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政治学者の原武史氏が朝日新聞土曜版で連載しているコラム【歴史のダイヤグラム】は、氏の好きな鉄道の話題を、研究領域である日本の近現代史上の出来事と絡めているところがミソである。少し前、広島の〔原爆忌〕だった6日付に載ったのは、こんな記事であった。 石橋湛山が戦後すぐ『東洋経済新報』に書いた論説『靖国神社廃止の儀 難きを忍んで敢えて提言す』は、1945年9月22日と23日に身延山久遠寺の門前にある旅館〔山田屋〕で執筆されたというのである。 身延に着くまで、新宿駅を22日の午前8時発の中央線下り列車に乗り、浅川駅(現在の高尾駅)で9時17分発甲府行きに乗り換え、甲府駅からは12時27分発の身延線富士行きに乗ったと、電車の発車時刻まで克明に記してあるのが、いかにも鉄道オタクの原氏らしくて、つい笑いたくなる。そんな細かいところまでどうやって調べたのだろうか。当時の時刻表を探し出したとすれば、しかし敗戦わずか二か月しかたっていないとき果たして分刻みまで正確にダイヤ通り列車は運行されたのだろうか。 HOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)の講座で原さんの話を聴いたことがある。たしか天皇制がテーマの講座であった。原さんは周囲の空気なんか頓着せずに、自分が関心を持つテーマはとことん掘り下げていくというタイプの学者であるように思われた。なるほど空気なんか読まない人でないと今日の日本では天皇制を研究テーマになんかしないだろう。 政治学者・原武史氏のことはこれくらいにして、石橋湛山の『靖国神社廃止の儀 難きを忍んで敢えて提言す』は優れた論説である。今日、敗戦の日8月15日にはことに噛みしめて読みたいものだ。 そう思って本棚から『石橋湛山評論集』(岩波文庫)を抜いてみたところ、どうしたことかこの評論は採録されていない。ただ、読んだ記憶は酔流亭にあるのである。このブログにだいぶ前、その感想も書いたはずだ。・・・すぐ気づいた。高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)の<おわりに>において著者・高橋が湛山の『靖国神社廃止の儀』からかなりの部分を引用しているのだ。酔流亭は2005年のことだからもう17年前、それを読んだ。 その17年前の過去記事を下に貼り付けておきます。そして高橋哲哉氏が引用してくれた湛山の論説を今朝は改めてじっくり読むことにしよう。 ※原武史氏にも関わる過去ログも、もうひとつ。 ※上に貼りつけた記事をいま読み返した。自分で書いたもののことをこんなふうに言うのもどうかと思うけれど、これも8.15にふさわしい一文ではなかろうか。14年前、2008年の8月に書いたものだ。全文を下に写します。 昭和天皇の戦争責任とは ここ数日、昭和天皇の戦争責任ということが頭にひっかかっている。 というのは、酔流亭の職場の労働組合が発行している日刊紙に、原武史さんの書いた『昭和天皇』(岩波新書)についての書評めいた投稿記事が載っていて、そこにこんな記述があるからだ。 「・・・今までの進歩派(左派)のように『大日本帝国憲法上、主権は天皇が握っており、昭和15年戦争も天皇の詔勅があって戦ったのだから、天皇には戦争責任がある』『天皇制は廃止すべきだ』と言い切れれば簡単なのですが、あれこれ資料を読んでいると、どうも『その通りだ』とは言い切れない部分も出てきます」 「・・・普段の原氏の著述には、あまりイデオロギー的決めつけがないのですが、この書では、そこかしこに昭和天皇に戦争責任があるような書き方が目に付き『原氏でもこう書かざるを得ない岩波書店の力、おそるべし』と邪推が過ぎて引いてしまいました」 酔流亭は、その原武史氏の著作は読んでいないから、『昭和天皇』という本そのものについて語る資格はない。しかし、上に引用した書評執筆者の記述に限っては、ちょっと首をかしげざるをえない。 第一。少数の左翼を別とすれば、「天皇に戦争責任がある」「天皇制は廃止すべき」と明言してきた人たちは、いわゆる進歩派も含めて決して多くはない。昭和天皇が死去する直前、その戦争責任に言及した長崎市長(当時)に浴びせられた轟々たる非難およびピストルの実弾を思い起こされよ。「言い切れれば簡単」どころか、言い切れずにきたことにこそ問題があると思う。我が国の“進歩派”が「反・天皇」をキラクに吹聴してきたかのように書評執筆者が思い込んでいるのは、根本的な思い違いではないだろうか。 第二。書評執筆者もまた天皇に戦争責任は無いと考えているようである。憲法上、天皇が絶対的主権者でありながら、なお天皇に責任は無いとするのは、タテマエ上では主権は天皇にあったにせよ、実態としては天皇の意思と関わりなく事態は進んだと考えるからであろう。しかし、「あれこれ資料」が明らかにしているのは、昭和天皇は戦後一部で言われたような「平和主義者」では決してなく、なるほど戦争の先行きに「不安」は感じていたにせよ反戦的意思などは持っていなかったということだ。開戦当初の「連戦連勝」の報に彼は歓喜を隠していない。戦争を始めた国の君主として当然といえば当然だが。そして君主の更なる歓心を得ようと“臣民”は一層奮起した。天皇の意思に関わりなく事態が進んだのではなく、天皇自身の意思が事態を進めてもいるのである。 第三。こう言ったところで、「天皇一人の意思であの戦争は起こされた」とか「全ての責任は天皇が負うべきだ」と考えている者は、左翼にだって誰もいない。だが、天皇制というシステムのトップにいた者としての応分の責任はやはり引き受けねばならないのではないか。人はよく軍部の独走を言い、「統帥権」の魔術を言う。だが旧日本軍部が「統帥権」という“魔法の杖”をふるえたのは、それが天皇の軍隊だったからではないか。 敗色が濃厚になってからも、当時の日本国の指導者たちは降伏への腰をなかなか上げようとしなかった。国体の護持すなわち天皇制の存続にこだわったからである。「講和するにしても、どこかの戦闘で一度勝ってから」というのが、天皇を含めて指導者たちの思惑であった。彼らが我欲にとらわれずもうすこし賢明であったら沖縄戦の悲惨も広島・長崎への原爆投下も避けられたのだ。ところが、戦後になってからの昭和天皇の言動からは、このことについての反省もあまり窺われないようである。 そして我ら日本国民もまた自分たちの戦争責任と誠実に向き合ってきたとはいえない。天皇の責任を問わないことで自分自身の責任からも目をそらしてきたのである。根本はここにある。書評執筆者の再考を請う。
by suiryutei
| 2022-08-15 04:59
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