新人事制度 大阪での報告①~③
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【いてんぜ通信】の2024年夏号が届いた(No.14、2024年6月1日発行)。 いつもありがとうございます。 ![]() 同号への寄稿を全文写します。 ![]() 今年の3月20日、文京区本郷三丁目にあるHOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)というところで、目取真俊の一番新しい短編小説集『魂魄の道』について報告をする機会に恵まれた。同作は去年2月、影書房刊。2014年から22年にかけて書かれた五つの短編から成る。本稿は、そのときの私の報告だ。少し書き変え、だいぶ削ったが。
![]() 目取真俊の作品を読むとは、沖縄のことを考える、向き合おうとするということだと思います。よって、まず自分自身の沖縄との出会いを述べることから始めます。 私が最初に沖縄と出会ったと言っていい体験は中学三年生のときです。1969年でした。これについては一昨年『労働者文学』という雑誌に書きました。『沖縄出身の先生』と題するコラムです。全文を読み上げます。
沖縄出身の先生 ~「復帰」五〇年に思う~
たしか中学三年のときである。教科は地理であったか。・・・こんなふうに記憶が曖昧なのは、思い出したくないこととして私の心にひっかかっているからだ。 一年間、沖縄出身の先生がその授業を受け持った。若い人だった。まだ二〇代ではなかったか。真面目だけれど不器用な先生だった。髭を剃るときに作ったらしい切り傷がいつも先生の頬に絶えなかったことだけは、記憶がボンヤリしている中でハッキリ憶えている。髭が濃かったことと不器用であったことは印象に残っているからである。 不器用だから教え方も上手ではなかった。まだ経験が浅いのだから仕方なかったろうが、クラスの秀才たちはそのことで先生を初めからいくらか軽んじていた。 どうしてその話になったかは憶えていない。あるとき「日米安保条約は破棄するべきです」と先生が教壇で断言したのである。それにクラスの秀才たちが反発した。「教師が授業で政治的意見を言うな」と詰る者がおり「安保のおかげで日本は豊かになったんだ」としたり顔で言う者がいた。「沖縄だって日本に戻ってくるじゃないか」とも。声の大きな何人かの生徒が同調する。 そのときから、学年が終わるまで、先生の授業はもう授業にならなかった。私語が飛び交い、お調子者で声の大きな生徒が何かにつけ音頭をとって先生の名を連呼した。いま仮に先生の名を「源」としておこう。ミナモト・ミナモトと囃し立てる声が今も耳にこびりつく。 私はどうしていたかというと、何もできなかった。私語や連呼の輪にだけは絶対に加わらなかったけれど、もう一歩前に出て先生の側に立って何か言うことはできなかった。 あのころの私は今以上に人前でしゃべることが苦手だったし、それに勉強ができなかったのである。中学の三年間は、教科書は学校のロッカーに入れたまま、予習・復習はおろか宿題もまったくやらない生徒だった。だから、思い出しても悔しいが、口の達者なクラスの秀才たちと議論する自信が無かった。私が、今も恩師と呼ぶ世界史のW先生と出会って勉強することの面白さに目覚め、したがって成績もそれなりに上昇していったのはその二年後の高校二年生ごろからだ。 しかし、あの秀才たちは沖縄のこと安保のことの何を知っていたのだろう。明らかに親の言っていることの受け売りをしているだけの奴がいた。さらに、そんなことはどうでもよくて、ただ若い教師が困るのを見て喜んでいる奴がいた。 それにしても、あの授業光景は、沈黙していた自分を含めて、日本という社会の今に至るまで変わらない縮図であるように思う。私の中学三年といえば一九六九年で、沖縄はまだ本土に「復帰」していなかった。が、「復帰」してから何が変わっただろう。 五三年前の辛い記憶だ。 (雑誌『労働者文学』第91号、2022年7月20日発行) コラムでは<源>と書いていますが、源河先生というのが本当の名前。そのときこの先生の側に立って何もできなかったことの悔しさ・屈辱感というのが今も残っています。もちろん先生は私などよりはるかに強い屈辱を感じて、耐えていたと思う。 その次の出会いは1975年秋、東京中央郵便局に就職してからです。私より一年半早く、1974年春に入局していた先輩に麓隆治さんという人がいました。沖縄出身、法政大学を中途退学して郵便局に入った人で、そのころ20歳だった私より3歳年長でした。
