酔流亭日乗
2024-03-19T08:05:48+09:00
suiryutei
酔流亭の日記です。蕎麦屋の片隅で酒盃を傾けながら日々思うことを綴っていきます。
Excite Blog
寅さんの昼間の酒
http://suyiryutei.exblog.jp/33721307/
2024-03-19T08:01:00+09:00
2024-03-19T08:05:48+09:00
2024-03-18T08:40:30+09:00
suiryutei
映画・TV
そのころ吉永小百合(1945年生まれ)はまだ20代である。彼女が扮する歌子たち親友3人(学生のとき同級生だったのだろうか)が北陸を旅しているとき、福井の茶店で寅さんと出会って仲良くなるのである。
茶店で先客だったのは寅さんのほうで、囲炉裏端で一人、酒を飲んでいる。四合くらいは入っていそうな大きな徳利から、ぐい飲みでぐいぐいと。冷や酒であろう。
これが、じつに旨そうであった。
そこへ歌子たち3人が入ってくる。寅さんはあのとおり堅気の風体ではないから、3人は恐る恐るといった態である。寅さんは
「あのお嬢さんたちに何か旨いもの食わせてやってよ」
と茶店のおばさんに声をかけ、だんごとかをご馳走してやる。じき打ち解けていって、福井だから東尋坊の絶壁なんかで一緒に遊ぶ。
あとはいつもの展開だ。歌子には実は好きな人がいた。愛知県の窯場にいる陶工。
些事になるのだけれど、寅さんが福井の茶店でのように昼間から酒を飲むのは珍しいのではないか。酒好きの彼だが、昼はたいてい路上で香具師(露天商)の稼業に励んでいるからだ。それで日銭を稼ぐからこそ夜は酒も飲める。フーテンとか遊び人とか自称するけれど、あれでけっこう勤勉なのだ。
それはともあれ、福井の茶店でのあの一人酒は旨そうであった。旅の酒って、いい。
※寅さんに触れたコラムが載っている過去記事です。表題だけ見ると寅さんをルンペン扱いしているみたいですが、そうではないと述べるのが眼目。
ルンペンについて ~同人誌『トルソー』寄稿 : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
・・フーテンの寅さんがルンペンにたとえられもする。これは正しいか。フーテンとは仕事も学業もせずふらふらしている人のことである。なるほど寅さんが奇妙な口上で街かどで売る品物の仕入れ先はいかがわしかろう。しかし彼は勤労を厭いはしない。呑む酒代は自分の稼ぎだ。彼の自嘲しつつの自称(フーテン)を真に受けるとしたら「風天」と号して俳句の達人だった故・渥美清はあの世で苦笑する。・・
]]>
51期後輩の卒業式答辞
http://suyiryutei.exblog.jp/33721279/
2024-03-18T08:08:00+09:00
2024-03-18T08:15:22+09:00
2024-03-18T08:02:27+09:00
suiryutei
ニュース・評論
酔流亭は27期(1973年卒業)だから51期後輩ということになる。
【切抜動画】破廉恥議員よ聞け! 桐朋高校78期生卒業式答辞 - YouTube
初め桐朋の卒業生の間だけで話題になっているのかと思ったら、ネット界隈でけっこう評判になっているようだ。
なお答辞を読んだ土田君は酔流亭の土田とは縁がない。
下の写真、今日の更新記事の内容とはつながらないが、展覧会が開催された1972年といえば、酔流亭は桐朋の高校三年生であった。
]]>
鶯(ウグイス)の初鳴き、聴きそびれた南気象予報士の駄洒落
http://suyiryutei.exblog.jp/33720126/
2024-03-17T08:34:00+09:00
2024-03-17T15:05:37+09:00
2024-03-17T08:23:36+09:00
suiryutei
身辺雑記・自然
毎年たいてい予想を外す南さんだが、誤差はふつう1日か2日。5日も予想を修正するなんて珍しい。季節外れに暖かいのは今日までで、明日から冷え込みが戻ってくるようだ。
