新人事制度 大阪での報告①~③
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どうも世の中が大変なことになってきた。酔流亭の思いも千々に乱れるが、戦雲の行方については日を改めて考えよう。ここ数日は自分の身の回りの話題になる。 昨日、免許証更新の講習を受け、その会場が市内のスーパーマーケット(イトーヨーカドー)の中にあったものだから夕食の食材の買い物もして帰宅すると、『通信・労働者文学』(労働者文学会の会報)と【いてんぜ通信】の春号とが届いていた。 ![]() まず【いてんぜ通信】に寄稿した文章から写していきます。 ![]() 今年の年賀状に、私はこんな下手な歌を書きつけた。
時雨ふる飛騨の宿屋で酌む酒は冷やよし燗よし腹しみわたる
去年12月初めに飛騨へ小旅行をしたとき、高山から富山方面へ各駅停車で三つ目の飛騨古川駅に降りると雨が降っていたからだ。時雨とは秋の終わりか冬の初めに降る小雨。その日は夜になるとけっこう雨足が強まっていたので小雨では収まらなかったけれど、そのあたりは大目に見てください。若山牧水がこの土地を訪れたとき詠んだ、この歌が頭にあった。
ゆきくれてひと夜を宿るひだのくに古川の町に時雨ふるなり 牧水のこのときの旅は一九二〇年の秋である。信州の白骨温泉から平湯峠を越えて飛騨に入った。三十一文字の中に酒は出てこない。とはいえ牧水のことだ。雨に降られたのをもっけの幸いとばかりおおいに飲んだに違いない。飛騨は酒のうまい土地である。 さて去年私が泊まったのは〔蕪水亭〕という宿屋で、こことは30代のころ初めてお世話になって以来の付き合いだ。宿の人たちは私が酒好きであることをよく承知している。それに甘えて、私はつい、100年後の牧水になった気分である。わが歌に詠った、冷やで飲んだ酒は〔蓬莱〕という銘柄、燗で飲んだほうは〔白真弓〕。味について言えば〔蓬莱〕は豊潤、〔白真弓〕は端麗ということになろうか。うまく棲み分けている。古川の町の真ん中で、この二軒の蔵元は向かい合っているのだ。牧水の先ほどの歌は、歌碑となって、その近くに建つ。蔵元が向かい合っている通りには、武満徹のレリーフもあって、こう刻まれている。
酒は自然が人間に示す友愛の徴だ 随って何よりも先ず謙虚に接しなければならない ![]() してみると、あの作曲家も酒が好きだったのだ。その武満に『ギターのための12の歌』という作品がある。世に知られた名曲12をギター独奏用に編曲した。「イエスタディ」などビートルズの作品何曲かにアイルランド民謡の「ロンドンデリーの歌」、日本の「早春賦」(中田章作曲)等々の最後12番目に置かれているのは「インタナショナル」である。ギター独奏による「インター」って、しみじみするし、かつ聴く者を力づける。武満は1975年の公労協スト権ストに際してはストライキ支持を表明し、アメリカ軍による非道な北爆(当時の北ベトナム空爆)が始まった1965年に作られた「死んだ男の残したものは」は、それに抗議する反戦歌であった。 そういう武満徹が飛騨古川を愛して何度も通っていたことが、私にこの町を一段と好きにさせる。 私の下手歌のほうの解説をもう少し続ければ、結句を「腹しみわたる」としたのは、去年は秋に腸捻転を患って9月半ばから10月初めまで3週間ばかり入院したから。なにしろ消化器官の病気だから退院後は節酒に努めた。そんな身に、泊りがけで飲む酒はまさに腹にしみわたる美味さである。もちろん発病前と比べたら酒量は減らしている。宿の人も私が病み上がりと知っているから大酒はさせない。抑えて抑えて飲む酒がまた美味いのである。 そうして年が明けた。正月に酒は欠かせないとはいえ、やはり抑えて飲む。石川県鶴来町で醸される〔萬歳楽〕をちびりちびり、腸に水分補給が欠かせないから、合間に水はたっぷり飲む。発病前は「酒を水で薄めるほど貧乏しちゃいないぞ」なんて阿保なこと言ってウィスキーの水割りをけなしていたのが、今や酒を飲んでいるのか水を飲んでいるのかわかりゃしない。 それに今年は正月だからって浮かれるのはまだ早いという事情があった。「松の内」(関東では7日までだろう)が明けてすぐの8日、労働者文学をテーマとする講座が企画されており、この【いてんぜ通信】を中心になって発行している三上広昭さんをその報告者に引っ張り出したのは私なのだ。だから8日の講座が無事に終わるまでは私は責任上(?)正月気分に浸るわけにはいかないのである。もちろん本当に大変なのは報告を快く引き受けてくださった三上さんだが。 その講座は、三上さんの周到な報告のおかげで大成功であった。郵政労働者の交流誌『伝送便』の2月号に記事を書いたので、ここにそれを写す。
