新人事制度 大阪での報告①~③
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【いてんぜ通信】の第15号が届いた。2024年秋号となる。三か月に一度いつもきちんと発行されている。 ありがとうございます。 この号への寄稿を転写します。8000字ちょっとと長いのですが、分けずに全文載せます。 その代わり、今日は29日で8月はまだ2日残っているのですが、明日と明後日の更新は休もうかと思っています。 5月末、『ゲバルトの杜』というドキュメンタリー映画を観た。それはどういう映画であったか。『伝送便』誌今年7月号への寄稿で同作に触れたので、その全文をまず引く。『伝送便』というのは、毎号20数ページほどの郵便労働者による月刊交流誌だが、郵便局の労働現場における情報を共有するだけでなく、読んだ本や観た映画を紹介しあうページもある。
映画『ゲバルトの杜』を観る 一三四分の長尺のうち開始から一〇〇分ほどは、一九七二年一一月八日に早稲田大学の第一文学部自治会室で起きた川口大三郎さんリンチ殺害事件と、その後一年余にわたる〝早稲田の闘い“にあてられている。闘いとは、もちろん暴力をなくすことである。今日ではなかなか想像できないかもしれないが、あのとき早稲田では数千ときには万を超す学生がキャンパスを埋め、虐殺糾弾の声を上げたのである。当時の実写映像、闘いに関わった人たちの証言が続く。 ほぼ冒頭に『彼は早稲田で死んだ』と題する一〇数分間の短編劇が、稽古の模様も含めて挿入される。当時第一文学部二年生だった川口さん(二〇歳)が、自治会を暴力支配していた革マル派の学生たちによってどのように自治会室に連れ込まれ、暴行されて死に至ったか。この芝居を演出したのは早稲田OB(法学部に一九七八年入学)の鴻上尚史だ。『彼は早稲田で死んだ』とは、革マル派支配の執行部をリコールして生れた第一文学部自治会臨時執行部が、翌七三年の春、新入生向けに作成したパンフレットの表題であった。そして同題の本が、当時一文自治会臨時執行部委員長として闘いの中心にいた樋田毅さんによって二〇二一年一一月に世に出た(第五三回大宅壮一ノンフィクション賞受賞)。映画はこの本を下敷きにしている。 よく「内ゲバ」と言われるけれども(この映画のパンフレットでも内ゲバという言葉が何度も踊っている)、川口さんは内ゲバで殺されたのではない。内ゲバとは、左翼党派同士あるいは党派内の抗争がゲバルト(暴力)化したものだろう。しかし、川口さんは党派の人間ではなかった。革マル派と暴力的な抗争なんてやっていない。事件の本質は、革マル派による学生に対する暴力支配である。そうして早大当局は、そのほうが学生を管理しやすかったからだろう、そうした暴力支配を黙認していた。 パンフレットに踊る文句ではなく映画そのものは、事件の本質がそういうもの(革マル派による暴力支配)であることを明らかにしている。下敷きとなった樋田さんの本もそうである。すこしややこしいのは、川口さん殺害は内ゲバではないけれども、事件は「内ゲバの論理」をふりかざす者たちによって引き起こされたことである。映画の中で佐藤優が推測して述べているように、革マル派の学生たちは川口さんを中核派と誤解していたようだ。中核派は中核派で、自分たちのメンバーではない川口さんを<同志>と祀り上げた。かくて内ゲバではない川口事件が内ゲバがエスカレートしていく引き金になってしまった。映画は終盤、内ゲバとは何かという考察に向かう。その視点に賛否があって当然である。議論を深めることが大事だ。なお本誌二〇二二年一月号に『彼は早稲田で死んだ』(樋田毅)の書評が載っている。同書は今年四月に文庫版も出版された(文春文庫、税込み八八〇円)。 代島治彦監督。ユーロスペースほかで順次公開中。 (『伝送便』2024年7月号18ページ掲載) 映画『ゲバルトの杜』を観る ~『伝送便』7月号寄稿 : 酔流亭日乗 (exblog.jp) 半世紀以上前の川口大三郎さんが殺された事件に私が反応せざるをえないのは、事件が起きた約半年後の1973年4月から私も早稲田の学生になったからだ。川口さんが在籍した文学部ではなく、私は法学部であった。映画が始まってすぐ、劇中劇が入る前のところで青木日照さんという人のインタビュー場面がある。