郵便局の職場で
私は75年10月15日から働き出し、その翌月、11月26日からスト権ストが始まります。8日間続きました。国労・動労はずうっと列車を止めていましたが、郵便局の労働組合である全逓労組にはそこまでの力はない。拠点職場が2日間ずつ順繰りにストに入っていった。東京中郵がストに入ったのは11月30日と12月1日でした。ところが私たち新規採用者は採用から一年間は任用期間といって素行をチェックされる。そのころ郵便局はまだ国営で、働いている者は国家公務員です。スト権を持っていない(だからスト権をよこせとスト権ストをやったわけです)。任用期間中の新採が“違法スト”に参加すれば採用を取り消されます。やむをえずスト当日も勤務に就いた。 組合員でも勤務に就いた人がいました。いわゆるスト破りです。私が配属された職場では組合員の一割ほどがそうだった。その中に翌年3月に退職するKさんがいました。そのころ郵便局には定年制はまだありません。高齢になって本人が退職を決めたようです。Kさんの送別会は3月に日暮里の居酒屋で開かれました。 職場の組合役員(分会役員)はこの送別会に参加しませんでした。「スト破りとは酒を飲まない」ということだったのでしょう。役員氏のこの行動は間違いだと私は当時も今も思っています。ストに参加した人も含めて職場の多数の人が送別会に参加しているのです。 それはさておき、会がお開きになった後なお何人かが残りました。「お、酒まだ残っているぞ。空にしていこう」という、あれです。 当のKさん、送別会幹事を務めたWさん、ほか数人の中に私も麓隆治さんもいて、ストに入らなかった人も何人かいた。何が原因かもう憶えがないけれども、ストに入らなかった人の一人と麓さんとで口論になり、麓さんは席を蹴って帰ってしまった。 そのあとWさんが吐いた言葉が忘れられません。 「あの●●●●●●●が!」 と、彼はそう吐き捨てたのです。 この言葉は被差別部落の人びとに対する蔑称です。Wさんはストに参加したし、日ごろは麓さんともにこやかに話していました。彼としては「オレが仕切った会の場で揉め事をおこしやがって」という思いが噴き出したのでしょう。そういうときこんな言葉が口を衝くところに部落への差別意識の根深さを思うし、沖縄もそういう差別の対象となっていることを思います。Wさんは当時20代後半、新潟県出身でした。東京で就職して麓さんと会うまでは沖縄県人と接触したことがなかったのではないか。被差別部落の存在は知っていたでしょう。そして被差別部落民も沖縄県人も(おそらく在日朝鮮人も)ゴッチャにして自分たち“一般日本人”とは異質の存在と思っていたのではないか。 さて採用されて一年がたち、晴れて任用期間が終わった私に 「胸章なんかとっちゃえよ」 と最初に声をかけてくれたのは麓さんでした。戦後しばらくの間は胸章なんてそもそも無かったのを、当局と労働組合との対立関係が続き、闘争時に組合員が胸に着けるワッペンや腕に巻く腕章を「外しなさい」と指導してきた当局が持ちだしてきた胸章ですから、組合活動に積極的な人は胸章を着けなかった。そんな具合に、私は麓さんに労働組合運動の手ほどきを受けました。組合の機関を通じた取り組みではなく有志として部落解放同盟東京都連から映画『狭山の黒い雨』のビデオを借り、中央郵便局の会議室で上映会をやったこともあります。組合機関を通してではないというのは、当時、私たちが所属していた分会の役員は共産党が多数で、狭山に関心を持つ者なんて「トロッキスト暴力集団」扱いだったからです。 そのころのことで麓さんに悪いことしたと今も心残りなのは、1980年に公開された映画『太陽の子てだのふぁ』(浦山桐郎監督)のチケットを麓さんを通じて入手しておきながら観そびれてしまったことです。