新人事制度 大阪での報告①~③
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昨日は泊まり勤務の連続がようやく終わった日。徹夜勤務の明け番であったので、夜は早く寝るつもりでいた。 ところが、TVの番組表をみると、夜10時からNHK『そのとき歴史が動いた』が石橋湛山を取り上げているではないか。これは視ないわけにはいかない。その前に入浴を済ませていつでも寝られるようにして、夜10時、チャンネルをNHKに合わせた。 石橋湛山といえば、語られるのは大抵、「小日本主義」をとなえて日本の帝国主義と言論で闘った戦前のジャーナリスト時代のことであり、また岸信介を破って総理大臣に選ばれながらも、急病(脳梗塞)でわずか60日余で退陣したときの、地位に連綿としない引き際の潔さだ。酔流亭も、湛山ファンを自称しながら、総理退陣後に彼がなそうとしたことについては、ほとんど知らなかった。だが、昨夜の『そのとき』は、病から小康を得て後の1963年、彼が中国を訪問したときに焦点を当てていた。 当時、日本と大陸中国とは国交が無い。身内の自民党は湛山の訪中に冷ややかであった。そんな中で湛山が構想したのは、日米中ソが平和条約を結ぶということであったという。軍事同盟とは異なる集団安全保障の構想である。これが実現すれば冷戦構造に風穴を開けることができる。 ヨーロッパの今日の全欧安保協力機構に近い構想を、湛山はすでに60年代に考え、その実現に向けて動こうとしていたのだ。 こういうTV番組の性格として、そのとき主人公に取り上げた歴史上の人物については、どうしてもいくらか過大に持ち上げるところがあるだろう。「もし、あのとき・・・」という問いかけは、番組にドラマ性を与える。だが、そこを割り引いたとしても、石橋湛山という人は、やはりたいした人だったと思う。 これは偶然だろうけれど、今朝の朝日新聞朝刊で田中秀征氏(元経済企画庁長官)は宮沢喜一氏の死に触れつつ、石橋湛山のことも語っている(『私の視点ー保守本流枯渇でいいのか』)。 宮沢氏は保守本流だが、同時に石橋湛山の系譜にも属していたとして、「石橋さんはGHQに対し、何ら臆することなく、はらはらするほど堂々と自分の意見を述べた」という宮沢氏の述懐が紹介されている。 それに比べて、今日の保守政治家たちの腐ったことよ。「原爆が何百万人もの日本人の命を救った」というアメリカ政府高官の嘘八百に抗議ひとつできないのか。 ※石橋湛山について書いた過去ログは、たとえば06年9月16日、07年5月3日など。
by suiryutei
| 2007-07-05 10:38
| ニュース・評論
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Comments(6)
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指摘を受けるまで気が付かなかったです。
読んで一番感じたことは秀征はそういう責任のことを言うならもっと活躍しろよ、でした。知らないところで活躍しているのも知れませんが、それでは弱いと思います。
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たしかsakuraasakoさんは田中秀征氏を贔屓にしていましたね。田中さんは石橋湛山の弟子をもって任じていたから、湛山ファンの私とasakoさんはこの点でもウマが合った・・・なんちゃって。
![]()
>石井・石橋両派に向けて熾烈な切り崩しが行われていたし、相当の黄白が乱れ飛んだ。余談ながら、岸は商工省人脈から財界に顔が利いた。藤山愛一郎、杉道助などの提供した政治資金は即座に実弾として遣われたわけだが、この選挙で岸派が遣った金額は一説には三億円と言われる。
岸の敗因は、秘書の山路一寿によれば、「地方代議員の争奪に敗れたこと」だという。岸派の地方代議員が上京、宿泊していた第一ホテルは石田博英の定宿でもあったが、石田は一晩のうちに岸派代議員を一人ずつ表へ連れだして30人のうち29人までを切り崩してしまったのである。のちに石田は、「野戦は得意なんだ」と笑ったという。岸派がカネをばらまいたのならば、役職の空手形を濫発したのが石田であった。通産相の手形は5人に、農相の手形は8人に振られたという。大野伴睦が副総裁または幹事長の手形を振られたことは前述の通りである。 目くそ鼻くそを笑うと言うこともあるが、このような、石橋湛山の行動は、一体どう考えるんだろうか?金権腐敗ということ、そのものといえるのではないかな?
鏡中条さん、初めまして。
かつて佐高信さんは湛山のことを書くとき、やはりそのときの金権選挙にひっかかりを覚えたそうです。しかし、それでも湛山のことを書いた(『孤高を恐れず』という単行本になっています)。調べれば調べるほど書きたい思いが湧いてくるだけの魅力を湛山は持っていたということでしょう。私の考えもそれに近いのです。 ![]()
>党の政綱
昭和三十年十一月十五日 六、 独立体制の整備 平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。 世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以上は、自民党の政綱です。政党綱領と言うことでしょう。 憲法を変えること、軍隊を持つことを明記しています。その政綱を掲げる自民党の総裁が、石橋湛山だったわけです。 一体、石橋湛山は、改憲し、軍隊を持つことを宣言し、遂行してきたのは言えないのでしょうか?それも、自民党に一党員ではなく、自民党の総裁だったわけです。そこらへんは、どう考えるのでしょうか? 確かに、人間的には、面白い人のようにも思います。しかし、それは「政治責任、政党責任、人間責任」を問われます。そこでの魅力はどうなんでしょうか?
自民党の性格についてはおっしゃるとおりで、湛山はそこの総裁を務めたのですから、もちろん私は彼と基本的立場を異にします。ただ、立場は違っても天晴れと思う人物はいるのではないでしょうか。私が若いころ接した人に、戦争中10数年間というもの非転向で獄中生活を送った人がいるのですが、その人が石橋湛山について語るときは或る種の敬意を話しぶりに漂わせていたことが思い出されるのです。
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