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昨日の東京新聞夕刊〔文化〕欄コラムに、俳人の外山一機氏が『孤独な句』と題して、井上伝蔵の俳句を紹介している。 井上伝蔵とは秩父事件のリーダーの一人(会計長)で、蜂起が敗れた後、死刑を宣告されたが北海道に落ち延び、名前を変えてそのあと35年を生きた。最近、その数奇な人生を描く小説が出版されたという(『小説秩父事件 伝蔵ー困民党会計長』八木静子著、まつやま書房)。 外山氏はそこから北海道に渡ってのちの伝蔵の句をふたつ引いているのだ。 ![]() そのふたつの句をここにも引こう。 思ひ出すこと皆悲し秋の暮 俤(おもかげ)の眼にちらつくやたま祭 外山氏によれば、小説の作者・八木氏はこれらの句から、家族や同志を捨て自分だけ生き残った孤独や、秩父で死んだ同志たちを追憶する思いを読み取っている。そうであろう。 酔流亭も前に伝蔵の句に感じ入ったことがある。たとえば 年越しの二合の酒のうまかりき この句は、まだ秩父にいた若いころの作。7年近く前『伝送便』2016年2月号に寄稿した文章から井上伝蔵について書いた箇所を引いておきます。文中、金子兜太を「現在の俳壇の第一人者」と書いているが、当時存命だった兜太は今から3年前、2019年9月に亡くなっている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 年越しの二合の酒のうまかりき これは井上伝蔵の句である。 井上伝蔵は秩父事件の指導者の一人であった(会計長)。事件当時三〇歳。・・(秩父事件とは)一八八四年(明治一七年)秋、松方デフレによる農村の窮迫、直接には生糸価格の暴落を背景に起きた武装蜂起である。蜂起は明治国家による軍隊を投入しての鎮圧によって一〇日間前後で潰えるが、筵旗を掲げ、竹槍のみならず小銃などを手に結集した農民の数は最大期一万人を超えた。伝蔵を初め中心的部分の民権意識も高く、井上幸治の名著『秩父事件』(中公新書、一九六八年)はこれを「自由民権運動の最後にして最高の形態」と評した。 伝蔵その人は、蜂起が敗れた後、捕縛を逃れ、欠席裁判で死刑を宣告されるも北海道に落ち延びて、その地で名前も変えてなお三十五年間を生きた。伝蔵の句が今日に残っているのは、彼が秩父にいた若い頃から俳句を嗜んでいたからだ。前掲句も秩父時代の作。いったい秩父地方ではその当時、よく若者たちが集まって俳句を作り合ったりしていたらしい。たとえば現在の俳壇の第一人者・金子兜太さんの生家は秩父の皆野町。父の金子伊昔紅は秩父音頭を現在の歌詞に調えたことで知られるが、秩父事件の時代を生きた人で、医を業とするかたわら、家に土地の若者を集めて俳句の手ほどきもしていた。兜太さんの去年の作に「沖縄を見殺しにするな春怒涛」がある。秩父蜂起の反骨をこの老俳人も受け継ぐか。余談ながら、私たちは去年、JP労組全国大会会場前で配ったビラで沖縄との連帯を呼びかけるにあたって、この句を引用させてもらった。歌人・永田和弘氏の新春詠(元旦の朝日新聞掲載)「沖縄を翁長雄志を孤立させて深く恥ずべしわたしもあなたも」と共に肝に銘じたい。 (『伝送便』2016年2月号掲載「年越しの酒」から一部を抜粋)
by suiryutei
| 2022-10-16 06:40
| 文学・書評
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