新人事制度 大阪での報告①~③
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春風とともに【いてんぜ通信】2025年春号が届いた。 ![]() いつもありがとうございます。 この号に寄稿した文章の全文を写真の下に転写します。 ![]() 『説得 ―かわち、1974、春―』という古い記録映画がある。1974年の作品だから、もう半世紀以上前だ。しかし当時の全逓信労働組合が制作した映画なので、全逓(ぜんてい)をひっくり返した我が〔いてんぜ通信〕に関わる人には記憶にあるかもしれない。上映時間56分。高岩仁監督。 どういう映画か。神戸映画資料館が2019年に収蔵フィルムのうち<労働組合が製作や支援して作られた映画を一挙上映して日本の映画作家の格闘の歴史を振り返る>という企画をおこなったとき(5月18日―26日)、この映画については、こんな解説が施されている。 <企画・製作:全逓労働組合 スタッフ(アイウエオ順):浅沼幸一、岡田道仁、清水良雄、新谷のり子、新谷とおる、高岩仁、渡辺清、渡辺洋、三幸スタジオ、TBS現像所。東大阪市河内郵便局の一人が職制によって精神錯乱状態にさせられたのを契機に200日間の早朝学習会が行われた。未組織労働者へのオルグの模様を丹念に描写。学習とオルグを通し労働者の生の声を綴るドキュメンタリー。> こういう映画を引っ張り出してきて上映し、それにもとづいて討論しようじゃないかという、今どき流行りそうにない試みが去年暮れ、本郷文化フォーラムワーカーズスクール(HOWS)というところであって、映画の解説は私が務めた。私に役がまわってきたのは、ともかくも全逓の組合員だったからということであったようだ。上映会の呼びかけチラシでは映画について、こう説明している。 <『説得』は1974年、大阪・河内郵便局における全逓、全郵政(第二組合)の互角の現状況を打開しストライキに入るため奮闘する全逓東大阪支部の、ある分会の活動に焦点を当てた。全逓に入って一緒になってやろうと説く組合員たちは、「入っても変わりないで」「おれは1人でええねや」との職場の仲間の反応に、いかに答え得るか。> ![]() 上映会は12月14日(土曜日)の午後開催され、20名を超す参加者で、まずは盛況であった。私の<解説>は映画が上映された後20分間ほど。それを左に紹介する。いくらか加筆もした。
全逓と全郵政 全逓信労働組合は郵政労働者の労働組合であった。1946年に全逓信従業員組合として結成されたときの組合員数は32万6395名。この時点では電報電話局の労働者も含まれており、この部分は1950年に分離して全電通労組となる。郵政関係は57年に全逓信従業員組合から全逓信労働組合へ改称された。1970年代の組織人員は「20万人」を公称していたが、1979年時点の組合員は17万9116名(組織率65.1%)であった。毎年数千人出る退職者を新規獲得数がカバーできないので逓減していたから、映画『説得』の1974年時点では19万人前後と推測される。 全郵政労組は労使協調を志向する組合員が全逓から割って出るかたちで1965年結成。結成時の人員は公表2万2000人。1972年には6万人と公表。『説得』が作られた74年には、映画に描かれたような全逓のストライキ闘争の高揚に押されたか一時的に公表5万5000人に減少した。この年、郵政労働者に占める全逓の組織率は69.5%、全郵政のそれは19.9%であった。約20年後の93年には公表7万8000人。ピークは2002年の公表8万8000人である。なお2007年の組織合併時点では全逓が2004年に名称変更したJPU(日本郵政公社労働組合)が13万7445人(うち非正規雇用労働者の組合員2万5111人)、全郵政が8万3155人(同6626人)であった。両労組が合併したJP労組の現在の組合員数は約22万6000人と公表されている(2023年7月現在)。そのうち非正規雇用労働者は5万3000人前後である。JP労組は正規雇用の約9割、非正規雇用の約3割を組織していると言われる。 1955年から始まった春闘に全逓は1956年から参加する。政令201号(48年7月)体制の下で官公労働者からスト権が奪われているので、戦術的には36協定締結拒否(時間外労働拒否)、郵政局前座り込み、休暇闘争など。休暇闘争とは、有給休暇請求権を活用して同じ日に一斉に休暇をとり、実質上ストライキと同一の効果を生じめさせようという戦術だ。