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この夏も中野重治全集をすこしずつ読み進めている。進めているといったって一日数ページである。牛歩のごとき歩みだ。各巻600ページ前後が全部で28巻あるのだから、ゴール(完読)はいつになることやら。しかし、2014年の晩秋に友人の好意で入手してから足かけ9年、いま24巻目まで来た。 その24巻目に『在日朝鮮人の問題にふれて』と題する文章が載っているのを、つい昨日読んだ(543-549ページ)。中野は雑誌〔新日本文学〕に1972年から『緊急順不同』というタイトルでエッセイを26回にわたって連載した。その中の一編だ。 関東大震災のあと志賀直哉が書いた『震災見舞』という文章を中野はそこに紹介している。 志賀は当時41歳。千葉県我孫子(いま酔流亭が住んでいる土地です)から京都に移っていたが、関東が震災で大変なことになったと聞いて見舞いのため東京へ出た。一面の焼け野原を歩き、大手町で積まれた電車のレールに腰かけて休んでいるとき、「丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた」。 刺子を着たほうが笑顔で得意げに話すのが志賀の耳に入る。刺子とは火事装束などに用いられるから、その若者は地元の自警団の一員だろうか。 「・・鮮人が裏へ廻ったんで、直ぐ日本刀を持って追ひかけると、それが鮮人でねえんだ。」・・・「然しかう云う時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、到頭やっちゃったよ」。 志賀は大手町でこの会話を聴いたのだから、惨事は東京の真ん中でのことだろう。酔流亭が思い出すのは福田村事件のことだ。千葉県の現在は野田市の一部となった旧福田村で震災発生5日後の9月6日に起きた。 犠牲となった(妊婦のお腹にいた胎児も含むと10人が惨殺された)香川からの薬売り行商一行は、讃岐弁が通じず朝鮮人と間違われた。しかし、香川県知事が発行した薬行商の鑑札を持っていたのだし、問答するうちに身元はわかったはず。それでもかまわず「かう云う時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、到頭やっちゃったよ」とばかり殺されたのではないか。 行商一行は被差別部落の人々であった。朝鮮人への敵視と差別、部落差別、職業への偏見が複合していたのだろう。 こんなことが二度とあってはならない。そのためには事実をしっかり見つめないと。 中野重治の上記文章の日付は1973年1月20日。今から半世紀前だ。関東大震災が起きて50年のときである。明後日、9月1日は震災から100年にあたる。 志賀直哉『震災見舞』を酔流亭はまだ読んでいない。わが書架にある筑摩書房〔現代文学大系〕㉑志賀直哉にも収められていない。インターネットの青空文庫で読めないかと探してみたが、無いようだ。ネット検索していたら、精神科医の香山リカさんが6年前の夏にツイッター(現X)に中野重治が引用したのと同じ箇所を紹介しているのを見つけた。
by suiryutei
| 2023-08-30 08:11
| 文学・書評
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