新人事制度 大阪での報告①~③
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今月20日に開催されたHOWS講座〔目取真 俊『魂魄の道』を読む・その2〕において行なった報告を今日から3回に分けて、若干の加筆と修正をして転写します。講座は本郷三丁目にあるHOWSホールで行なわれて20数名の参加であった。午後1時~4時。初め酔流亭が1時間10分ほど報告し、休憩のあと討論となったが、このブログでは酔流亭の報告のみ紹介する。 ![]() 目取真俊の作品を読むとは、沖縄のことを考える、向き合おうとするということだと思います。よって、まず自分自身の沖縄との出会いを述べることから始めます。 私が最初に沖縄と出会ったと言っていい体験は中学三年生のときです。1969年でした。これについては一昨年『労働者文学』という雑誌に書きました。『沖縄出身の先生』と題するコラムです。 ![]() たしか中学三年のときである。教科は地理であったか。・・・こんなふうに記憶が曖昧なのは、思い出したくないこととして私の心にひっかかっているからだ。 一年間、沖縄出身の先生がその授業を受け持った。若い人だった。まだ二〇代ではなかったか。真面目だけれど不器用な先生だった。髭を剃るときに作ったらしい切り傷がいつも先生の頬に絶えなかったことだけは、記憶がボンヤリしている中でハッキリ憶えている。髭が濃かったことと不器用であったことは印象に残っているからである。 不器用だから教え方も上手ではなかった。まだ経験が浅いのだから仕方なかったろうが、クラスの秀才たちはそのことで先生を初めからいくらか軽んじていた。 どうしてその話になったかは憶えていない。あるとき「日米安保条約は破棄するべきです」と先生が教壇で断言したのである。それにクラスの秀才たちが反発した。「教師が授業で政治的意見を言うな」と詰る者がおり「安保のおかげで日本は豊かになったんだ」としたり顔で言う者がいた。「沖縄だって日本に戻ってくるじゃないか」とも。声の大きな何人かの生徒が同調する。 そのときから、学年が終わるまで、先生の授業はもう授業にならなかった。私語が飛び交い、お調子者で声の大きな生徒が何かにつけ音頭をとって先生の名を連呼した。いま仮に先生の名を「源」としておこう。ミナモト・ミナモトと囃し立てる声が今も耳にこびりつく。 私はどうしていたかというと、何もできなかった。私語や連呼の輪にだけは絶対に加わらなかったけれど、もう一歩前に出て先生の側に立って何か言うことはできなかった。 あのころの私は今以上に人前でしゃべることが苦手だったし、それに勉強ができなかったのである。中学の三年間は、教科書は学校のロッカーに入れたまま、予習・復習はおろか宿題もまったくやらない生徒だった。だから、思い出しても悔しいが、口の達者なクラスの秀才たちと議論する自信が無かった。私が、今も恩師と呼ぶ世界史のW先生と出会って勉強することの面白さに目覚め、したがって成績もそれなりに上昇していったのは その二年後の高校二年生ごろからだ。 しかし、あの秀才たちは沖縄のこと安保のことの何を知っていたのだろう。明らかに親の言っていることの受け売りをしているだけの奴がいた。さらに、そんなことはどうでもよくて、ただ若い教師が困るのを見て喜んでいる奴がいた。 それにしても、あの授業光景は、沈黙していた自分を含めて、日本という社会の今に至るまで変わらない縮図であるように思う。私の中学三年といえば一九六九年で、沖縄はまだ本土に「復帰」していなかった。が、「復帰」してから何が変わっただろう。 五三年前の辛い記憶だ。 コラムでは<源>と書いていますが、源河先生というのが本当の名前。そのときこの先生の側に立って何もできなかったことの悔しさ・屈辱感というのが今も残っています。もちろん先生は私などよりはるかに強い屈辱を感じて、耐えていたと思う。 その次の出会いは1975年秋、東京中央郵便局に就職してからです。