映画『説得』の中でも年配の組合員が「(前は)あからさまにストとは言えなかったけどなあ・・」と、かつて休暇闘争を体験したことを語る場面がある。 しかし1958年春闘では全国57局で勤務時間に食い込む職場集会が敢行された。これは実質的な時限ストである(2時間ほど)。中央本部三役をはじめ全逓の幹部7名が解雇された。減給、戒告まで含めて2万2478名の処分が出され、さらに郵政省は、その年の全逓全国大会が始まる前「解雇役員が再選された場合は一切の団体交渉や話し合いを行なわない」と通告してきた。だが企業在籍者でなければ交渉相手と認めないなどというのは労働組合と従業員組織との区別がつかない、国際基準ともかけ離れた認識であって、省はILOからも批判され、解雇役員を再選していた全逓は59年、団交再開闘争に勝利する。 ![]() この58年春闘で拠点局に指定された東京中央郵便局では、全逓中央本部71年発行『全逓闘争小史』によれば、組合側からピケット要員が3000人動員されたのに対して武装警官5000人が出動、41名が不当逮捕された。そのうち8名に、一審の東京地裁では懲役3か月~6か月が検察から求刑された。けれども東京地裁判決(1962年)は全員無罪である。それが高裁では逆転有罪(63年)、最高裁まで争って、1966年10月26日、最高裁大法廷は高裁判決を破棄して差し戻し、翌67年、全員無罪が確定した。
『虎に翼』あの人物と全逓東京中郵事件
ところで去年4月から9月まで放送されたNHK朝ドラ『虎に翼』をご覧になっていた方なら、松山ケンイチが扮した桂場等一郎という登場人物を憶えているだろう。裁判官であり、伊藤沙莉が演じたヒロイン寅子(ともこ)の成長を彼女が学生の頃から見守る一方で、のちに自らが最高裁判所長官になるや人権派の若手裁判官のパージに乗り出す。寅子の一家の長男も左遷された。 この桂場のモデルとなったのは最高裁の第五代長官だった石田和外である(任期は1969年~73年)。ドラマに描かれた人権派パージは、現実では青法協事件のことだ。1971年、最高裁は裁判官の再任にあたり、青年法律家協会に所属する判事補を再任名簿から除外し、司法修習生を不採用とした。思想・信条・団体加入を理由としたあからさまな排除であった。 ドラマの桂場は、行きつけの甘味屋(寅子たちの馴染みの店でもある)で出す串団子のアンコの味にやたら拘ったり、寅子の連れ合いが鼻血を出して倒れたときは膝枕をして介抱してやったりと、人間味も窺わせる。現実の石田和外はどうであったかは知らない。人権派への厳しい姿勢を貫きながら、政権与党からの司法への介入も嫌がったのは事実らしい。 さて前述した1966年10月26日の全逓東京中郵事件最高裁判決は官公労働者の争議行為を刑事罰から解放する画期的判決だったが、画期的だっただけに評決が割れた。12人の裁判官のうち多数意見8人、少数意見4人である。官公労働者の争議権はあくまで認めない、厳正に罰すべしという少数意見4人の先頭に立ったのが石田和外であった。最高裁長官になる3年前だ。現実とドラマを混同すれば、石田和外=桂場等一郎=松山ケンイチの苦虫を嚙み潰したような仏頂面が目に浮かぶ。 のちに最高裁長官としての石田は、任期を終える前の73年4月25日、全農林警職法事件を担当する。この事件は全逓東京中郵事件が起きたのと同じ58年に起きていた。警察官職務執行法を警察官の職務権限を強化する方向で改悪しようとすることに反対を訴えて全農林労組が組合員に勤務時間に食い込む職場大会への参加をよびかけたのに刑事弾圧が加えられ、63年東京地裁は無罪としたが、68年東京高裁はそれをひっくり返して5人に罰金5万円を求刑した。ここまでは全逓東京中郵事件と似たような展開だったのが、この先の最高裁では石田裁判長の下で高裁の有罪判決を維持、東京中郵事件のときとは真逆となった。
<長期抵抗>の両義性