しかしここ2~3日の暖かさに誘われてか、一昨日、鶯が啼くのを聴いた。昼下がりであった。ホーホケキョと何度も啼く。家の中に居てもよく聴こえた。
鶯が啼くのは冬のあいだは聴かない。わが家のあたりではこれが初啼きであろう。
木蓮も咲き出した。まだ写真を撮っていないので、上は去年3月15日に撮った写真だが。
さて先ほどNHK朝のニュースの終わり際、南気象予報士が木蓮にひっかけて何か駄洒落を放ったけれども、当方、雑事にかまけて聴きそびれた。
勝手に推測すれば
「桜の開花にばかり気にかけて木蓮に目もくれんなんてことがないように」
とでも言ったんではなかろうか。
]]>
サバ缶と酒、泡盛
http://suyiryutei.exblog.jp/33719052/
2024-03-16T09:12:00+09:00
2024-03-16T12:02:33+09:00
2024-03-16T08:16:28+09:00
suiryutei
酒・蕎麦・食関係
2話目に置かれた『露』では、港の荷揚げ作業が終わってから6人の男が酒盛りをする。1986年の夏の或る日の夕方だ。軸になる語りは二つである。
一つは、68歳(すると戦争中は20代)の男が語る中国戦線での記憶だ。行軍の苦しさの鬱憤を晴らすべく中国の住民に残虐行為の限りを尽くす日本兵たち。
もう一つは、沖縄戦の末期、洞窟(ガマ)の中で、意識を失って瀕死の中学生(鉄血勤皇隊員)の身体から滲みだす水分を吸って生きのびた65歳の男(沖縄戦のときは24歳だ)の語り。中学生は死んでしまう。題名の『露』とは、男が中学生の身体から吸い取った水分を指す。
どちらも重い主題であり、詳しくは20日に迫った『魂魄の道』読書会で参加者の方々と議論したいと思う。
今日は軽い話で逃げておく。
酒盛りで飲むのは缶ビールと、それに沖縄だからやはり泡盛である。
肴の中心はミジュンだ。鰯の一種で、沖縄ではどこの港でも桟橋からよく釣れるらしい。「小型ナイフのような魚体」とあるから、キビナゴほどのサイズであろうか。酢味噌かショウガ醤油をつけて刺身で食べるようだ。潜って獲ってきたサザエもある。これは七輪の上で焼いてバターと醤油を垂らして食べる。
どちらも旨そうだね。
ところが、中の一人は、ミジュンやサザエよりも、サバの缶詰を開ける。泡盛をサバ缶の煮汁で割って飲むのが一番うまいというのである。
サバ缶には味噌煮と水煮がある。どちらの缶詰なのか明記されていないけれど、これは当然水煮だろうね。味噌煮の汁ではくどいだろう。
じつは我が家で一昨日開けたサバ水煮缶の少し残ったのを昨日の夜食べた。煮汁をちょいと吸い、清酒を口に含むと、これがじつにいい塩梅である。
これなら泡盛を割っても、きっと旨い。
なお昨日飲んだ清酒は山梨〔七賢〕の純米である。
]]>
オスプレイ飛行再開を許すな! 春さきの風に
http://suyiryutei.exblog.jp/33717639/
2024-03-15T08:48:00+09:00
2024-03-15T08:48:36+09:00
2024-03-15T05:50:44+09:00
suiryutei
ニュース・評論
墜落した原因も明らかにされず、いつまた落っこちるかわからない超重量の物体が市街地のすぐ上を飛んでいるのだ。
冗談じゃないよ、まったく。
オスプレイは向こう(アメリカ)で<未亡人製造機>と言われてきたそうだ。去年11月の屋久島沖での事故がそうだったように、墜落すれば乗務員はたいてい死亡するからそう呼ばれるわけだが、これは墜落事故の巻き添えになる人たちが視野に入っていないのではないか。市街地に落ちたらどれほどの惨事になるのか。沖縄はそういう状況に置かれている。
4月6日(土曜)の午前11時から、新宿駅南口で<沖縄一坪反戦地主会関東ブロック>がスタンディングをやるそうだ。辺野古基地建設に反対してのもの。オスプレイ飛行再開への抗議もこもったものになるだろう。酔流亭はこの日は午後赤羽に用事があって出かけるので、その前に時間の許す限り参加してこようと思う。
詳しくは下に貼り付けた一坪反戦地主会のサイトに。
