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昨日(13日)、秩父へ行ってきた。今年120周年を迎えた秩父事件の足跡を訪ねての日帰りフィールドワークである。とりあえず写真を3枚紹介します。上から、蜂起前夜に数千の農民が集結した椋神社の境内(紅葉が見事だった)・同神社内にある事件の記念碑・秩父市内を見下ろす音楽寺境内に建つ無名戦士の墓です。 ![]() ![]() ![]() ※『伝送便』誌04年12月号にこの日のことを書きましたので、下にコピーしておきます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 秩父事件120年 (『伝送便』誌04年12月号) 今年は秩父事件が起きて120年にあたる。明治17年11月、松方デフレ政策の下で窮迫した秩父の農民は武器をとって蜂起し、数日間にわたって秩父一帯を制圧した。最盛期には蜂起に参加した農民の数一万人に及んだという。出動した鎮台兵によって鎮圧され、参加者は後々まで暴徒と呼ばれたこの事件は、日本近代における唯一の人民蜂起である。 11月13日、この日は関東に「木枯らし1号」が吹いた日だが、私は秩父盆地に事件の足跡を訪ねた。『フォーラム色川』が企画したフィールドワークに参加したのである。『フォーラム』は歴史学者・色川大吉さんの学風を慕う人々が集うサークルで、私も今年から会員になっている。 まず秩父神社へ。大宮郷(現在の秩父市)に進軍した農民軍が最初に本陣を置いたところだが、この日は七五三参りで賑わっていた。左甚五郎作の彫り物もある由緒ある神社だ。 マイクロバスを走らせて椋神社に向かう。蜂起の前夜、農民たちはここに集結して隊伍を整えた。境内は紅葉が美しい。この日の秩父盆地は素晴らしい快晴であった。 最高指導者のひとり(会計長)、井上伝蔵の墓にも立ち寄った。墓前に真新しい花が供えられている。いま公開中の映画『草の乱』は彼を主人公とし、緒方直人が演じているとのこと。事件後、伝蔵は消息を絶ち、欠席裁判で死刑を宣告されるが、北海道まで逃げのびる。その地で名を変えて家庭も持ち、35年間を生きる。亡くなる直前に瀕死の病床でやっと半生を明かした。息子に残した遺言はただひとつ、「あの事件が国事犯として扱われなかったことが残念だ。どうか俺の代わりに秩父に行って、同志たちの菩提をとむらってくれ」ということであったらしい。劇的な人生である。 夕方、秩父市中心部から荒川を渡った対岸にある音楽寺に。農民軍はこの寺の鐘を乱打して荒川を渡り、郡役所に突入した。境内には「秩父困民党無名戦士の碑」が市街を見おろしている。 さて、秩父事件は「自由民権運動の最後にして最高の形態」という評価が今日あたえられている。秩父出身の歴史家・故井上幸治氏が名著『秩父事件』で提出したものであり、色川大吉氏もこの見解に立つ。 その一方で、秩父事件をはじめとするこの時期の農民騒擾は、近代化をすすめる明治政府に対する「反近代」からの抵抗であり、自由民権とは別のものだとする見解も有力である。自由党主流による国会開設運動と困民党や借金党の闘いとの異質さに注目するところから出された評価である。 しかし、国会開設要求だけが自由民権運動ではあるまい。私も井上説や色川説を支持したい。明治国家や自由党主流だけが近代化をすすめたのではない。明治維新がけっして解決しなかった封建的搾取と、新たに強行された資本の原始的蓄積過程と。前近代および近代のふたつながらの収奪に対する抵抗を通じて人民は人民的近代への道を切り開こうとしたのではなかったか。 秩父事件を顕彰することから私たちが学ぶものは今日なお多いと思う。
by suiryutei
| 2004-11-14 10:11
| 旅行
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