩の草深い山里で旧家の土蔵から発掘したのが色川さんと東京経済大学における彼のゼミナールだ。一九六八年の夏の終わりだった。この発見の重要なことは、現在の憲法にもつながると言われる草案の内容もさることながら、起草者たちが積み重ねた学習や討論の址までもが併せて出てきた資料によって明かされていることである。当時の若者たちが民主主義を吸収していこうとする様子が覗われる。 色川さんがときに反発しながらも歴史学の先達と仰いだ服部之総(1901-1956)は、一八八〇年代の自由民権運動期まで含めて明治維新を、絶対主義の形成とブルジョア民主主義革命の進行という、ほんらい相反しぶつかり合うものの二重の過程と捉えた。一八八九年発布の大日本帝国憲法がそうであるように、勝利したのは絶対主義だが、五日市憲法草案は後者(敗れたとはいえ民主主義革命)のありようを生き生きと今日に伝えているのである。 色川史学に親しんできた人は本誌読者にも多いと思う。ご冥福を祈る。 ※文中に名が出てくる服部之総についての過去ログです。 よみがえれ、服部之総 『季刊社会評論』No.194掲載文 : 酔流亭日乗 (exblog.jp) ![]()
by suiryutei
| 2021-10-19 07:00
| ニュース・評論
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