青木さんは川口さんより一学年先輩で商学部の学生であった。川口さんのことを知っているのは体育の授業にボクシングを選択して、その授業で一緒だったからだ。体育の科目選択は学部を横断する。川口さんが殺された11月8日も、午前は授業で彼とスパーリングをやった(川口さんが文学部の自治会室に拉致されたのは同日の午後2時ごろ)。 私も一年生のとき体育の授業にボクシングをとった。選択するときモタモタしていたから、水泳とかの「取りやすい」種目は定数いっぱいになってしまい、格闘技系くらいしか枠が残っていなかったのである。男子学生に混じって一人だけ商学部の女子学生がいた。半世紀前は今日ほど女子格闘技が盛んではない。彼女も他の種目が空いてなくて「女だてらに」やむなくボクシングを選択したらしい。実技の前の柔軟体操で彼女と組んで背中を押したり押されたりするとき、私は高校が男子校で異性の身体に触れたことがなかったから、ドギマギしたものだ。 青木日照さんは指導教員が白鳥金丸さんであったことも述べている。私も白鳥先生に教わった。早大在学中に東京五輪(1964年)の日本代表。ライト級においてメダルが有力視されていた。ところが3回戦で敗退してしまう。あの五輪で金メダルを獲った日本のボクシング選手は、事前ではそれほど期待されていたわけではないバンタム級の桜井孝雄選手(中央大学)であった。そういった話を、いくらか自虐をまじえて、授業の中で話してくれたのを憶えている。 ともあれ、川口さんを改めて身近に感じた。私が早稲田に入るつい半年前まで、殺される当日も、私が授業を受けたのと同じ教室・同じ教員の指導で、彼はシャドーボクシングをし、スパーリングをしていたのだ。 映画では、1973年4月2日に行なわれた入学式の模様も映し出される。実写フィルムが挿入されたか、それとも当時の新聞の写真の紹介だったか・・・。映画のパンフレットに載っている採録シナリオでは動画ではなく新聞記事の写真が映し出されたように読める。その日、私は新入生の一人として会場にいたから、映画で観たより半世紀前に自分の目で見た記憶のほうが鮮明だ。全学合同の入学式は、本部キャンパスではなく文学部キャンパスのほうにあった記念会堂で開催された。 あの場にいた新入生の多くは、前年11月から早稲田で何が起きていたのかは関心を持って見ていたはずだ。自分が受験する大学なのだから。そして川口さんの虐殺を糾弾する運動に多くが共感していたと思う。ただ、黒いヘルメットをかぶった150人ほどが「乱入」のような形で入学式会場に現われ、演壇に向かって総長団交を求めて殺到したとき空気が変わってしまったようである。「オレたちの晴れの場に何だ!」という反感のほうが頭をもたげた。「帰れ!」というシュプレヒコールがいわば自然発生的に新入生の間から起こってしまったのである。 ヘルメットをかぶったグループは「行動委員会」と称し、呼ばれていた。革マル派が振るう暴力から虐殺糾弾運動を守るために生まれたと私は理解している。革マル派は鉄パイプで頭を狙ってくるから、ヘルメットくらい被らなければ危なくてしょうがない。実際それまでにも頭蓋骨陥没など重傷者が臨時執行部にも行動委員会にも出ていた。とはいえ新入生の目にはヘルメット姿は異様だし、登場が唐突に映った。すこし先回りするが、4月21日、新学期最初の学生大会を第一文学部自治会臨時執行部が開催したとき、大会を防衛するため他学部の学生が会場(本部キャンパス15号館)の周りに座り込んだ。私も法学部の行動委員会の人たちと一緒にスクラムを組んだけれどもヘルメットはかぶらなかった。150人くらいの革マル派がZと書かれた白いヘルメットで竹竿を構えたデモ隊列を組んで現れたときは足がガクガク震えたのを憶えている。「Z」というのは、全学連(ゼンガクレン)の頭文字をとったのだそうだ。 4月2日の入学式に話を戻す。前出の樋田毅さん(第一文学部自治会臨時執行部委員長)たちは、ヘルメットはかぶらず、川口さんの遺影と抗議のプラカードは持って演壇の下に無言で待機し、式が終わったところで新入生に自治会の問題や総長との団交の必要を訴えるつもりでいたという。 村井資長総長(当時)は、川口さん虐殺を防げなかったことについて大学の最高責任者として当然責任があるのに、学生に対して誠実に向き合っているとはとても言えなかった。