そのころ私は分会青年部の役員になったばかり。4.28反処分闘争などでかけずりまわっているうち映画の公開期間が終わってしまった。 『太陽の子てだのふあ』は、神戸の下町で小さな沖縄料理店を経営する沖縄出身の両親と暮らす<ふうちゃん>という少女の物語です。<てだのふあ>とは沖縄の言葉で「太陽の子」という意味。灰谷健次郎の原作は後で読みました。ふうちゃんのお父さんは時々沖縄戦の記憶がよみがえって精神に変調をきたす。お父さんが沖縄戦で体験したことの一端を、今回『魂魄の道』に収められた諸作品によって生々しく知った思いがします。たとえば一冊の表題ともなっている短編『魂魄の道』(2014年)の主人公は沖縄戦当時18歳でした。防衛隊に召集された。米軍艦からの艦砲射撃の砲弾が降り注ぐ中、南部へ撤退していく途中で瀕死の若い母親に、近くに横たわっている1歳ほどの幼児を「殺して」と懇願されます。母親としては自分が息絶えた後わが子がどうなるかと思っての訴えであり、主人公はそれを聞いて幼児を銃剣で刺す。戦後に生き残った彼は、結婚して3人の子の父になりますが、わが子を抱こうとするとそのときの記憶がよみがえって抱くことができない。『太陽の子てだのふあ』のふうちゃんのお父さんもそれに類似するような苦しい体験をしたのではなかったか。 麓さんはたしか1982年ごろUターン転勤で沖縄に帰り、那覇中央郵便局などで定年近くまで勤めました。沖縄に帰ってからの彼とは年賀状のやりとりくらい。私が結婚したときは上等の泡盛を贈ってくれた。 2013年、山城博治さんが参議院議員選挙比例区に立候補したときウチワそのほか山城選挙グッズをたくさん送ってきました。山城さんはご存じのとおり沖縄における反基地運動のリーダーの一人です。麓さんは、中退した法政大学で山城さんと同学年、ずっと付き合いがあったということをそのとき知りました。 その後2015年夏、私が沖縄に行ったときは辺野古ゲート前で待ち合わせて一緒に座り込みをしてから嘉手納にあるご自宅に泊めていただいた。2018年に辺野古座り込みに行ったときもゲート前に来てくれて、ちょうど1月の<ムーチーの日>(旧暦12月8日)だったので、ムーチー(鬼餅)と泡盛の一升パックを差し入れてくれました。ムーチーというのは月桃の葉に包まれた甘いお餅で、一年でいちばん寒い時季にこれを食べて力をつける、厄払いするという風習が沖縄にあるそうです。そういうふうに現在まで交流が続いています。
被害と加害
さて目取真俊氏の短編集『魂魄の道』所収の作品について述べたい。 2016年の『露』という作品に登場する宮城という沖縄人には中国大陸での従軍体験があります。その語りは、日本帝国主義の軍隊が残虐非道の侵略を尽くしたこと、そして沖縄県民も大日本帝国の臣民として従軍したことによって侵略を担わされたことを示しています。琉球は日本に併合される(侵略される)ことによって日本の版図の一部となり、そうなった結果、台湾や朝鮮への日本の侵略・植民地支配に帝国の一員として動員されました。この被害(琉球併合、被侵略)と加害(大日本帝国の一構成部分として朝鮮や中国やアジア諸国と対する)の関係をどうとらえたらいいのでしょうか。 (当日の報告では目取真氏が琉球新報2008年7月5日朝刊に寄せた『加害と被害―問い、問われる二重性』という文章の全文を参加者2人に分担して読み上げてもらった。しかし、かなり長いのでこの稿への引用は控える。同氏のブログ〔海鳴りの島から〕の過去記事にはそのテーマでの論考もいくつも収められているので直接あたってほしい。ここでは沖縄人として目取真氏が沖縄の加害責任に目を逸らしていないことを述べるにとどめる。) 私が思い出すのは1998年10月、当時韓国大統領だった金大中氏が来日して国会で演説したときのことです。金氏は古代から続く日韓両国の長い友好関係の中で関係が悪かった時期はわずかしかないと述べ、そのわずかな例として16世紀の秀吉による朝鮮侵攻と20世紀の植民地支配を挙げました。ところが、当時44歳、若手自民党タカ派議員として売り出し中の安倍晋三・衆院議員がこれに反発します。