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昨日の更新記事の続きになる。井上伝蔵のことである。 秩父で農民たちが蜂起したとき井上伝蔵(1854-1918)は30歳だった。下の写真は、井上幸治『秩父事件』(中公新書、1968年刊)から今朝撮影した。 出動した鎮台兵に包囲され、蜂起は数日間で敗れるも、処罰された者1万4000人以上という数字からもその規模の大きさが覗われる。明治政府は西南戦争に準じる反乱と恐怖した。 死刑を宣告された7人の中に伝蔵もいたが、捕まらず、北海道に逃亡、名前を変えて64歳まで生きたことは昨日の朝日新聞記事(俳句時評『井上伝蔵の悲哀』)にも書いてあるとおり。 若いころから俳句を嗜んだ伝蔵は、秩父にいたあいだは「逸井」(いっせい)という俳号を使い、北海道に落ち延びてからは「柳蛙」(りゅうあ)と号した。これも昨日の朝日記事に書いてある。 記事は両方の時期の句をいくつか紹介してある。 俤(おもかげ)の眼にちらつくやたま祭り などは北海道に隠れ住みながら秩父に居たころを思ったものだろう。 朝日記事は紹介していないが、酔流亭が好きな彼の句はこれ。 年越しの二合の酒のうまかりき 秩父に居たころの作だ。 すると、そこで詠まれている<二合の酒>はどの銘柄であったろうか、というようなことが、俳句には暗いが酒呑みではある酔流亭には気になってくる。灘や伏見の、上方から<下ってくる>銘柄は、江戸時代から江戸の街には流通し消費されていたが、秩父事件のころ(明治10年代)山国・秩父まで浸透していたとは思われない。 すると、伝蔵は秩父で醸された地酒を飲んでいたか。 昨日の更新記事で紹介した〔秩父錦〕の蔵元は創業が1749年、同蔵元のHPによれば1872年(明治5年)の酒造高が450石であったそうだ。 ならば、井上伝蔵が詠んだ<二合の酒>とは〔秩父錦〕であった可能性は低くない。 こういうどうでもいいようなことが、酒呑みには面白いのである。 戴いた4合瓶2本のうち1本は大晦日までとっておいて、わが年越しの酒としよう。二合で収まるかどうかわからないけれど。
by suiryutei
| 2024-11-25 08:52
| 酒・蕎麦・食関係
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