新人事制度 大阪での報告①~③
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昨日お知らせしたように、今日と明日、2回にわたって池田実さんの新著『郵政労使に問う ~職場復帰への闘いの軌跡~』の紹介文を転載します。雑誌『地域と労働運動』No.266(2022年11月号)に掲載されたものです。 懲戒免職された1979年から職場復帰を果たす2007年まで28年間の闘いのうち10年が過ぎたころ、郵政省再受験という話が持ち上がる。全逓労組が4.28免職処分取り消しを求める訴訟を取り下げることと引き換えに、郵政省は40歳以下の被免職者に郵政省再受験を通して職場復帰への道を開く、という合意ができたと言われるものである。じつは郵政省はそんな確約は与えておらず、4.28反処分闘争の幕を早く引きたい全逓だけがそう早飲み込みをした。 結果は、1991年2月24日に行われた東京郵政局外務職員の採用試験(採用予定100人に応募は2019人)を受験した被免職者14名は全員が不合格だった。いっぽう全逓は合否発表を待たず、発表五日前の3月11日には受験者からの訴訟取り下げ書を裁判所に提出した。 本書の著者である池田実さんは当時38歳。14人の一人として受験している。当時の心境はこう書かれている。 「もちろん私は、あの郵政省が一度切った<戦犯>を戻すだろうか、という疑念を抱いたものの、郵便局復帰という幻想の方が勝っていた」(109ページ)。 「明確な合格の確証のない大きなリスクを伴う決断ではあったが、ここはあえて<騙すなら騙されてみよう>という居直った気持ちになったのだった。この一年あまり、裁判傍聴をめぐり、地区役員から日常的な恫喝と数々のいやがらせ(賃金カット、定昇停止、配置換え)を受けてきた犠救出向という<飼い殺し>の身分からついに脱出できる道が開けたと、すがりつくような気持ちだったかもしれない。もし不合格と出たら本部はどう出るか、わが身を持って、その真偽を試すしかないと決断したのである。一%でも戻れる可能性があったらそれに賭けてみよう」(111ページ)。 だが、仲間たちは反対する。 「受験するつもりだと仲間に伝えると激しいブーイングが起こった。(東京)南部地区ではすでに二人の<受験有資格者>が訴訟取り下げ拒否・裁判継続を表明しており、(90年)一〇月二日には都内で彼らを支援する反処分集会が一一〇人を集めて開かれていた。『伝送便』の編集長になっていた私が、まさか本部の軍門に降り、裁判を取り下げて受験すると周囲は思わなかったのかもしれない。すでに反連合の旗色を鮮明に打ち出し、独立労組(八労組)の道を歩み出していた<郵政全協>(郵政労働者全国協議会)は『伝送便グループ』とも呼ばれ、四・二八反処分の闘いは、全逓右傾化に抗する郵政全協の闘いの一つのシンボルとなりつつあった。・・・その<当該>であるべき私が本部方針に従う事は、とうてい容認することはできないというのが首都圏の雰囲気だった」(111~112ページ)。 今これを書いている私は当時『伝送便』の職場における一読者であって、活動家グループからは距離を置いていたから、そのとき池田さんを取り巻いていた雰囲気を肌身では知らない。しかし、こういうところがいかにも池田さんらしいと思う。周囲がどうあれ、自分が納得する道を進むのである。運動家でありながら、それより現場の労働者でいたい。試行錯誤がまた運動家としての彼を非凡にする。全逓本部の方針の下でやるだけのことはやった上で、それでダメなら闘いを続けるまで。 4月25日に開催された反処分指導委員会が「被免職者の裁判闘争と再採用については断念する」「6月末をもって犠救適用を終了する」という方針を決定するや、当時水道橋にあった全逓本部の入り口前で池田さんは4日間のハンストを決行する(5月13~16日)。<全逓本部は4.28被免職者に謝罪せよ!>という横断幕を背に、一人で始めたハンストだが、周りが彼を一人にはしておかなかった。再受験を冷ややかに見ていた人も含めて仲間たちが次々応援に駆けつけ、ときには50人を超す仲間に支えられながらハンストは貫徹される。いったんは起きかけたブーイングが以前に増す信頼に変わっていく。 反処分指導委員会の翌日、4月26日に南部労政会館で245人が結集して開催された反処分集会には受験者として唯一人登壇した。再受験は6人が拒否しており、共に闘う決意を表明する。結局この6人と池田さんとの7人がその後10数年の闘いを経て2007年に職場復帰を勝ち取るのである。