「それでは、元寇で先兵になったのはだれなのか」云々(1998年10月9日付『朝日』朝刊)。 元(モンゴル)の支配下に置かれていたために元寇にかりだされた高麗(当時の朝鮮の国名)と、朝鮮侵略に主体的に乗り出した秀吉とでは全く違います。安倍晋三はそういうこともわからない政治家でした。こんな四半世紀も前のことを私が妙にはっきり憶えているのは、当時の全逓労組新東京郵便局支部の機関紙にこの件で安倍晋三を批判する記事を書いたからです(『日刊新東京』1998年10月19日付2面)。元に支配されていたため、その侵略戦争に動員された13世紀の高麗と、日本帝国の版図に組み込まれてしまったため、<大東亜共栄圏>形成の最前線に立たされた20世紀の沖縄。立場が似ているように思います。 そしてモンゴルによる高麗支配において忘れてはならないのは<三別抄>の抵抗です。高麗の武人組織で、海民的な人びとを組織して朝鮮半島南岸の珍島、済州島などに拠ってモンゴルに対して徹底抗戦した。元寇の先兵どころか、この徹底抗戦がモンゴルの日本列島侵攻に強いブレーキをかけることになったのは間違いありません。最後の拠点済州島がモンゴルによって攻略され<三別抄>が根絶されるのが1272年、第一次の元寇が1274年です。この時系列からも<三別抄>の抗戦が日本列島を守る盾になっていたことが覗われるのです。ところが1271年<三別抄>は日本列島に救援を求める使者を送っていたのに、京都の王朝も鎌倉の武士政権もこれを黙殺してしまいました。 琉球の歴史においては、秀吉の朝鮮侵略に際して島津氏が兵糧の一部の提供を琉球に要求してきたのを拒否しています。これが後に島津の琉球侵攻の口実にされます。また琉球処分(1872-79)にあっても琉球側は日本軍隊の駐留を「・・小島ニテ従来兵ヲ備ヘス礼儀ヲ以テ維持ノ道ヲ立・・」と抗弁して強く拒む。結局は日本政府に押し切られてしまうのですが、これも憶えておくべきことと思います。 目取真氏たち沖縄の人が沖縄の加害責任を論じることに対しては深い敬意を覚えます。ただ、琉球を侵略することによって、それに続くアジア侵略に沖縄をひきずりこんだヤマトゥの人間が「沖縄の加害」などと気安く口にしてはならないと私は考えます。
近代化の暴力と共同体
2017年の『神ウナギ』において、ハワイに移民体験のある勝栄が洞窟(ガマ)に籠る住民たちを説得して集団投降させ命を救うエピソードは、やはりハワイ帰りだった比嘉平治氏とおじの平三氏が下区壕(シムクガマ)に籠る約1000人の住民を集団投降させた史実などをモデルにしたのでしょう。作中、島言葉を使ってハンドマイクで投降を呼びかける日系米兵が登場します。実際何名も米軍に従軍していた彼らは沖縄からアメリカに渡った移民労働者の二世です。かつての移民労働者と移民労働者二世とが立場の違いを越えて住民救命のため協力した例がいくつもあったと『沖縄戦―もう一つの見方』(佐々木辰夫著、スペース伽耶刊)に書かれています。これは苛烈な戦場における同胞意識であったのみならずプロレタリア・インターナショナリズムの発現でもないでしょうか。 一方、そのあと勝栄が米軍のスパイだと濡れ衣を着せられて日本兵に惨殺されるのには作者の祖父の体験が投影されているようです。今帰仁村の警防団長だった祖父は鉄血勤皇隊に動員された息子(すなわち目取真氏の父)が戦死したと思い、せめて遺体を拾いたいと知人に相談したところ戦場跡まで米軍のジープに乗せてもらえた。それを日本軍に密告され命を狙われ、毎夜家に帰らず隠れ廻ったそうです。勝栄のようには殺されなかったが。今帰仁村では住民3人が日本兵に虐殺されています。 勝栄らの村には湧き水の池があって、大きなウナギが何代にもわたって棲んでいる。村人たちはそのウナギを村の守り神と大事にしていました。ところが、赤崎という日本軍の将校はそんなの迷信だと嘲笑してウナギを獲って殺してしまう。福沢諭吉が頭に浮かびました。福沢の『福翁自伝』には、子どものころの彼が周りの大人たちがありがたがっているお稲荷様の祠を迷信だとして、祠の中に置かれた札をそ知らぬ顔で捨ててしまう話があります。