行動委員会の乱入があると早々に会場から立ち去り、入学式も途中で中止になった。 そのあと私たち法学部の新入生は大隈講堂に場所を移して法学部だけの集まりがあった。これは法学部当局が主催したのではなく、法学部学生自治会の企画だったと思う。当時の早稲田は、自治会がなかった理工学部を別にすると、法学部だけは革マル派がほとんど存在せず、民青の諸君が自治会をそれなりに丁寧に運営していた。 文学部のキャンパスは本部キャンパスから少し離れている。そこでは昼間の第一文学部も夜間の第二文学部も学生大会で革マル派系の自治会執行部のリコールを成立させ、臨時執行部が生まれているのに、大学当局はそれをまだ承認せず、なおも居座る旧自治会との対峙が続いていた。相手は「革命的暴力」の名の下に、暴力行使に何の呵責も感じない(らしい)のだから、これは厳しい対峙であった。そんな中で一文の自治会臨時執行部が新入生に向けて発行した新歓パンフレットの表題が『彼は早稲田で死んだ』である。それが約半世紀後に樋田毅さんのルポの、また今回の映画『ゲバルトの杜』に挿入された短編劇のタイトルともなったのは、先に述べたとおり。 樋田さんの本が出版されてすぐ、やはり『伝送便』誌に私が寄せた書評も全文を紹介しよう。
書評『彼は早稲田で死んだ』 もう半世紀近く前になる。一九七二年一一月八日、早稲田大学構内において第一文学部二年生だった川口大三郎さんがリンチを受けて殺害された。自治会執行部を構成する政治党派(革マル派)の学生に対立党派のメンバーと疑われたのである。川口さんはその党派(中核派)のメンバーではなかったし、そもそも人を殺していいということがあろうか。数日後から、早稲田のキャンパスでは連日、数百数千の学生が集まって抗議行動が湧き起こった。 本書の著者、樋田毅さんはそのとき第一文学部の一年生。抗議行動の中心にいて、自治会執行部をリコールして成立した新執行部の委員長になる。そのころ彼はフランス文学者渡辺一夫の『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』という問いかけと出会う。渡辺の答えは決まっている。寛容は自らを守るためであっても不寛容になってはならないのである。 だが、すると、短い射程では寛容は負けてしまう。寛容の武器はもっぱら説得なのだが、不寛容な相手を説得するにはおそろしく時間がかかるだろうから。あのときの早稲田でも事態はそう進んだ。樋田さん自身、鉄パイプをふりかざす相手に襲われ、一か月も入院する重傷を負った。闘いは七四年の春には暴力によって潰されてしまう。けれども、樋田さんは心身ともに深く傷つきながらも「寛容は・・」の問いを、その実行困難を骨身に沁みて知った上で手放そうとしなかった。本書の一番の価値はここにある。 私は一九七三年に早稲田の法学部に進学したから、事態にいくらかは巻き込まれた。ハンドマイクで演説する著者の髭面は何度も見ている。巻き込まれたといっても、学内集会に参加したり、教員にかけあって語学の授業から三〇分くらいを割いてクラス討論を行ない、それをふまえて法学部の自治委員会で発言したりした程度のことである。ちなみに本誌編集委員の一人、久保茂君は当時のクラスメイトだ。 文学部の樋田さんのクラスではクラスごとに選出される二人の自治委員のうち一人が革マル派に批判的な人が入ったので川口さんの事件が起きる前から自治会執行部に睨まれていたという。一学年後輩で法学部だった私のクラスでも自治会執行部主流だった民青同盟員とそれに批判的な私とで自治委員の席を分け合っていた。法学部の民青諸君は、文学部の革マル派とはもちろん違って、意見の違う相手を暴力で脅すなんてことはしなかった。論争はよくやったものだ。 樋田さんが襲われたのは七三年五月の連休明け、法学部の学生集会に文学部を代表して連帯の挨拶をした帰途であった。集会の会場にはもちろん久保君も私もいた。その報を聞いたときのショックは今も忘れられない。以後、彼は革マル派の暴力によって学内に入ることさえ難しくなった。直接の面識は無いまま、私は七五年に中途退学して郵便局で働き出す。 今回本の感想をフェイスブックを通じて送ったところ樋田さんから懇切な返信をいただいた。