jca.apc.org/HHK/
さて今日は3月15日。この日といえば中野重治の小説『春さきの風』を思い出す。
三月十五日につかまった人々のなかに一人の赤ん坊がいた。
と短編は書き出され、
「わたしらは侮辱のなかに生きています。」
それから母親は眠った。
と結ばれる。
冒頭の三月十五日とは1927年3月15日。治安維持法の下、共産党員など左翼活動家が大量検挙された<3.15事件>が起きた日だ。
赤ん坊は拘置所の悪環境の中で死んでしまうのである。
一年前に亡くなった大江健三郎が2012年7月代々木公園の脱原発集会でのスピーチで前述
「わたしらは侮辱のなかに生きています。」
を引用して述べたことがある。会場にいた酔流亭もその言葉を聴いた。
思い出して去年3月18日の更新記事に書いてある。
大江健三郎氏 : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
]]>
ホワイトデー
http://suyiryutei.exblog.jp/33716308/
2024-03-14T08:34:00+09:00
2024-03-14T08:34:34+09:00
2024-03-14T08:29:41+09:00
suiryutei
身辺雑記・自然
去年のホワイトデーは病院の中であって、病院から入院患者へのプレゼントとして夕食のプレートの隅に小さなスウィーツが添えられていた。ありがたく頂いたけれども、酔流亭から連れ合いにお菓子を渡すことができなかった。下の写真は去年のホワイトデーに病院で。
この一年間、病気の再発もなく、どうにか無事過ごせた。それも祝いたい。
入院していました : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
]]>
五郎さんに発見されぬうちに ~松戸の飯や〔味さわ〕
http://suyiryutei.exblog.jp/33714999/
2024-03-13T08:57:00+09:00
2024-03-13T12:01:02+09:00
2024-03-13T08:31:48+09:00
suiryutei
酒・蕎麦・食関係
午後6時半ごろからほんのしばらくのことであって、じき元に戻る。
ああ、そうかと、すぐ合点が行った。
TV東京で延々と再放送が続く『孤独のグルメ』(月曜~木曜の午後5時45分~6時25分)に柏の食堂〔いずみ亭〕が登場したからだ。このブログに〔いずみ亭〕に行ったときのことを書いた過去記事があり、そこにアクセスが集中したのである。昨夜『孤独のグルメ』を視て〔いずみ亭〕に興味を持った人がググッたところ、酔流亭のその過去記事も出てきたのだろう。
柏の食堂〔いづみ亭〕 ~『孤独のグルメ』登場の店 : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
『孤独のグルメ』に〔いずみ亭〕が登場したのは、シーズン10における第5話であった。初出は一昨年の秋。その後何度も再放送されている。
酔流亭はTV初出の前にも〔いずみ亭〕の前を車で通ったことはある。手賀沼に遠くなく、周囲は水田や梨畑がひろがる。TVでも松重豊扮する井之頭五郎が田んぼの中をトボトボ歩く場面があった。
住宅街でも商店街でも国道沿いでもない、こんなところに食堂があっても客はどこから湧いてくるのだろうと不思議だったものだ。
店の中には、TVで紹介されてから初めて入った。1960年代ごろの食堂といった雰囲気で、なるほど五郎さんが気に入りそうであった。酔流亭も気に入った。
『孤独のグルメ』余波であろう、今や店には行列が絶えない。酔流亭もここで昼食を摂るときは11時半開店の10~20分前くらいには行って行列に並ぶ。
さてこの前の日曜にSさん宅に本を譲ってもらいに出かけたことは一昨日の更新記事に書いた。Sさんのお宅は松戸にある。一緒に行く友人たちとは北松戸駅で待ち合わせた。
あれから13年 ~今日は3.11だ : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