労働者文学と『伝送便』のコラボ ~『ルポ 闘う全逓労働者』を題材に~ HOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)主催の〔一九七〇年代の労働者文学を読み、考えるー『ルポ 闘う全逓労働者』を題材として〕という講座が一月八日、本郷三丁目HOWSホールで開催された。 『ルポ 闘う全逓労働者』は一九八〇年に全逓文学活動家集団によって編まれた(オリジン出版センター刊)。七八年の反マル生越年闘争、続く四・二八大量処分(懲戒免職五八名)が生々しいとき。全国に滞貨の山を積み上げた越年闘争の様相、郵政当局の労務政策の不当、過酷で単調な労働の実態、そして四・二八処分に抗する闘いが、労働現場にいる労働者自身のペンによって描き出されている。当時まだパソコンはほとんど無く、誰もが鉛筆やボールペンで書いていた。職場の日刊紙(ビラ)はガリ版に鉄筆で書いたものだ。 三上広昭さんが行なった報告は『闘う全逓労働者』所収のルポいくつかに触れつつ、労働者文学の歴史を見わたし、これからの可能性を展望する。三上さんは一九七六年に都内目黒郵便局に入局して集配労働者として働きながら、七九年〔全逓文学活動家集団〕加入、『闘う全逓労働者』にも作品が収録されている。退職した現在も労働者文学会の中心的な書き手の一人である。 この講座は労働者文学と『伝送便』の協働の場ともなった。ゲスト・スピーカーに池田実さんが登場して、四・二八処分を二八年間の闘いではね返して職場復帰を果たした体験を語ったからだ。 討論の中では本誌の横田誠司編集長が『伝送便』の活動を紹介した。郵便の労働現場からは時給制の若い仲間も参加。いっぽう、かつて一九七〇年代に全逓東京南部小包集中局支部で〔緊急避難〕闘争を闘った加野康一さん(労働者文学会幹事)は当時の経験を語る。〔緊急避難〕闘争とは、労働環境悪化で腰痛罹患者が急増するなか、管理者の業務命令をはねのけて一〇分間の休息を労働組合の力で作り出した闘いである。毎日一〇分間のストライキをくりかえしたようなもので、しかもその一〇分間を休息時間として獲得したのである。 講座のあと加野さんがくださった『緊急避難』のパンフレット(一九七七年発行)には、のちに本誌初代編集長となる吉野信次さんも支部調査交渉部長として文章を寄せている。労働者文学と『伝送便』のコラボレーションは、職場の闘いを土台にずっと前からあったわけだ。 (『伝送便』誌2022年2月号22ページ) いま紹介した記事は、前述したように『伝送便』誌に掲載されたものだから、同誌からの視点がかなり出ている。反マル生越年闘争が行われることになる同じ1978年に発刊された『伝送便』は、郵便局の労働現場で起きていることを読み手に伝えたい。読み手と書き手は北海道から沖縄まで全国にいる。情報を共有することが状況を変えていく上で手がかりになるだろう。書くという点で労働者文学と共通するところがあると思う。事実、静岡の増田勇さんをはじめ、『労働者文学』と『伝送便』両方に書いてきた人は何人もいる。違いは『伝送便』には創作の要素はほとんど無いということだろうか。私のように創作の才に恵まれない人間から言わせると、創作は特別な世界だ。誰もが首を突っ込めるわけではない。創るのが好きと言ってしまえば語弊があるかわからないけれど、創作欲が内側から湧いてくるのを抑えられない人たちの世界だろう。いっぽう『伝送便』へは、誰にも書いてもらいたいのである。しかし、『ルポ闘う全逓労働者』が刊行された1980年当時とは違って、闘いが職場に乏しくなった今日では、現状を見つめるだけでは展望も見えにくくなっているだろう。そんなとき創作が何かヒントをもたらすかもしれない。『伝送便』と『労働者文学』のコラボレーション(協働)がもっと拡がればいいと思う。 ところで、1月8日の講座を主催したHOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)では、今期(去年11月~今年3月)、別に中野重治『むらぎも』をテキストにした連続講座も行っている。10章から成る長編を4回に分けて読み込む。初回は去年11月に行われた。講座が発行するニュース(今年1月8日発行)にその印象記を書くことを依頼されたので、ニュースに掲載されたそれをここにも写させてほしい。本【いてんぜ通信】第2号(去年6月1日発行)に寄稿した『日本におけるマルクス受容は~内田樹「若者よマルクスを読もう2」序文に対する違和感~』の追記に書いたことと内容が重なるからである。
『雨の降る品川駅』につながるもの Yさん(転写にあたって頭文字のローマ字表記に改めた)が行なった報告はテキストを丹念に読み込んだもの。それを承けた質疑も発言が活発で途切れない。もっと時間があったらいいと思ったが、コロナ禍がまだ収まらぬ状況下では会合が長時間に及ぶことを避けなければならないのはやむを得ないのだろう。 以下、当日の討議で私が発言したことを前半で述べ、言いそびれたことを後半に述べる。
一〇章から成る長編のうちの三章までのこのパートで、東京帝大新人会の新入生歓迎会の場面が何度かくり返し出てくる。その回想は後半、第七章にもあって、著者の拘りが覗われる。 会員の誰かが「今やわれわれは無産者階級の感情を感情する・・」という演説をぶったのに主人公の片口安吉は「けったくその悪い」思いをするのである。 情景が目に見えるようだ。その言葉の軽々しさに片口は不快感を持ったのだろう。しかし、そのあと立った朝鮮人の新入学生が 「朝鮮プロレタリアートの解放なしには日本プロレタリアートの完全な解放はない。日本プロレタリアートの自己解放なしには朝鮮プロレタリアートの解放はない・・・」 という「単純な演説」をする。それによって彼は「けったくその悪さから心持よく解放されていく思いがした」のである。 頭をよぎるのは『雨の降る品川駅』という著者の有名な詩だ。1928年に行なわれた昭和天皇即位式(「御大典」)のとき治安上の理由で朝鮮に「送還」される朝鮮人同志を品川駅で見送るという詩である。『むらぎも』の時代は1924~27年だから時期もつながっている。その最後の連は、こうである。
行ってあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ ながく堰(せ)かれていた水をしてほとばらしめよ 日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾 さようなら 報復の歓喜に泣きわらう日まで
朝鮮プロレタリアートを<日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾>と呼んだ一行は、のちに色々な議論になったらしい。「朝鮮プロレタリアートを日本のそれの弾除けにするのか」といった批判もあるそうだ。 しかし、あの一行は、新人会の新入生歓迎会のとき朝鮮人新入生が述べた前出の言葉に対して片口安吉=中野重治が抱いた素直な感動に裏打ちされたものであったように私には思われる。インターナショナルな感情の自然な発露ではなかろうか。 ところで私は、今回『むらぎも』を、以前読んだときと違う感慨をもって再読している。去年11月に『彼は早稲田で死んだ』(文芸春秋社)という本が出版されたからである。1972年11月に早稲田大学文学部の構内で二年生の川口大三郎さんがリンチを受け殺害された。当時同大同学部自治会を掌握していた革マル派の学生に中核派と疑われたのだ。川口さんは中核派ではなかったし、そもそも人を殺していいわけがあろうか。事件が起きた数日後から、数百数千、ときには万を超す学生が虐殺に抗議する声を上げ始めた。本の著者、樋田毅さんはその中心にいて、革マル派執行部をリコールして成立した自治会新執行部の委員長を務める。書名『彼は・・』も著者らが当時つくったパンフレットのタイトルからとった。 私は1973年に早稲田の法学部に進学したので、遅まきながらいくらかは渦中に巻き込まれた。著者が闘いの中で出会ったのはフランス文学者渡辺一夫の<寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか>という問いかけである。渡辺の答は決まっている。寛容は自らを守るためであっても不寛容になってはならないのである。 非暴力の闘いをどうつらぬくかということだ。それはたやすいことではない。著者は鉄パイプの襲撃を受けて一か月も入院する重傷を負った。私が入学してひと月後のことだ。革マル派の理不尽な暴力によって自治会新執行部もやがて潰されてしまう。 もとより新左翼党派のゲバルトなど、中野重治が『むらぎも』の時代を経てから対峙することになる天皇制国家の凶暴と比べれば児戯のごときものだ。あのころ私もよく耳にした学生党派活動家たちの「階級性」連呼の虚ろさは、『むらぎも』に出てくる新人会新入生歓迎会における「無産者階級の感情を感情する・・」云々と変わらない。しかし、そんな児戯であっても、ときに人の命を奪うに充分な残虐性を発揮するのである。 『むらぎも』で50代の中野重治は自分の学生だった頃を、ただ回想するのでなく革命運動との関わりにおいて捉えかえそうとしている。いま60代の半ばを過ぎた私は、自分の活動の出発点にあったことを改めて見つめ直そうと思う。それは<寛容は・・不寛容に対して不寛容になるべきか>という問いかけにどう答えるかということだ。この場合、寛容は<報復の歓喜>を排除はしない。それ(報復)がテロルの形をとるのは拒むけれども。 (HOWS連続講座 中野重治『むらぎも』を読むニュース1号3ページ) 最後のところ<寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか>という問いかけへの答は簡単ではない。不寛容になってはならないと渡辺一夫とともに断言したいところだ。しかし、相手によってはこちらも不寛容にならざるをえない(そうしなければ自分が滅ぼされてしまう)場合が無いとは言い切れないのである。同時に、そのようにやむを得ざるものとして行使された不寛容が惹き起こした悲惨の実例も世には満ちている。だから、答が出ないとしても、その問いかけを手放してはならないと思う。『彼は早稲田で死んだ』に感銘を覚えるのは、寛容をつらぬくことの困難を身をもって味わわされながらも、著者がその問いかけを持ち続け、その後も生きてきたことが窺われる点だ。 それから<報復の歓喜>という言葉を私は中野の詩の中から拾ってきた。寛容は<報復の歓喜>を排除はしないとも書いた。寛容の枠内に収まる報復とはどのように行使されるのか。書いたことによって、それについて考えることを宿題として自分に課した格好である。 ![]()
by suiryutei
| 2022-02-25 08:09
| 文学・書評
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