新人事制度 大阪での報告①~③
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『魂魄の道』(目取真 俊、影書房、2023年2月刊)読書会③における報告の転写は今日が最後。一昨日、昨日と長文の更新記事にお付き合いくださり、ありがとうございます。今日も長いです。同書に収められた5編についてのメモです。 同書をテキストにした3回連続の講座でした。一回目は去年12月、明治大学名誉教授の越川芳明さん、二回目は今年2月、近代日本文学研究者の田代ゆきさんがそれぞれ報告者。その二度の講座でかなり突っ込んだ議論がされてきたと思います。今回の酔流亭のメモは、それを承けて、脇道にそれたり、あるいは些末なところの確認にこだわったきらいがあります。各編の梗概は述べていないので、同書未読の方は下に貼り付けたネット記事が参考になるかと思います。 ![]() 『魂魄の道』 ・「魂魄」とは人間の精神的肉体的活動を司る神霊をいう。この作品では魂魄の塔が重要であろう。「家族の戦死場所が不明な遺族がやってきて手を合わせる場所」(26ページ)。 ・語り手(<自分>あるいは<私>と表示され、名前は出てこない)は沖縄戦のとき18歳。防衛隊に編入された。防衛隊とは17-45歳招集だが、実態は17歳未満また70歳台の人もいた。2万2000人~2万5000人が招集されたと言われ、戦死者は約1万3000人に上る。 なお鉄血勤皇隊は14-16歳の学徒兵で日本軍と行動を共にした。宮古、八重山を含めて12校から従軍1780人、死亡890人。5割の死亡率である。護郷隊は14-17歳。山中に潜み米軍を攪乱する役割(ゲリラ活動)。約1000人のうち約160人が死亡。 ・1995年に初めて平和の礎を訪ねたとき「何か空々しい印象を抱いた」(12ページ)のはなぜか。自国の軍人軍属のみを対象とする「顕彰」の論理=靖国の論理を否定した。だが・・・。 ・ゴボウ剣とは銃剣の俗称。 ・大田昌秀著『沖縄―戦争と平和』(1982年刊)に、爆弾の破片で腹をやられて死んでいる母親の乳房にすがって泣いている幼児に父親らしき男性が「お前もおかあさんといっしょになっていたらよかったのに」と言うのを目撃した住民の証言が載っている。破片でお腹をやられると内臓があふれ出す。『魂魄の道』における「ぬらぬらと光る自分の腸を両手で抱え」(16ページ)て我が子を「殺して」と哀願する瀕死の母親の姿は、こうした証言に基づいて造形されたのだと思う。
『露』 ・作者は琉球大学を卒業した年、今帰仁村にある運天港で実際に荷揚げ作業のアルバイトをやっており、作業後に年長の同僚たちとよく酒盛りをしたと別の評論で書いている。この作品の語り手は作者その人と考えていいと思う。作者はそのあと那覇の警備会社でもアルバイトをしており、従軍体験のある年長の同僚と組んで警備にあたることがあった。『露』において宮城が語る中国大陸での日本軍兵士の残虐行為は、その同僚から聞いたことであるようだ。 ・中国大陸に従軍体験のある68歳の宮城と沖縄戦で(作中に明記はされていないがおそらくは)防衛隊に召集されて生き残った65歳の安吉。この2人の語りが軸である。 ・物語は1986年のことだから、沖縄戦のとき安吉は24歳だったことになる。 ・目取真の1987年の作品『産卵』にも安吉が語るのと同じエピソードがやはり<安吉>という64歳の人物によって語られている。 ・さて宮城の語りは日本帝国主義の軍隊が残虐非道の侵略を尽くしたこと、そして沖縄県民も大日本帝国の臣民として従軍したことによって侵略を担わされたことを示している。琉球は日本に併合される(侵略される)ことによって日本の版図の一部となり、そうなった結果、台湾や朝鮮への日本の侵略・植民地支配に帝国の一員として動員された。