その後どうしていらしたのかずっと気になっていただけに嬉しかった。過ぎていく二〇二一年を通して一番心に残ることの一つだ。 (『伝送便』2022年1月号18ページ掲載) 『彼は早稲田で死んだ』(樋田毅)「伝送便」掲載書評 : 酔流亭日乗 (exblog.jp) 樋田さんは早稲田卒業後朝日新聞の記者となり、赤報隊事件(1987年に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件。当時29歳の小尻知博記者が銃撃されて死亡)の取材班キャップなどを務める。著書に『記者襲撃赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店)その他。 ここまで私は法学部自治会について「民青の諸君が自治会をそれなりに丁寧に運営していた」(『映画「ゲバルトの杜」を観る』)とか「法学部の民青諸君は、文学部の革マル派とはもちろん違って、意見の違う相手を暴力で脅すなんてことはしなかった」(書評『彼は早稲田で死んだ』)と、かなり肯定的な評価をしてきた。しかし、絶対的多数だった民青諸君に多数をたのんだ強権的組織運営が全く無かったとは言えない。当時は日本共産党と部落解放同盟の対立が激化の一途をたどっていた時期。二年生のとき(1974年)私が法学部自治委員総会で狭山闘争への取り組みを求める発言をして日本共産党の否定的対応を批判したときは、10数人の民青同盟員が血走った目で私を取り囲んだものだ。法学部自治会執行委員長のK君は別の機会に「部落解放同盟は暴力集団だから、それに同調する土田も暴力分子。法学部の校舎には出入りさせない」と言い放った。もっとも、こんなのは口だけで、私はその後も退学するまで法学部校舎(本部キャンパス8号館)に普通に出入りしたし、殴られも蹴られもしなかった。人を暴力分子呼ばわりしておいて自分から手を出すわけにもいかなかったろうが。 法学部自治会についてもうひとつ補足しておくと、樋田さんが革マル派に襲われて重傷を負ったのは73年5月に法学部の学生集会に顔を出した帰りだと書評に書いたが、この学生集会は本来は学生大会として召集された。ところが、法学部では学生大会の成立要件が在籍学生の三分の一以上である。きわめてハードルが高い(政経学部ではたしか五分の一以上と聞いた)。あのころ法学部の学生総数は約6千人だから2千人を集めなくてはならない。しかも3~4年生は毎日登校するわけではない。それでも1730人が集まった。学生大会としては成立しなかったものの、当時一つの会場にこれだけ多くの人数を集めることができた学部自治会は、全国を見渡しても他にどこにもなかったろう。さらに二年後の75年1月、学費値上げ発表に対して定数2千をはるかに超える学生が参加して学生大会を成立させ「値上げ反対」を要求して一か月のストライキを打った。「自治会をそれなりに丁寧に運営」と書いたのはそういうことを指す。もちろん民青系の執行部だけではなく、反対派を含めた学部生全体の力であり、値上げは撤回されなかった(ストライキは敗北した)とはいえ、川口さん虐殺糾弾運動の経験を私たちは忘れていなかったのである。
寛容と抵抗 さて『彼は早稲田で‥』書評にも述べたように、樋田さんの本から私が一番深い感銘を受けたのは、『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』という問いかけに「否」を貫こうとした点である。 ユマニスム(人文主義)の徒、渡辺一夫の随筆『寛容(トレランス)は自らを守るために不寛容(アントレランス』に対して不寛容(アントレランス)になるべきか』(雑誌『世界』1951年9月号初出)を私が初めて読んだのは、1995年に出版された『世界』主要論文選(岩波書店)において。1975年に早稲田を中途退学してちょうど20年後である。読みながら、不寛容の代表選手としては学生のとき目撃した革マル派の学生活動家がまず頭に浮かんだのは、いま話を作って書いているのではなく本当にそうだった。だから、1972~73年当時、その革マル派と身体を張ってぶつかっていた樋田さんたちが、その日々の中であのテキストを読み合わせ、討論していたと知って驚いた。いや感動を覚えた。 