バチなんか当たらなかったぞと得意になっている。しかし、迷信であれ人びとが長年大切にしてきたものを土足で踏みつけるような行為は暴力です。ウナギの場合は生態系を考えると迷信とだけ片づけられないかもしれないし(「神ウナギが湧き口を出入りするから泉は詰まらずに湧き続ける」と言い伝えられてきました)。そして、この暴力は、福沢が長じて大日本帝国膨張の応援団長になるや侵略と排外主義のむき出しの鼓吹へとそのまま繋がっていく。近代合理精神の権化は近代(現代)帝国主義の権化となります。「遅れた」東洋の蒙をこじ開けるのに暴力を躊躇するなとばかりに。 では共同体をどう考えたらいいのか。福沢諭吉を高く評価していた丸山真男は共同体をもっぱら否定面(近代的自我の確立を抑圧するもの)においてとらえました。他方、近代化という暴力に対して前近代の共同体に拠った抵抗の可能性を模索する色川大吉のような議論もあります。木下武男『労働組合とは何か』(岩波新書、2021年刊)によれば労働組合の遠祖は中世ヨーロッパのギルドに求められるそうです。いっぽうレーニンは労働組合を共産主義の学校であると。前近代の共同体に拠って近代の暴力性に抵抗しつつ(前近代の否定面とも闘いながら)近代の先へと進む可能性をここに見たいのですが、これは牽強付会に過ぎましょうか。 2019年の『闘魚』(「とーいゆー」)は、辺野古ゲート前の情景から始まります。84歳の老女カヨの目の前で、機動隊員に腕や足を掴まれて座り込みの場から人びとが引きはがされていく。 カヨは沖縄戦が終わったとき11歳で、勘吉という7歳の弟がいました。父は病没、母ウシと幼い妹ミヨとの4人家族は辺野古の大浦湾に面した収容所に入れられます。その母と妹がマラリアに罹って高熱を発し寝込んでしまう。 貝で出汁をとって熱い煎じ汁を飲ませれば元気が出ると思ってカヨと勘吉は海に貝を獲りに行きます。そこで勘吉は、貝を獲るのに夢中になっているうち潮に流されてしまうのです。 目取真氏の母親も沖縄戦のとき11歳で、勘一という名の8歳の弟がいました。作者にとって叔父にあたります。その勘一は米軍が残していったガソリンを扱っていてランプから引火し、全身火だるまになって死にます。『闘魚』において大浦湾にのまれて7歳で死んだ勘吉には、大火傷を負って8歳で亡くなった作者の叔父・勘一が投影しているのは明らかです。だから結び近く、カヨの娘・和美のつぶやきは作者自身の言葉でしょう。 「勘吉叔父さんがいたことは、私達兄妹がちゃんと覚えていて、子ども達にも孫達にも伝えていくから。」 もっとも新しい2022年の『斥候』は『神ウナギ』と対になったようなところがあります。『神ウナギ』では勝栄は密告されて殺される。『斥候』の主人公・勝昭とその母は勝造の父親を密告で死に追いやってしまうのです。鉄血勤皇隊員として日本兵と行動を共にした勝造が米兵の捨てて行った煙草を拾い、父に吸わせたいと自分の荷物入れに入れておいたら、それを日本兵に見つかって殺されかけたのは、作者の父の体験がそのまま再現されたようです。なお勝造は県立三中で、作者の父もそう。三中の鉄血勤皇隊は363人中37人が戦死(死亡率10.2%)という記録が残っています。二中は144人中127人(88.2%)、一番戦死率が高いのは県立工業学校で94人中85人(90.4%)。恐ろしい数字という他ありません。 それにしても『魂魄の道』で艦砲弾の破片を膝に受けた18歳の<私>が「その程度の傷に薬はいらない」と軍医に言われる場面には医薬品も底をついたガザの惨状を思うし、同じ村に暮らす住民が密告を行なう『神ウナギ』や『斥候』に地上での一進一退の殺戮戦が続くウクライナを思います。ジェノサイドと戦争を止めるため声を上げなければと思います。
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by suiryutei
| 2024-05-29 08:07
| 文学・書評
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