この被害(琉球併合、被侵略)と加害(大日本帝国の一構成部分として朝鮮や中国やアジア諸国と対する)の関係をどうとらえたらいいのか。目取真氏が書いた『被害と加害』と題する評論がある(別紙)ので、ここで読んでおきたい。 ![]() ※上の文章はネット上では見つからなかったので、同じテーマを論じた目取真氏のブログ記事(2022年11月10日更新)を貼り付けておきます。 「季刊 目取真俊」31回 - 海鳴りの島から (goo.ne.jp) ・報告者からやや突飛なことを述べる。1998年10月、当時韓国大統領だった金大中氏が来日して国会で演説したとき、金氏は古代から続く日韓両国の長い友好関係の中で関係が悪かった時期はわずかしかないと述べ、そのわずかな例として16世紀の秀吉による朝鮮侵攻と20世紀の植民地支配を挙げた。ところが、当時44歳、若手自民党タカ派議員として売り出し中の安倍晋三・衆院議員がこれに反発した。「それでは、元寇で先兵になったのはだれなのか」云々(1998年10月9日付『朝日』朝刊)。 元(モンゴル)の支配下に置かれていたために元寇にかりだされた高麗(当時の朝鮮の国名)と、朝鮮侵略に主体的に乗り出した秀吉とでは全く違う。安倍晋三はそういうこともわからない政治家であった。報告者がこんな四半世紀も前のことを妙にはっきり憶えているのは、当時の全逓労組新東京郵便局支部の機関紙にこの件で安倍晋三を批判する記事を書いたからである(『日刊新東京』1998年10月19日付2面)。 ![]() 安倍晋三氏に触れた古い文章から : 酔流亭日乗 (exblog.jp) 元に支配されていたため、その侵略戦争に動員された13世紀の高麗と、日本帝国の版図に組み込まれてしまったため、<大東亜共栄圏>形成の最前線に立たされた20世紀の沖縄。立場が似ているように思う。 そしてモンゴルによる高麗支配において忘れてはならないのは<三別抄>の抵抗である。高麗の武人組織で、海民的な人びとを組織して朝鮮半島南岸の珍島、済州島などに拠ってモンゴルに対して徹底抗戦した。元寇の先兵どころか、この徹底抗戦がモンゴルの日本列島侵攻に強いブレーキをかけることになったのは間違いない。最後の拠点済州島がモンゴルによって攻略され<三別抄>が根絶されるのが1272年、第一次の元寇が1274年だ。この時系列からも<三別抄>の抗戦が日本列島を守る盾になっていたことが覗われる。ところが1271年<三別抄>は日本列島に救援を求める使者を送っていたのに、京都の王朝も鎌倉の武士政権もこれを黙殺してしまった。 琉球の歴史においては、秀吉の朝鮮侵略に際して島津氏が兵糧の一部の提供を琉球に要求してきたのを拒否している。これが後に島津の琉球侵攻の口実にされた。また琉球処分(1872-79)にあっても琉球側は日本軍隊の駐留を「・・小島ニテ従来兵ヲ備ヘス礼儀ヲ以テ維持ノ道ヲ立・・」(前出大田昌秀著作より引用)と抗弁して強く拒んだ。結局は日本政府に押し切られてしまうのだが、これも憶えておくべきことだろう。 目取真氏たち沖縄の人が沖縄の加害責任を論じることに対して報告者は深い敬意を覚える。ただ、琉球を侵略することによって、それに続くアジア侵略に沖縄をひきずりこんだヤマトゥの人間が「沖縄の加害」などと気安く口にしてはならないと報告者は考えている。
