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労働者文学会が発行する雑誌『労働者文学』の第91号が届いた。 今年の労働者文学賞受賞作品が掲載されている。今年は小説、評論・ルポルタージュ、詩、すべての部門に入選作があった。喜ばしいことだ。 そんな入選作品掲載の隙間に、酔流亭は1ページ分のコラムを一つ書いた。全文を下に写します。
たしか中学三年のときである。教科は地理であったか。・・・こんなふうに記憶が曖昧なのは、思い出したくないこととして私の心にひっかかっているからだ。 一年間、沖縄出身の先生がその授業を受け持った。若い人だった。まだ二〇代ではなかったか。真面目だけれど不器用な先生だった。髭を剃るときに作ったらしい切り傷がいつも先生の頬に絶えなかったことだけは、記憶がボンヤリしている中でハッキリ憶えている。髭が濃かったことと不器用であったことは印象に残っているからである。 不器用だから教え方も上手ではなかった。まだ経験が浅いのだから仕方なかったろうが、クラスの秀才たちはそのことで先生を初めからいくらか軽んじていた。 どうしてその話になったかは憶えていない。あるとき「日米安保条約は破棄するべきです」と先生が教壇で断言したのである。それにクラスの秀才たちが反発した。「教師が授業で政治的意見を言うな」と詰る者がおり「安保のおかげで日本は豊かになったんだ」としたり顔で言う者がいた。「沖縄だって日本に戻ってくるじゃないか」とも。声の大きな何人かの生徒が同調する。 そのときから、学年が終わるまで、先生の授業はもう授業にならなかった。私語が飛び交い、お調子者で声の大きな生徒が何かにつけ音頭をとって先生の名を連呼した。いま仮に先生の名を「源」としておこう。ミナモト・ミナモトと囃し立てる声が今も耳にこびりつく。 私はどうしていたかというと、何もできなかった。私語や連呼の輪にだけは絶対に加わらなかったけれど、もう一歩前に出て先生の側に立って何か言うことはできなかった。 あのころの私は今以上に人前でしゃべることが苦手だったし、それに勉強ができなかったのである。中学の三年間は、教科書は学校のロッカーに入れたまま、予習・復習はおろか宿題もまったくやらない生徒だった。だから、思い出しても悔しいが、口の達者なクラスの秀才たちと議論する自信が無かった。私が、今も恩師と呼ぶ世界史のW先生と出会って勉強することの面白さに目覚め、したがって成績もそれなりに上昇していったのは その二年後の高校二年生ごろからだ。 しかし、あの秀才たちは沖縄のこと安保のことの何を知っていたのだろう。明らかに親の言っていることの受け売りをしているだけの奴がいた。さらに、そんなことはどうでもよくて、ただ若い教師が困るのを見て喜んでいる奴がいた。 それにしても、あの授業光景は、沈黙していた自分を含めて、日本という社会の今に至るまで変わらない縮図であるように思う。私の中学三年といえば一九六九年で、沖縄はまだ本土に「復帰」していなかった。が、「復帰」してから何が変わっただろう。 五三年前の辛い記憶だ。
by suiryutei
| 2022-07-26 05:51
| 文学・書評
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Comments(2)
Commented
by
牧子嘉丸
at 2022-07-26 13:20
x
暑中お見舞い。コラム「沖縄出身の先生」いいですね。
これ20枚ぐらいの小説にしたらどうですか。中学生時代の疎外感や劣等感も織り交ぜて、先生へのシンパシーをなぜ抱いたか心理のいきさつを書いてもいいのでは。 これは国立のT中学のことでいいのですか。私はてっきり土田さんは「がり勉」ではないけど、きっちりした勉強家だとばかり思っていました。それが高校で師と出会い、学問に目覚める。そこらあたりも自伝風に書いてみたら、おもしろい作品になるように思うのですが、どうでしょう。
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by
suiryutei at 2022-07-26 21:35
牧子さん、心のこもったコメントありがとうございます。
じつは、小説とは言わずとも、もうすこし長い文章を書きたかったのですが、書けなかったのです。やはりあれは辛い記憶なのです。 私が通っていたのは中高一貫校でした。その6年間のうち4年間は本当にいわゆる劣等生でした。最後の2年は自分でも不思議なくらい勉強が好きになりました。人との出会いって、ありがたいです。そのあたりを書けるかどうか、これからの課題にします。
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