いっぽう70年代に入ると、スト権は奪われたままながら、全逓も国労や動労とともに公然たるストライキに打って出るようになる。その模様は映画『説得』に描かれたとおり。カメラは労働現場に入って行く。リズミカルに消印を打っていく手の動き。棚に郵便物が区分されていくところ。歩き回るジャンパー姿の管理者。通用門で一人ひとりに手渡される手書きの組合日刊紙の山・・・。そしてストに入ることに消極的な組合員や全郵政の組合員に働きかける生の声。処分を覚悟でストを打つだけの闘争力を全逓労組が蓄えていた時期だ。それだけに映像にも組合員の声にも力がこもっている。押している。 同時に、説得がやや一方向的でもある。つまり対論を通しての同意の獲得というところまではなかなかいかない。映画の翌年75年のスト権奪還ストを頂点に、以降はストライキ闘争から急速に引いていく内的要因のひとつは闘いの高揚期にもひそかに萌していたのではなかったか。すなわち組合員一人ひとりの主体的結集というよりも集団意識に乗っかっていた面なきにしにあらず、と言ってしまったらきつすぎるであろうか。ともあれ、そうしたことを考えさせるという点も含めてリアリズム芸術の凄みを感じる作品だ。 そうして公労協が乾坤一擲の勝負に出た75年11~12月のスト権ストは敗北した。73年の全農林警職法判決で66年全逓東京中郵事件の刑事罰からの解放という判例がひっくり返されたから、判例を積み重ねていくより力押しで突っ走って、しかし敗れたという結果だろう。スト権ストの被処分者(訓告以上)公労協9組合全体で約29万人のうち全逓だけで約17万人を占めた。77年5月4日、全逓名古屋中郵事件最高裁判決は、東京中郵と全く同じケース(58年春闘における勤務時間に食い込む職場集会。名古屋では逮捕13名)が審理されたのに、東京中郵事件とは正反対の有罪であった。くどく繰り返せば、66年全逓東京中郵事件判決で開かれたかに見えた官公労働者争議権の刑事罰からの解放の道すじが73年全農林警職法事件判決で逆転され、77年名古屋中郵事件判決(いずれも最高裁)はそれを踏襲したのである。 これも影響して78年春闘では全逓はストライキから脱落する。現場からの反発は同年末に越年闘争が実現することにつながった。結果としては、それに対する79年4月28日の大量処分(解雇3名、懲戒免職58名など)が全逓を力でねじ伏せてストライキを打たない組合にしてしまうのだが。 さて2007年の郵政民営化スタートによって郵政労働者はこんにちでは公務員ではなく、ストライキを法律で禁止されてはいない。しかし、全逓の後身であるJP労組はスト権を持ってもストをしない。そうした現状をどう打開できるか。 映画の中で組合員の会話に出てくる言葉として今やあまり聞きなれない<ドライヤー勧告(報告)>とは、1966年に発表されたもので、内容はILOの日本問題に関する総括的な見解。ことに官公労働者に関しては、全面的・絶対的なストライキの禁止と大量処分が労使関係を悪化させている最大の理由だと指摘した。また<長期抵抗大衆路線>とは全逓の70年代を通じた職場闘争・反合理化闘争の方針である。「企1号、2号」として文書化されている。ひと口で言えば長期の見通しを持って粘り強く闘おうということだが、人によって同床異夢的な使われ方をしたような気もする。三池闘争の経験に学んで<長期抵抗大衆路線>を全逓の方針として打ち立てた人たちは粘り強く抵抗することを第一に考えていたにちがいない。しかし、執行する労組幹部は必ずしもそういう人ばかりではない。<長期抵抗>のうち<長期>にばかり力点を置くことで<抵抗>は先送りされていったような傾向がなかったとは言われないと思う。 ![]() 映画『説得』を観て強く感じるのは、ストライキと組織拡大が一体のものとして闘われていることだ。全逓組合員がストに入っても、そのとき全郵政組合員や組合未加入者は就労してしまうのだから、ストを効果的なものならしめるためには一人でも多く全郵政をやめさせ、全逓に加入させることが切実な課題になる。78~79越年闘争以降の全逓は職場の闘い抜きで組織拡大一本鎗になっていった。先述した<抵抗>より<長期>に力点を置く方向である。けれども、それは何のための拡大か。私(1955年生まれ)は1975年に東京中郵に入局、全逓の労組役員になったのは1981年からだ。『説得』から10年後の1984年当時は東京中部地区の青年部常任委員と東京中郵支部青年部副部長を兼任していたので、首都における組織拡大運動の中にいた。春には新採の「獲りあい」が激しく行なわれる一方で、全郵政との合併話も耳にするようになっていた。 全逓の旗の下で闘うだけでなく、その旗が向かう方向を変えていく闘いがますます必要とされるようになっていたのである。そうして力およばずして今日に至った。その経過を述べるのは別の機会になる。
by suiryutei
| 2025-02-28 07:57
| 文学・書評
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