『神ウナギ』 ・沖縄戦のとき勝栄は41歳、文安の年齢は明示されていないが勝栄は30歳で結婚して翌年に文安が生まれたという記述があるから10歳前後である。出稼ぎに行ったヤマトゥで赤崎に偶然再会したとき文安は50代になっている。時代は1980年代後半ということになる。 ・ハワイに移民体験のある勝栄が洞窟(ガマ)に籠る住民たちを説得して集団投降させ命を救うエピソードは、やはりハワイ帰りだった比嘉平治氏とおじの平三氏が下区壕(シムクガマ)に籠る約1000人の住民を集団投降させた史実などをモデルにしたのであろう。作中、島言葉を使ってハンドマイクで投降を呼びかける日系米兵が登場する。実際何名も米軍に従軍していた彼らは沖縄からアメリカに渡った移民労働者の二世である。かつての移民労働者と移民労働者二世とが立場の違いを越えて住民救命のため協力した例がいくつもあったと『沖縄戦―もう一つの見方』(佐々木辰夫著、スペース伽耶刊)に書かれている。プロレタリア・インターナショナリズムが戦場で発現した一例であろう。 ![]() ・一方、そのあと勝栄が米軍のスパイだと濡れ衣を着せられて日本兵(赤崎)に惨殺されるのには作者の祖父の体験が投影されているようだ。今帰仁村の警防団長だった祖父は鉄血勤皇隊に動員された息子(すなわち目取真の父)が戦死したと思い、せめて遺体を拾いたいと知人に相談したところ戦場跡まで米軍のジープに乗せてもらえた。それを日本軍に密告され命を狙われ、毎夜家に帰らず隠れ廻った。勝栄のようには殺されなかったが。今帰仁村では住民3人が日本兵に虐殺されている。 ・前回の講座で討論のとき参加者から「神ウナギは共同体を象徴している」という意見が出されたのにハッとした。その通りだと思い、ウナギが村の守り神だなんて迷信だと嘲笑して神ウナギを殺した赤崎の行為に福沢諭吉が頭に浮かんだ。福沢の『福翁自伝』には、子どものころの彼が周りの大人たちがありがたがっているお稲荷様の祠とかを迷信だとして、祠の中に置かれた札をそ知らぬ顔で捨ててしまう話がある。バチなんか当たらなかったぞと得意になっている。それを読んで私たちは「さすが慶應義塾の創始者は子どものときから怜悧であった」と感心した(させられた)。しかし、迷信であれ(報告者も迷信は信じないが)人びとが長年大切にしてきたものを土足で踏みつけるような行為は暴力だ。そして、この暴力は、福沢が長じて大日本帝国膨張の応援団長になるや侵略と排外主義のむき出しの鼓吹へとそのまま繋がっていく。近代合理精神の権化は近代(現代)帝国主義の権化となった。「遅れた」東洋の蒙をこじ開けるのに暴力を躊躇するなとばかりに。 ・神ウナギを村人が尊重するのを今(赤崎と同様)迷信と片づけてしまった。しかし生態系のことを考えると、必ずしもそうではないかもしれない。「神ウナギが湧き口を出入りするから泉は詰まらずに湧き続ける」(65ページ)。すると近代の暴力性は一段と罪深い。 ・木下武男「労働組合とは何か」(岩波新書、2021年刊)によれば労働組合の遠祖は中世のギルドに求められる。いっぽうレーニンは労働組合を共産主義の学校であると言った。前近代の共同体に拠って近代の暴力性に抵抗しつつ(前近代の否定面とも闘いながら)近代の先へと進む可能性をここに見たいのだが。 ・では共同体をどう考えたらいいのか。福沢諭吉を高く評価していた丸山真男は共同体をもっぱら否定面(近代的自我の確立を抑圧するもの)においてとらえた。他方、近代化という暴力に対して前近代の共同体に拠った抵抗の可能性を模索する色川大吉のような議論もある。ただ色川は、水俣病患者支援の活動などに忙しかったか、その丸山批判を徹底しなかったように素人目には見える。 ・4話目の『闘魚』は作者の母の家族の沖縄戦体験を下敷きにしているようだ。『闘魚』ではそうなっていないが、一家は今帰仁村から10㎞ほど海を渡った屋我地島に移り住んでいた。米軍の艦砲射撃を受けたとき村の避難壕に「よそ者」であるため入れてもらえなかった。作者の別の短編『ホタル火』では、子が奇病を患い普段も村から隔離されて暮らしている親子が壕に入るのを拒まれたばかりか、湧き水を汲むことも許されず石を投げられて追われる。共同体にはそういう面もある。