私より一年半早く、1974年春に入局していた先輩に麓隆治さんという人がいました。沖縄出身、法政大学を中途退学して郵便局に入った人で、私より3歳年長でした。 私は75年10月から働き出し、その翌月、11月26日からスト権ストが始まります。8日間続きました。国労・動労はずうっと列車を止めていましたが、郵便局の労働組合である全逓労組にはそこまでの力はない。拠点職場が2日間ずつ順繰りにストに入っていった。東京中郵がストに入ったのは11月30日と12月1日でした。ところが私たち新規採用者は採用から一年間は任用期間といって素行をチェックされる。そのころ郵便局はまだ国営で、働いている者は国家公務員です。スト権を持っていない(だからスト権をよこせとスト権ストをやったわけです)。任用期間中の新採が“違法スト”に参加すれば採用を取り消されます。やむをえずスト当日も勤務に就いた。 組合員でも勤務に就いた人がいました。いわゆるスト破りです。私が配属された職場では組合員の1割ほどがそうだった。その中に翌年3月に退職するKさんがいました。そのころ郵便局には定年制はまだありません。高齢になって本人が退職を決めたようです。Kさんの送別会は3月に日暮里の居酒屋で開かれました。 職場の組合役員(分会役員)はこの送別会に参加しませんでした。「スト破りとは酒を飲まない」ということだったのでしょう。役員氏のこの行動は間違いだと私は当時も今も思っています。ストに参加した人も含めて職場の多数の人が送別会に参加しているのです。 それはさておき、会がお開きになった後なお何人かが残りました。「お、酒まだ残っているぞ。空にしていこう」という、あれです。 当のKさん、送別会幹事を務めたWさん、ほか数人の中に私も麓隆治さんもいて、ストに入らなかった人も何人かいた。何が原因かもう憶えがないけれども、ストに入らなかった人の一人と麓さんとで口論になり、麓さんは席を蹴って帰ってしまった。 そのあとWさんが吐いた言葉が忘れられません。 「あの●●●●●●●が!」 と、彼はそう吐き捨てたのです。 上の言葉は被差別部落の人びとに対する蔑称です。Wさんはストに参加したし、日ごろは麓さんともにこやかに話していました。彼としては「オレが仕切った会の場で揉め事をおこしやがって」という思いが噴き出したのでしょう。そういうときこんな言葉が口を衝くところに部落への差別意識の根深さを思うし、沖縄もそういう差別の対象となっていることを思います。Wさんは当時20代後半、新潟県出身でした。東京で就職して麓さんと会うまでは沖縄県人と接触したことがなかったのではないか。被差別部落の存在は知っていたでしょう。そして被差別部落民も沖縄県人も(おそらく在日朝鮮人も)ゴッチャにして自分たち“一般日本人”とは異質の存在と思っていたのではないか。 さて採用されて一年がたち、晴れて任用期間が終わった私に 「胸章なんかとっちゃえよ」 と最初に声をかけてくれたのは麓さんでした。戦後しばらくの間は胸章なんてそもそも無かったのを、当局と労働組合との対立関係が続き、闘争時に組合員が胸に着けるワッペンや腕に巻く腕章を「外しなさい」と指導してきた当局が持ちだしてきた胸章ですから、組合活動に積極的な人は胸章を着けなかった。そんな具合に、私は麓さんに労働組合運動の手ほどきを受けました。組合の機関を通じた取り組みではなく有志として部落解放同盟東京都連から映画『狭山の黒い雨』のビデオを借り、中央郵便局の会議室で上映会をやったこともあります。組合機関を通してではないというのは、当時、私たちが所属していた分会の役員は共産党が多数で、狭山に関心を持つ者なんて「トロッキスト暴力集団」扱いだったからです。 そのころのことで麓さんに悪いことしたと今も心残りなのは、1980年に公開された映画『太陽の子てだのふぁ』(浦山桐郎監督)のチケットを麓さんを通じて入手しておきながら観そびれてしまったことです。