約束の時刻より少し早めに着いたので北松戸の駅前を散策したら、こんな飯屋があるではないか。
外から眺めただけだけれど、いかにも井之頭五郎が喜びそうな雰囲気の店である。
北松戸駅から徒歩1分!魚がおいしい「味さわお食事処」のお得ランチ - 松戸に住もう! (edokenhouse.com)
『孤独のグルメ』の新作がもしこのさき制作されることになるとすれば狙われるかもしれない。
もっとも毎回出てきたものを完食しているというから、松重豊も出演を続けるのは体力的にそろそろきついのか、一昨年のシーズン10のあとシーズン11の話はまだ出ていないようだ。
ともあれ、五郎さんが訪問する前に行ってみたい店である。
肴もたっぷり。下戸の五郎さんとちがって、酒もたのしめそうだ。
]]>
灯油
http://suyiryutei.exblog.jp/33713694/
2024-03-12T08:48:00+09:00
2024-03-12T08:52:15+09:00
2024-03-12T08:33:32+09:00
suiryutei
身辺雑記・自然
去年は春の訪れが急で、少し残してしまった。夏を越してしまった灯油を使うのは危険だ。去年10月末、近所にあるホームセンターで冬に向けて初めて灯油を買うとき引き取ってもらった。
そのとき灯油18ℓの値段は1980円だった。それが12月には1998円になった。
灯油の値段、郵便料金の値上げ : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
先月、この冬はこれが最後かなあと思いつつ買ったときもなお1998円。この物価高の中でホームセンターは一冬よく頑張って価格を維持したと言えるのかもしれない。
3月に入って寒さが戻った。昨日の朝、都心の最低気温は0℃。ならば我が町・我孫子は-3℃くらいまで下がったと思う。
前回これで最後かと思ったが、もう少し買い足す必要がある。しかし18ℓのタンク満タンではまた去年のように余らせそう。10ℓだけ買うことにした。
ホームセンターの給油所では価格が書き変えられていた。18ℓではとうとう2000円突破である。
春よ来い。しかし、我が家の灯油ストーヴが10ℓの灯油を燃やしきるくらいの足取りで。今日の雨のあとは気温が上がるという予報だが。
]]>
あれから13年 ~今日は3.11だ
http://suyiryutei.exblog.jp/33712533/
2024-03-11T08:59:00+09:00
2024-03-11T09:00:46+09:00
2024-03-11T08:13:43+09:00
suiryutei
身辺雑記・自然
北千住を過ぎ、江戸川を渡ったあたりで運よくタクシーをつかまえることができたのであった。そのタクシーは都心に戻る途中なのを、また引き返してもらうことになって、我が家に着いたのは日付が替わって12日の午前2時だった。あの運転手さんは、酔流亭を降ろした後も、一晩中なお行ったり来たりしたのではなかろうか。
そのときのことは『伝送便』誌に少し書いた。2011年4月号寄稿である。
三月十一日のこと ~『伝送便』今月号記事 : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
さて、あの3.11当日は関東では曇りがちの寒い日だった。今日は明け方は冷え込んだけれど、一日晴れの予想だ。昼に向けてこれから気温も上がっていきそう。
昨日もいい天気だった。友人たちと誘い合わせて、Sさんのお宅に伺った。2月4日に続いて、二度目の訪問である。
本の森を訪ねて : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
上に貼り付けた2月5日更新記事にも書いたが、Sさんはもうお宅にはいない。高齢のため施設に移られた。膨大な蔵書も整理するので読みたい本があれば持って行っていいというご好意に甘えて、前回持っていききれなかった本をまたもう少し頂いてきた。