『闘魚』 ・闘魚とは別名ベタ。熱帯魚。ネットで写真をみると尾も青色の鰭も長い。水田や川に棲む。攻撃的な性格で、オス同士を混泳させると殺し合いに発展することもあるという。そこから和名〔闘魚〕となったか。 ・作者の母は1934年生まれ、沖縄戦のとき10歳で7歳の弟がいた。目取真にとって叔父にあたる。勘一といった。『闘魚』における8歳の勘吉のモデルであろうし、11歳のカヨには母が投影されているのだろう。母方の祖父は天理教の宣教師であった。祖母は前記した勘一が戦後すぐガソリンの扱いを誤って大火傷を負ったとき、彼を背負ってハンセン病療養所に診せに行った。勘一は助からず息絶えたが。『闘魚』では勘吉は潮にのまれて亡くなる。 ・終わりのほう(151ページ)、カヨの娘の和美の言葉 「私たちがちゃんと覚えておくからね」 は作者自身の思いであろう。死んだ勘吉のことを言っているのであり、勘吉は和美の叔父にあたるが、勘吉のモデルである実在した勘一も作者の叔父になるからだ。 「勘吉叔父さんがいたことは、私達兄妹がちゃんと覚えていて、子ども達にも伝えていくから。」
『斥候』 ・『神ウナギ』と対になったようなところがある。『神ウナギ』では勝栄は密告されて殺される。『斥候』の主人公・勝昭とその母は勝造の父親を密告で死に追いやってしまう。 ・鉄血勤皇隊員として日本兵と行動を共にした勝造が米兵の捨てて行った煙草を拾い、父に吸わせたいと自分の荷物入れに入れておいたら、それを日本兵に見つかって殺されかけたのは、作者の父の体験がそのまま再現されている。なお勝造は県立三中だが作者の父もそう。三中の鉄血勤皇隊は363人中37人が戦死(死亡率10.2%)という記録が残っている。二中は144人中127人(88.2%)、一番戦死率が高い県立工業学校は94人中85人(90.4%)。恐ろしい数字だ。勝造の父が密告されて殺されるのは作者の祖父の体験に近いのは前述した(『神ウナギ』の)勝栄の場合と同じ。 ・勝造の母が亡くなったことを勝昭が母に伝えたら、母の顔に笑みが浮かんだ。その母が認知症が進んでから新聞のチラシの裏に書きつけていた、勝造の母への「激しい怒りと憎しみの言葉」(178ページ)。この笑みと書きつけられた言葉をどう考えたらいいか。 ・〇〇は誰がモデル・・といったことをくり返し述べてきたのは、作者のつぎの言葉が報告者には印象に残っているからである。
「・・体験した者と同じように分かるというのは無理ですよ。でも、違った意味で分かるということは可能なんです。人間には認識能力もあれば、想像力もあるわけですから。直接経験しないことも考えることは可能なはずです。/ 私にとって戦争を考えるというのは、両親や祖父母の体験を追体験して自分の中で再構成して考えることでもあれば、さらに映画やテレビの映像を通してであれ、文学や歴史研究書、さまざまな記録を通してであれ、いろんな資料を介して考える作業なんです。・・」 (生活人新書『沖縄「戦後」ゼロ年』180ページ)
・報告者自身(1955-)のことを言えば、父(1916-1984)は中国大陸に従軍したし、母(1917-1992)は空襲の下を逃げまどった体験があると聞いたことがある。加害と被害の当事者の体験をじかに聴くことができる位置にいたのに、それを怠ってしまった。しかし「さまざまな記録を通してであれ、いろんな資料を介して考える」ことはまだできる。そのことも今回報告者を引き受けて学んだことの一つだ。それにしても『魂魄の道』で艦砲弾の破片を膝に受けた18歳の<私>が「その程度の傷に薬はいらない」と軍医に言われる場面には医薬品も底をついたガザの惨状を思うし、同じ村に暮らす住民が密告を行なう『神ウナギ』や『斥候』に地上での一進一退の殺戮戦が続くウクライナを思う。ジェノサイドと戦争を止めるため声を上げなければと思う。 (了)
by suiryutei
| 2024-03-25 04:57
| 文学・書評
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