そのころ私は分会青年部の役員になったばかり。4.28反処分闘争などでかけずりまわっているうち映画の公開期間が終わってしまった。 『太陽の子てだのふぁ』は神戸の下町で小さな沖縄料理店を経営する沖縄出身の両親と暮らす<ふうちゃん>という少女の物語です。灰谷健次郎の原作は後で読みました。ふうちゃんのお父さんは時々沖縄戦の記憶がよみがえって精神に変調をきたす。お父さんが沖縄戦で体験したことの一端を、今回『魂魄の道』に収められた諸作品によって生々しく知った思いがします。 ![]() 麓さんはたしか1982年ごろUターン転勤で沖縄に帰り、那覇中央郵便局などで定年近くまで勤めました。沖縄に帰ってからの彼とは年賀状のやりとりくらい。私が結婚したときは上等の泡盛を贈ってくれた。 2013年、山城博治さんが参議院議員選挙比例区に立候補したときウチワそのほか山城選挙グッズをたくさん送ってきました。麓さんは、中退した法政大学で山城さんと同学年、ずっと付き合いがあったということをそのとき知りました。 その後2015年、私が沖縄に行ったときは辺野古ゲート前で待ち合わせて一緒に座り込みをしてから嘉手納にあるご自宅に泊めていただいた。7月なかば、4泊5日の旅でしたが、那覇空港に降り立った日は、前年に東京から沖縄に移住した友人と久しぶりに会いました。この人は三線に魅せられて2010年でしたか単身、沖縄に行き、やがて沖縄の人と結婚して音楽活動を続けつつ、現在では3人の子どもに恵まれています。 「おやすみ」 iRu(イル)(旧Gazyu。)オリジナル (youtube.com) 翌朝は比嘉宏さんがホテルの前まで車で迎えに来てくれた。比嘉さんも郵便局OB。在職中、沖縄で最初の郵政ユニオン組合員になった人です。私も麓さんもJP労組に残ったのですが、所属労組は違っても私たちは『伝送便』という媒体などを通じてつながっているのです。比嘉さんは高江に連れて行ってくれ、名護市内のホテルに一緒に泊まり、つぎの日は辺野古にも。そこで私のお守り役を麓さんにバトンタッチした。 今日、司会をされている日向よう子さんに声をかけられて2018年にも辺野古座り込みに行きました。このときは尾沢孝司さん、サンケン争議支援で不当逮捕されて、いま裁判闘争を闘っているあの尾沢さんに引率していただいた。日向さんも尾沢さんも〔辺野古への基地建設をゆるさない実行委員会〕を中心になって担っていることは皆さんご存じでしょう。 麓さんはこのときもゲート前に来てくれて、ちょうど1月の<ムーチーの日>(旧暦12月8日)だったので、ムーチー(鬼餅)と泡盛の一升パックを差し入れてくれました。ムーチーというのは月桃の葉に包まれた甘いお餅で、一年でいちばん寒い時季にこれを食べて力をつける、厄払いするという風習が沖縄にあるそうです。 中学生のときの源河先生と、今も親交がある麓隆治さん。それに比嘉宏さん、いまや沖縄の人となった友人。これが私が生身で知る沖縄です。前置きが長くなりました。これから『魂魄の道』に進んでいきたいと思います。 (つづく) ※2015年の沖縄への旅のことは雑誌『労働者文学』No.78に寄稿しました。 ![]() 雑誌『労働者文学』の最新号に : 酔流亭日乗 (exblog.jp) ※2018年に参加した辺野古座り込みについては同じく『労働者文学』No.83に。 ![]() 座りこめここへ ~『労働者文学』No.83掲載文① : 酔流亭日乗 (exblog.jp) 泡盛と餅(むーちー) ~『労働者文学』No.83掲載文② : 酔流亭日乗 (exblog.jp) 闘いは続く ~『労働者文学』No.83掲載文③ : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
by suiryutei
| 2024-03-23 08:07
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