ところが、映画『ゲバルトの杜』では、樋田さんの本を原作あるいは下敷きにしているというのに、樋田本のキー・ワードというべき「寛容は・・」の問いかけは省みられていないように思う。映画に対する私の不満である。 思うに、映画の作り手たち(監督の代島治彦氏や劇中劇を演出した鴻上尚史氏)には「内ゲバとは何であったか」という問題意識が先にあって、そこに格好の手がかりになると思われた『彼は早稲田で死んだ』という本が現れたのではないか。ところが『彼は早稲田で死んだ』が明らかにしているのは、党派闘争としての内ゲバで川口さんは殺されたのではない、ということだ。くりかえすが、学園を暴力支配する政治党派によって一人の学生が殺されたのである。大学当局は、そのほうが学生を管理しやすいため暴力支配を容認していた。 映画は、終盤近くまでは『彼は早稲田で死んだ』に沿って川口事件が何であったかを事実に即して追っている。さらに、闘いの中で非暴力を貫こうとする樋田さんとは微妙に意見を異ならせていくことになった人たちからもインタビューしているのは貴重な点だ。しかし、終盤に至って川口事件から離れて内ゲバの考察へと向かうことで、映画はいわば二重構造になった。内ゲバでは決してない早稲田の闘いが入り口なのに、出口は内ゲバ一般になってしまった。やや混乱したのではなかろうか。また、暴力支配を容認していた早大当局への批判も弱くなった。 映画ではなく樋田さんの本に対して、寛容や非暴力という言葉から抵抗の放棄を読み取って、それを指弾する声も耳にする。だが、樋田さんが不寛容に対しても寛容をもって対したいと言うのは、自分が襲われたのと同じやり方(鉄パイプで足、腕、頭を滅多打ちする)で相手にやり返すことはしないということだ。抵抗するなと呼び掛けているのではない。 私自身は当時の早稲田では比較的安全な法学部にいたし、川口さんが殺されたときはまだ高校生で、半年後から闘いの後塵を僅かに拝しただけだ。ここは川口さんの身近にいた人の言葉に耳を傾けたい。 映画の中でインタビューを受けている一人でもある歴史学者(専攻は日本近代史)の藤野豊さんは、川口さんの同級生だった(72年当時第一文学部2年J組)。樋田さんの本の出版も契機となって最近発表した論考『「革命と暴力」に関する覚書』(敬和学園大学研究紀要第32号)の結び近くで、こう述べる。 「早稲田では、革マル派に対抗して早稲田大学全学行動委員会(WAC)が結成され、わたくしもその一員となり、革マル派の暴力から自治会臨時執行部を守る<防衛隊>に配属された。WACには、中核派や解放派の活動家も参加していて、たしか<防衛隊>の隊長は第二次早大闘争で革マル派に敗れた解放派の活動家であった。彼らは革マル派の暴力に対する自衛と称して武装した。しかし、わたくしは、それは川口の遺志に反すると主張して武装を拒否した。鉄パイプで武装して襲撃してくる革マル派に素手で対抗するときは、凍り付くような恐怖を覚えたが、非暴力を貫徹した。非暴力は無抵抗ということではない。非暴力による抵抗である。」 私は藤野さんと面識はない。この論考の存在を私に教えてくれたのは畏友・添田直人さんだ。高校生のときから部落問題に関心があった藤野さんは、早稲田に入学するや周囲に狭山闘争への参加を呼びかけた。部落出身の石川一雄さんが無実なのに殺人犯にされているのが狭山事件である。石川さんは現在保釈されているものの、無実判決はまだ出ていない。藤野さんの呼びかけに一番積極的に応えたのが川口さんだった。それが、自分たち以外の活動を許さない革マル派に目を着けられることになったし、殺されるのは川口さんではなく自分であったかもしれない。藤野さんはそんな思いを抱えて、部落解放運動を初めとする反差別・人権の運動にこの半世紀というもの取り組んできたという。 ![]()
※川口大三郎さん虐殺事件については下の二つのサイトに多くの資料が集められています。<川口大三郎の死と早稲田大学>は川口さんと同じクラスだった人たちの手で開設されたもの。<川口大三郎君追悼資料室>のほうには、このブログの記事も何本か収録されています。
by suiryutei
| 2024-08-29 06:50
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