Sさんは労働者文学会の先輩でもある。10年前、職場のことを何か書いて労働者文学賞に応募してみないかと酔流亭に声をかけてくださったのもSさん。酔流亭にとっては恩人だ。
蔵書に佐多稲子『キャラメル工場から』の文庫本があった。同作を初め14編の短編小説が収められている。大事に持ち、くり返し読んでこられたのだろう。銀座の鳩居堂の包み紙で包装され、背表紙に〔キャラメル工場から〕と手書きされている。Sさんのように働きながら文学を志してきた女性にとって佐多稲子がいかに大きな存在の作家であったかということが覗われる。
酔流亭も13年前の3.11の夜、家に向かって歩きながら佐多稲子のことをふと思った。彼女の『私の東京地図』という作品に関東大震災に遭遇したときのことも書かれているからである。上に貼り付けた『伝送便』誌寄稿にそのことも触れてある。
Sさん宅を辞してから、2月に寄ったのと同じカフェで遅めのランチを摂った。前回はカレーだったが今回はオムライス。赤ワインもグラスで一杯飲んだ。
]]>
戦争とジェノサイドを止めよ! ~国際婦人デーに
http://suyiryutei.exblog.jp/33711244/
2024-03-10T06:47:00+09:00
2024-03-10T06:51:26+09:00
2024-03-10T05:54:51+09:00
suiryutei
身辺雑記・自然
風が強かったから、利根川を渡る鉄橋を通過するときいくらか減速したのかもしれない。
前から2両目の車両に乗る。意外に混んでいて、通勤ラッシュのときほどではないけれど立った乗客がかなりいる。
車両の端っこは〔優先席〕になっている。前は〔シルバー・シート〕と呼ばれていた。両側に3人ずつ座れる。
ところが、その片側に座っている3人は高校生である。土曜であっても登校日であったのか制服姿だ。
もう一方の側は左右に1人ずつ座って、真ん中が空いている。近寄っていったら、そこにはカバンが置かれているのだ。右に座っている乗客のものである。酔流亭と同年配くらい、両耳をイヤホーンでスマホにつなぎ、何か聴いている。それで肩を叩いてカバンをどけてもらい、そこに座る。
向かいになった高校生3人組もスマホを見ている。そうしてゲラゲラ笑う。彼らの前で立っている乗客は高齢というほどではなかったものの、連中の親くらいにはなる年配に見える。けっこう混んだ車内でガキの分際でよく平気で〔優先席〕を占領していられるなあと、だんだんムカついてきたが、幸い次の停車駅
である柏でこの連中は席を立って下車していった。
柏は我孫子なんかよりはるかに人口の多いところ。上り電車には同駅で人がたくさん乗ってくる。新たに乗ってきた中に赤ちゃんを連れた夫婦がいた。母親が子を抱き、父親はベビーカーをたたんで持っている。声をかけて、母親に席を譲った。
上野駅で下車してホームを歩き出したとき
「すみません」
うしろから女性の声である。
ふりかえると、席をゆずった母親が、赤ちゃんを抱いて追いかけてきた。この人たちも上野で下車していたのだ。
「どうもありがとうございました。助かりました」
うしろで父親も頭を下げる。
母親は赤ちゃんの手をとってこちらに向かって振らせた。男の子。笑顔を見せる。こっちも手をふった。
今どき珍しく礼儀正しい人たちだと、すっかりいい気持ちになって上野から湯島、本郷を歩いて過ぎ、後楽園遊園地の手前、文京区民センターに向かう。昨日の更新記事に紹介したように、国際婦人デー東京集会に参加した。
100人を超す盛会だった。ガザでは現在も虐殺が続き、すでに3万人を超してしまった死者のうちには女性と子どもも多い。つい先ほど僅かな接触があったおさなごのような人たちが殺されている。いま何よりやらなければならないのは戦争とジェノサイドを止めることだ。集会はそのことを強く訴えていた。
]]>
今日、国際婦人デー東京集会
http://suyiryutei.exblog.jp/33710335/
2024-03-09T08:39:00+09:00
2024-03-09T08:39:21+09:00
2024-03-09T08:24:19+09:00