郵政4.28処分とは
郵政4.28処分とはどういうものであったか。郵政省は長年にわたって全逓を敵視し、第二組合である全郵政を人事で優遇してきた。全逓組合員は昇任でも郷里へのUターン転勤でも全郵政組合員より後回しにされる。「生産性」を損なう全逓労組を冷遇して潰すのが生産性向上につながるというわけだ。これに対して全逓は1978年の暮れ、業務のスピードを大幅に落とす業務規制闘争に突入する。郵便ではブツ溜めと呼ばれる業務規制闘争は、公企体労働者は争議権が無く公然たるストを打ちにくかった分かえって以前から行われてきた。しかも、この年の春闘において全逓は官公労統一ストから直前になって脱落したことで組織内外から批判を浴びた。その反動もあって全逓本部は退くに退けなかったし、なにより長年の郵政当局の全逓敵視に職場の怒りが高まっていた。かくて年末闘争は越年し、年賀状配達は大混乱に陥った。 三が日を過ぎ成人の日を過ぎても、配達されない年賀状が大量に残る。結局は何の成果もないまま1月25日に開催された第72回臨時中央委員会で業務規制闘争の中止を決定するのだが。 郵政省は争議の実行者であった一般組合員の大量処分で応じた。1979年4月28日である。懲戒免職58人、停職286人、減給1457人、戒告1425人という前代未聞の処分が出された。全国闘争として闘われたのに処分は東京に集中し、懲戒免職58名のうち55名が東京。そのうち支部執行委員以上は4名のみ,分会長,副分会長5名,地区本部青年部委員1名、支部青年部委員14名と青年層が狙われた。一番若い被免職者はまだ20歳だった。池田さんは処分当時26歳で、それがだいたい平均の年齢である。処分を取り消し・無効とした2004年の東京高裁判決文の表現を借りれば「本件闘争の実施についての全逓の意思決定に参画したといい難い」人たちばかりであった。そこで高裁判決は 「・・一部に全逓の末端組織である支部の執行委員らがいるものの,大半が全逓組合員というにとどまり,全逓の役員等,本件闘争の実施の意思決定に参画したと認めうる者はいない」。 「本件闘争を理由として控訴人らに対してされた懲戒免職は,全逓の意思決定に従って違法な争議行為を実施した組合員に課されうる懲戒処分の選択及びその限界の決定につき,考慮すべき事実を考慮せず,社会通念に照らして著しく不合理な結果をもたらし,裁量権の行使を誤った重大明白な瑕疵があり,取消しを免れず,また,無効というべきである」。 と明確に断じたのである。争議行為の意思決定に参画した者ではなく、その決定に従った者ばかりを処分した郵政当局、それを追認した一審東京地裁判決(2002年)の異常性を糺した。 この判決文を書いた江見弘武裁判長はかつて1984年、民営化される前の国鉄法務課に出向し、「分割・民営化によって新会社をつくり、いったん国鉄から退社して新会社に応募させ、採用させる。応募しなければ、自動的に国鉄を継承する国鉄清算事業団送りになるという方式をとれば、合法的に新会社に振り分けられる」という方法を国鉄経営陣に助言した人物である。後日、毎日新聞インタビューに「会社更生の一般論を言っただけ。人切りの制度を考えたと言われるのは名誉ではないが、不名誉でもない」と答えている(166ページ)。 その同じ人が、20年後には郵政における首切りをひっくり返す判決を書いた。かつての公企体が、国鉄も郵政も次々民営化され、あるいはその方向に向かい、国家公務員法によって争議行為が禁止される労働者の範囲が狭まってくる中での今日的な判決とも言えるのだろうか。世の中は、いや人間とは、まことに一筋縄ではいかない。 2007年2月13日、最高裁第三小法廷は高裁判決を支持し、郵政公社の上告を不受理とする決定を下した。郵政省は2003年に郵政公社に変わっており、そして2007年10月からは民営企業としての日本郵政グループが発足するのである。労組のほうもそれに足並を揃えるように全逓は2004年にJPUと名称変更、さらにかつては第二組合と蔑んでいた全郵政とついに合同して2007年にはJP労組となった。 池田さんはその2007年の3月1日、民営化間近の古巣・赤羽郵便局に復帰する。 (明日に続く) (2007年4月28日に開催された「祝勝会」の檀上で。いちばん右が池田さん)
by suiryutei
| 2022-11-02 05:11
| 文学・書評
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