新人事制度 大阪での報告①~③
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【いてんぜ通信】第12号寄稿『最後の病状報告(のつもり)、積読の効能』の後編を、昨日の前編に続いて転写します。 映画『ゴッドファーザー』とグラムシの生涯 そこで病状報告はこれにて打ち切りとして、日付を8月の旧盆の頃まで戻したい。 私はこのごろNHKBSプレミアムで放映される映画をよく視る。平日の午後1時からの放送である。旧盆にはこの時間帯にフランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザー』が一作目、二作目、三作目と連日放映された(8月14.15.17日)。 第一作が日本公開された1972年、私は高校三年生だった。大変な評判であり、大ヒットしたのを横目で見ていた。ロードショー館でずっとロングラン公開されていたから、観に行ってはいない。そのころ私が行く映画館はもっぱら名画座である。70年代なかば頃まで都内のあちこちに残っていた名画座では、一時代前の映画を150円~200円くらいで観ることができた。ロードショーなら500円だったろうか。田中角栄内閣(1972年7月~74年12月)の下でインフレが続き、同じ年の春と秋では物価が違っていたから記憶が正確ではない。 1975年公開の第二作も、ずっと遅れて91年に公開された第三作も観なかった。ニーノ・ロータ作曲の哀愁に満ちた主題曲は映画館に行かずとも、この半世紀あちこちで聴かされてきたが。 今回3作全てを初めて視て、世評がそうであるように、二作目が一番出来がいいと、私も思った。 その二作目では、二代目のゴッドファーザーとなったマイケル・コルレオーネをアル・パチーノが演じる。1958年、マイケルは革命前のキューバの首都ハバナを訪ね、革命派のゲリラが政府軍兵士に追い詰められ「カストロ万歳!」と叫んで兵士を道連れに手榴弾で自爆死するのをたまたま街頭で目撃する。 「革命が起きるかもしれない」。 マイケルのモデルとなったマフィアのボスは実際にいたはずで、そのボスが本当にそう呟いたかどうかはわからない。しかし、アメリカの大資本がバチスタ政権(革命前のキューバ政権)を手なずけて腐敗させている一方、キューバ民衆が貧困にあえいでいたのを垣間見せるような場面である。アメリカ大資本のうち「汚れた」部分がイタリア移民系のマフィアだが、他のワスプ系「堅気」資本だってキューバを食い物にしていたのに変わりはない。マイケルの訪キューバが、そもそもハバナの賭博場をめぐる利権がらみである。 一作目ではマーロン・ブランドが演じた先代ヴィトー・コルレオーネは、二作目ではロバート・デ・ニーロが扮した。マイケルの物語と並行して、先代が若き日にいかにゴッドファーザーに上り詰めていったかが時代を遡って描かれる。地元のマフィア同士の争いで父も兄も母も殺されたヴィトー少年が故郷のシチリア島から単身アメリカに渡ったのが1901年、9歳のときであった。 視ている途中、はたと気づいた。すると、ヴィトー・コルレオーネは1892年生まれだ。グラムシとほぼ同世代ではないか。 イタリア共産党の創立者の一人、というにとどまらず現代思想に大きな影響を及ぼしている思想家アントニオ・グラムシは1891年、サルデーニャ島に生まれた。村の小役人だった父はグラムシが幼少のとき政争に巻き込まれて、収賄の罪で5年も刑務所にいたから、少年グラムシも苦労した。「私は幼いうちから自分で自分を引っぱっていった。11歳になったばかりで働き始め、日曜の午前中も含めて1日10時間の労働で、やっと月給9リラ(これは日に1キロのパンが買えるだけの金だ)を稼いだ。自分の体重より重い登記簿をあちこち運びまわり、夜になると身体中が痛んでたまらず、隠れて泣いたことも多かった。」とはグラムシ本人の回想である(G・フィオーリ著『グラムシの生涯』平凡社選書から引用)。 ![]() 地図を見ると、イタリアという国は、あの長靴みたいな恰好の半島と、それから地中海に浮かぶサルデーニャとシチリアという二つの島によって主に構成されている。ヴィトー・コルレオーネの故郷シチリア島は、長靴のつま先からすぐ先に位置する。アントニオ・グラムシの故郷サルデーニャ島は、シチリア島より上のほう、半島からも少し離れたところ。そのさらに上には一回り小さいコルシカ島があるが、ここはフランス領だ。ナポレオンの出身地として知られる。 実在したグラムシと違って、『ゴッドファーザー』のコルレオーネ家は架空の存在ながら、モデルとなった(映画に描かれたのと実際に似たような)一族、個人はいただろう。