新人事制度 大阪での報告①~③
記事ランキング
最新の記事
タグ
労働(124)
最新のコメント
カテゴリ
最新のトラックバック
以前の記事
2025年 05月 2025年 04月 2025年 03月 2025年 02月 2025年 01月 2024年 12月 2024年 11月 2024年 10月 2024年 09月 2024年 08月 more... ブログジャンル
画像一覧
検索
|
佐多稲子(1904-1998)の初期の短編(1929年2月発表)『煙草工女』を読んだことを2月15日の更新記事に書いた。 上に貼り付けた記事では『煙草工女』にしか触れていないが、そのあと1930年代初めに書かれた佐多の短編をいくつか読んだ。亀戸に工場があった東洋モスリンで1930年に起きた労働争議に取材した連作の短編(『幹部女工の涙』『何をなすべきか』その他)にことに惹かれる。争議のさなか、労使協調的な労働組合の中にいて全協(共産党が指導した左翼労組)の影響をひろげるべく苦闘する若い女工たち。 ついでに『私の東京地図』も開いてみる。これは佐多が戦後になって(1948年)戦前の若き自分の歩みを回想した作品だ。 まだ初めのほう、〔下町〕と題された章の冒頭に、こんなくだりがあるのでうれしくなる。 東京の街の中で、ここは私の縄張り、と、ひそかにひとりぎめしているところがある。上野山下の界隈で、池の端、仲町、せいぜい黒門町から御徒町まで。 これは、私の感情に生活の情緒が、この辺りで最初に形づくられたからであろう。 酔流亭がなぜ「うれしくなる」かというと、ここに書かれている界隈が、いま酔流亭が都内に出るとき最も足しげく通る辺りだからだ。神田に行くにも本郷に行くにも、まずJR上野駅を出て、池ノ端をかすめる。『伝送便』の事務所(郵政共同センター)なんて黒門町のすぐ近くだ。 佐多は11歳から神田のキャラメル工場で働き出したことは処女作『キャラメル工場から』(1927年)によって有名だが、そのあと上野不忍池の料理屋で中居をしていた時期がある。上野界隈が懐かしい所以である。 前出東洋モスリン争議を闘う女工たちと出会ったときは、そのころ運動上の同志でもあった窪川鶴次郎と佐多は十条で所帯を持っていた。下の写真は中央公論社『日本の文学㊾佐多稲子・壷井栄』に載っていた挿絵。1930年代初めごろの彼女をイメージしたものであろう。負ぶっているのは次女の達枝か。戦後を代表する振付師、佐多達枝が去年12月、老衰で92歳で死去していたことを、たった今この記事を書くためあれこれ検索していて知った。 ※佐多稲子『私の東京地図』については14年前(東日本大震災のすぐあと)にもこんな文章を書いた。
by suiryutei
| 2025-04-24 09:10
| 文学・書評
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||