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昨日は遅い勤務だったので、帰宅は午後11時半を過ぎていた。 食卓につき、缶ビールを飲みながら、夕刊を開く。朝日新聞に月一度くらいの割りで『惜別』といページがある。直近に亡くなった人を悼む記事が載る。そこにイタリアの映画監督、ジッロ・ポンティコルボの名前があった。名作『アルジェの戦い』を撮った監督である。10月12日死去。86歳であった。死因は心筋梗塞の後遺症とのこと。 数日前、イギリスのケン・ローチ監督の作風を詩情と骨の太い思想性を併せ持つと書いた(11月25日の日記)。ポンティコルボ監督の映画もまた、まさにそうであった。 酔流亭が『アルジェの戦い』を観たのは、1971年、高校二年生のときである。高田馬場の、今はなきパール座という映画館でだ。そのときの衝撃と感動は忘れられない。映画館を出ても、すぐ電車に乗って帰る気になれず、早稲田大学に向かう通りをしばらく歩いて気持ちを鎮めた。当時はこの通りに貸本屋がまだ何軒もあったのを覚えている。これも今では絶滅した商売だが、こんなことまで鮮明に記憶しているほど、あの映画を観たことは高校の三年間を通じても酔流亭にとって特別な体験として心に刻まれているのである。1970年代初頭といえば、ベトナム戦争は大詰めに迫っており、われらの世代もそれに無関心ではいられなかった。初めて反戦デモに参加したのはその頃である。映画の主な舞台はカスバの市街であり、ベトナムは農村が戦場になったというイメージが強いから、映像からただちにベトナムを連想したわけではなかったけれど、植民地支配からの解放を目指すという点では共通していた。 この『アルジェの戦い』は、フランスの植民地だったアルジェリアでの民族独立の戦いを描いたものである。創作なのであるが、実写と見まがうようなドキュメンタリー・タッチで貫かれ、その手法が異様な迫真性を生んでいた。 アルジェリアもベトナムも、独立後の歩みは必ずしも平坦な道ではなかった。理想の国造りが進められたとは言いがたい。それでも、大国が小国を勝手に踏みにじれるような時代を終わらせていく上で、これらの国の人々の闘いが果たした役割は大きい。 『アルジェ・・』(制作されたのは1966年。だから酔流亭が観たのはかなり後のことである)の数年後に、マーロン・ブランド主演で『ケマダの戦い』という作品をポンティコルボ監督は作った。これはロードショー公開されたときに観た。植民地主義の構造に切り込んだ意欲作であったが、興行的には成功しなかったようだ。その後は、イエス・キリストの生涯をテーマにした映画を企画しているというニュースを雑誌『キネマ旬報』で見かけたと思うけれど、それはどうなったか。『ケマダの戦い』が興行的に失敗したので、その後は映画を作りにくくなってしまったのだろうか、などと素人考えで想像したりしていた。 そして月日は流れ、昨夜目にした訃報である。 寡作ながらイタリア映画界の重鎮として重きを置かれていたと、その新聞記事には書かれていた。海の彼方から、冥福を祈る。 ■
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by suiryutei
| 2006-11-28 21:45
| 映画・TV
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Comments(2)
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カスバを覆う人々の叫び声が忘れられません。
ゲリラの潜む家を家ごとフランス特殊部隊が爆破する場面も。 <帝国主義>に抗する<民族解放>の正義を無条件に信じ、希望を託していたぼくでした。 でも、今もう一度見たら、<解放>の側の暴力や、ゲリラ側の非合法ゆえの徹底した上意下達の非情な組織原則などががどう描かれていたのか、きっと気になるでしょうね。
髭彦さん、こんばんは。
私も、ほぼ同じように考えています。
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