新人事制度 大阪での報告①~③
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『地域と労働運動』誌掲載記事を昨日に続いて転載します。後編です。 赤羽での日々
遅ればせながら本書の目次を紹介しておこう。ページ数は222ページ。
第1章 郵便局に入って 第2章 郵政省との攻防 第3章 越年闘争突入 第4章 4・28処分発令 第5章 郵政再受験の罠 第6章 自立の闘い 第7章 一審の敗北 第8章 逆転勝訴 第9章 28年ぶりの職場 年表 4・28反処分闘争のあゆみ(1975年~2013年)
池田実さんが地元である赤羽郵便局の集配課に臨時補充員として採用が決まったのは1970年11月25日で、面接を終えて帰宅したら三島由紀夫が陸上自衛隊市谷駐屯地で自決したニュースがTVから流れていた。翌日から働き出した。1952年生まれで、何もなければまだ高校三年生のはずなのに、その一年前の1969年11月、彼は通っていた都立高校で約30人の仲間と共に教職員室をバリケード封鎖していた。約一か月立てこもり、機動隊突入の直前になって教師たちが3人残っていた生徒の手足を掴んで無理やり裏口から逃がした。教え子を警察に突き出すような教師でなくてよかったが、そのあと池田さんは無期停学という処分の撤回を求めて定期試験中の教室に入り、答案用紙を破り捨てる。今度は少年鑑別所に送られ、高校は中途退学に。そうして郵便局で働くようになったのである。 鑑別所を体験したばかりの少年がよく採用されたと現在の感覚では思うけれど、臨時補充員は各郵便局が独自に採用するし、今と違って二年後には自動的に郵政事務官(当時)になった。 当時はベトナム反戦運動がひろがり、大学では全共闘運動が燃え上がり高校にも飛び火した。池田さんもそんな時代の子であったのだろう。高校時代の池田さんのエピソードは中公新書『高校紛争1969-70』(小林哲夫著、2012年刊)にも登場する。 書評 『高校紛争 1969-1970』 小林哲夫著 : 酔流亭日乗 (exblog.jp) 晴れて郵便労働者となってからは「短い青春」を謳歌した。赤羽郵便局には当時さまざまなサークルがあり、バンドに誘われ、写真部と山岳部に参加した。赤羽といえば酒飲みの“聖地”だ。当時もそうであろう。超勤はほとんど無かったから勤務の後ゆっくり風呂に浸かり、「近くの酒屋さんで立ち飲みして時間調整(安い乾き物で)、薄暮になるのを見計らい歓楽街に繰り出す」(11ページ)こともあった。 本書の優れた点の一つは、闘いばかりではないこうした日常がこなれた筆致で描きこまれているところにもあるのではないだろうか。懲戒免職となった後の、職場に戻りたいという思いが、それだからひしと伝わってくる。 全逓に加入したのは1971年の春、ストライキを初めて体験するのは72年の年末だ。公労法が公務員の争議行為を禁じている下で、当時はまだストライキと公然とは言えず、「一斉休暇戦術」と呼んだ。組合員が同じ日に一斉に休暇を取るのである。もちろん当局はそれを認めないから実質的にはストライキだ。全逓が公然とストライキと称してスト権確立のための一票投票を実施するのは翌年の1973年からだ。 後日のことを述べれば、スト権一票投票が行われたのもそれから数年間だった。スト権スト(75年)、続く越年闘争(78~9年)の敗北を経て、労使協調路線を濃くしていく中で行われなくなっていく。郵政が民営化された今日、郵政労働者はもう公務員ではないから法の上でもストをする権利を持つが、今日のJP労組がスト権一票投票をやるなど絶えて聞かない。少数労組の郵政ユニオンは果敢に春闘ストライキを行なっている。
被曝労働者としても