イタリアの、半島以外の二つの島出身の同世代の二人が、辛酸を舐めた少年時代を過ごしてから、一人はムッソリーニのファシスト政権に投獄されながら獄中で独特の革命思想を紡ぎ、一人はニューヨークでマフィアのゴッドファーザーに登りつめる。かつて映画少年であり、いまだに左翼の尻尾を引きずっている私にはこういうことが面白い。そうしてマフィアに対してよりも、イタリア共産党のほうに私はやはり親近感を持つのである。イタリアのこの党は現在は存在せず、1991年に左翼民主党、2007年に民主党へと変わり、ときには政権も担って今日に及ぶのだが、その変遷については1937年に亡くなったグラムシとは別に論じなければならない。私が惹かれるのはグラムシという人間だ。 グラムシは先にちらりと触れたような少年時代をサルデーニャ島で過ごしてから、某財団の奨学生制度に応募してトリーノ大学に進む。このとき同じ奨学生制度にサルデーニャ島から応募した高校生にパルミーロ・トリアッティ(1893-1964)もいた。合格枠39人のうちトリアッティは2位、グラムシは9位の成績だったという。二人ともじき左翼運動に飛び込み、まず社会党で活動した。 イタリアも参戦した第一次世界大戦(1914年~1918年)を経て、1921年、左派が社会党を割って出るかたちでイタリア共産党が生まれる。初代指導者のアメデーオ・ボルディーガ(1889-1970)が魅力的な人物であることはグラムシの伝記からも覗える。しかし、統一戦線より武装蜂起を志向する彼の路線は当時のコミンテルンには容れられず、24年からボルディーガに代わって指導者になったのがグラムシだ。ところが、ファシストのムッソリーニが権力を取ったイタリアで共産党は非合法である。国会議員であったにもかかわらず、1926年、国外に亡命する寸前にグラムシは逮捕され、20年4か月の禁固刑を受けた。それ以後、彼の思想はもっぱら獄中で紡がれていく。有名な『獄中ノート』は32冊、総計2848ページに及ぶ。獄内で埋もれてしまったかもしれない彼の思想を世に知らしめたのは、グラムシを継いでイタリア共産党の指導者となったトリアッティだ。 遺された写真を見ても美しい顔立ちであるグラムシは、くる病というのだろうか、背骨が後方にもり上がり、弓状に湾曲する体躯だった。身長は150㎝を超えなかった。病弱でもあった。体力を養わなければならない成長期に食うや食わずで働き、勉学に打ち込んだことが尾を引いてもいたのだろう。獄中では尿毒症に苦しみ、胃痛に悩まされ、結核、動脈硬化、脊椎カリエスが進行する。 イタリアのファシズム政府は必要な治療を獄中の彼に施さなかった。1931年8月3日に最初の喀血。1933年3月7日に動脈硬化の発作で身を起こしたとたん床に落ち、それ以後は自力で起き上がることができない。ロマン・ロランやアンリ・バルビュスらも名を連ねた国際的救援運動におされて、1933年12月7日、窓に鉄格子のはめられた病院にようやく移された。すでに手遅れである。彼の思想を書き留めたノートの執筆は1935年の夏まで続く。1937年4月21日、減免によって刑期完了。死はその六日後の4月27日である。かたちの上では刑期を終えてからの病院での死といえ、実際は獄中死と変わらない。 ここまでグラムシについての叙述を、私は先ほど少しだけ引用した『グラムシの生涯』という本に拠っている。1971年にイタリアで出版され、邦訳は翌72年に出た。著者のジウゼッペ・フィオーリ(1923-?)はイタリアのジャーナリスト。私が持っている本は奥付に1980年2月25日初版第5刷発行とあるので、私はそのころ買ったらしい。以来40年以上わが本棚に並ぶだけで手に取ることがなかった。グラムシが属していた左翼運動の世界から私は離れていた時期が長かったからだ。 今年の1月から2月にかけての入院のとき病院に持って行った『20世紀の歴史』の著者エリック・ホブズボームがグラムシの思想を高く評価している。それを知ったのは病気をしたおかげだ。本棚から引っ張り出し、なるほど積読(つんどく)の効能とはこうしたものかと、40年の歳月を挟んで思う。旧盆のとき映画『ゴッドファーザー』を視てからも、映画に描かれたシチリア島の陽光にサルデーニャ島のそれも連想しながら二度読み返した。グラムシの思想そのものにあたっていくのは、私にとって来年以降の課題になる。 ![]() (完)
by suiryutei
| 2023-11-29 05:16
| 文学・書評
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