職場復帰を果たしたとき池田さんは54歳になっていた。初出勤の朝、通用門をくぐる前に激励にかけつけた仲間たちに挨拶して<今から28年ぶりに出勤します>と言うと「いつも仏頂面の労担も何と目頭を押さえていた!」(197ページ)。局長室で辞令を受けるとき<何か一言ありませんか>と質したら局長は<最高裁判決を厳正に受け止めます>と消え入るような声。しかし謝罪の言葉はなかった。職場である集配営業課では挨拶に80人余りの同僚から拍手が沸き起こった。 とはいえ離れていた28年の間に労働環境は激変していた。かつては自転車で配達していたから、配達に出た初日も赤い自転車に乗った。ところが配達地域に着く途中で息が上がってしまう。郵便物の量ははるかに増えた一方、50代なかばとなれば体力は落ちている。翌日からは50ccの原付バイクを使うようになった。 余談ながら、それから10数年たった今日、配達現場は原付バイクでも間に合わなくなっているようである。労働者文学会が発行する雑誌『労働者文学』の第90号(2021年12月刊)に『カンナナの坂』という短編小説が掲載されている。執筆した三上広昭さんも都内の郵便局で働いてきた集配労働者OBだ。この作品に登場する非正規雇用の集配労働者・岩垂の配達区域は環状7号線が通っており、題名の<カンナナの坂>とは環状7号線と交差する道路の坂のことである。その坂を登るのに50ccのバイクでは苦しいのである。正規雇用は125ccに乗っている。ところが岩垂は、人員が少ない日曜出勤のときでもない限りは125ccに乗れない。50ccのバイクはここでは郵政における非正規差別を象徴している。 2020年10月、郵政における夏期冬期休暇・病気休暇・扶養手当・年末始手当・年始祝日休での非正規差別について最高裁は下級審の判断を覆し、「労働条件の相違は、労働契約法20条にいう不合理と認められる」として非正規雇用労働者である原告(郵政ユニオン組合員)の主張を支持した。闘ってきたからこその成果であるのは間違いない。ただ、この最高裁判決を「『憲法の番人』としての矜持を示した」と池田さんが書かれる(193ページ)のは、寛大な評価のように私には思われる。諸手当において是正が進んでも、郵政においては正規雇用労働者と非正規雇用労働者の間の基本賃金の格差が大きく、労働契約法20条も最高裁もそこには踏み込んでいないからだ。ともあれ非正規差別をなくすことは、郵政のみならず日本の労働運動にとって最大の課題の一つである。 ところで現在の池田さんにはもう一つの顔がある。原発関連労働者ユニオン書記長としてのそれである。彼は2013年3月に赤羽郵便局を定年退職した後、翌14年2月から5月まで福島の浪江町で除染作業に従事、さらに同年8月から翌15年4月まで福島第一原発構内で廃炉に向けた事故収束作業にたずさわった。その体験をふまえて被曝労働者の安全衛生などのために尽力している。池田さん自身フクイチでの廃炉作業従事中に被曝した。その日々は『福島原発作業員の記』(池田実著、八月書館、2016年2月刊)に詳しい。福島で働いていたとき詠んだ短歌は朝日新聞の【歌壇】に何度も採歌された。そんなこと聞いていなかった私は、当時日曜の或る朝【歌壇】に彼の名前を見てびっくりしたものだ。除染や廃炉作業のことを詠んでおり、福島からとなっているから、間違いなくあの池田さんだ!と。
除染から廃炉作業に身を投じやがて福島がふるさとになる
もっとも三十一文字が「天から降りてくる」のは福島に居るときに限られるそうで、普段の彼は作歌に励むことはないようだ。 さて本書に収められた文章は月刊『伝送便』誌の2018年2月号から22年5月号まで46回にわたり連載された。連載中から共感が静かにひろがっているのを感じたが、郵政職場の交流誌である『伝送便』の読者は限られている。一冊にまとめられたことによって広く人々の目に留まることができるのを、郵政労働運動における仲間として友人として喜ぶ。ウラ表紙に赤い郵便バイクのイラストを描いた白井次郎さんも静岡県在住の郵便労働者OBである。池田さんの闘いは、こうした全国の仲間たちに支えられている。 ![]()
『郵政労使に問う ~職場復帰への戦いの軌跡~』池田実著、すいれん舎 定価1.760円(税込)
購入法については『伝送便』ホームページをご覧ください。 ※文中に登場する小説『カンナナの坂』の全文はこちらで dig三上広昭「カンナナの坂」 (em-net.ne.jp) ※『福島原発作業員の記』について「労働者文学」掲載書評は
by suiryutei
| 2022-11-03 06:26
| 文学・書評
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