suiryutei
ニュース・評論
記事だけでなく、1ページまるごと使った広告がいくつも。下は芝浦工業大学が出したもの。
そうか、3月8日は国際婦人デーであったな。
一日遅れて今日、国際婦人デー東京集会が開催される。
集会のあとデモもある。幸い今日は一日快晴のようだ。
国際婦人デー3・9集会 「戦争をとめよう!」―たちあがって、変えよう つながって、かちとろう―(東京・文京) (labornetjp.org)
【アピール】 働く女性のみなさん、戦争に反対し平和を求めて闘うすべての女性のみなさん。3月8日は国際婦人デーです。反戦平和と女性の権利確立を掲げる行動日です。 現在、ウクライナやパレスチナで、そして全世界で戦火がやむことはありません。パレスチナでは罪のない子どもたちが多数犠牲になっています。野蛮な虐殺をすぐにやめさせなければなりません。 戦争は決して遠い国の出来事ではありません。沖縄の島じまに自衛隊のミサイル基地が次々と造られ、政府の「代執行」で米軍基地建設が強行されています。米国の戦争に便乗して、日本政府がみずから戦争する態勢を着々と整えているのです。 国際婦人デーは、1910年、第一次世界大戦に向かう危機のさなか、ドイツの社会主義者クララ・ツェトキンらが提唱したものです。 戦争に反対し、 世界の女性と連帯する日として、こんにちまで闘いが続けられてきました。1917年には、帝政ロシアの圧政と資本家たちの横暴に抗議してロシアの女性たちがデモに立ち上がり、男性や兵士までまきこんでロシア10月革命の導火線ともなりました。日本でも厳しい弾圧を受けながらも1923年に初めての国際婦人デー集会が開かれました。わたしたちはこの歴史に連なり、今年は3月9日(土)に国際婦人デー集会を開催します。 日本では、働く女性の半数以上は非正規労働者で、低賃金や劣悪な労働条件のもとにいます。また、家事や育児、介護などは、女性の私的・無償労働が当たり前とされており、多くの女性は二重三重の搾取構造のなかにいます。 どこまでも利潤を追求する資本主義社会のありようが、社会的弱者を苦しめ、世界中で頻発する環境破壊・貧困そして武力衝突を招いています。残念なことに、国際婦人デーが呼びかけられてから100年以上が経過しても、資本主義の矛盾は深まるばかりで、平和な世界を築くことができていません。 平和は、普遍的な人類共通の願いです。戦争をとめよう、平和を守れ、憲法改悪阻止をひとつの課題として結集し、声をあげましょう。いまこそ手をつなぎ、連帯して闘うときです。国際婦人デー集会にぜひご参加ください。【集会スローガン】・平和憲法改悪反対!・沖縄の島じまを軍事要塞にするな!・辺野古の米軍新基地建設反対!「代執行」と工事強行を許さない!・政府は税金を軍事費に使うな! 被災地にまわせ・中国・朝鮮に対する敵視政策をやめろ! マスコミは戦争を煽るな!・原発は廃炉に! 汚染水の海洋投棄をやめろ!・朝鮮高校・幼稚園を無償化から排除するな! 在日コリアンの人権・生存権を守れ!・ヘイトスピーチ・ヘイトクライムを許さない・日本軍「慰安婦」被害者・戦時強制連行被害者に公式謝罪と法的補償をせよ!・性暴力撲滅!性差別・人権蹂躙を許さない・労働組合潰しの解雇横行を許さない・政府・企業に生活できる賃金と労働時間を保障させよう!・非正規・フリーランス労働者の権利を守れ!・政府は外国人労働者の人権を保障せよ
]]>
1930年代生まれの世代
http://suyiryutei.exblog.jp/33709209/
2024-03-08T08:47:00+09:00
2024-03-08T08:51:16+09:00
2024-03-08T08:11:09+09:00
suiryutei
身辺雑記・自然
日本文学研究者の田代ゆきさんが報告者を務めた2月の読書会は20数名の参加で、報告も討論も中身が濃かった。読書会が終わった後、缶ビールを飲みながらの懇親会のとき、参加していた添田直人さんの携帯に連絡があった。お母上の体調に異変があったということである。
何日かして、お母上は亡くなられた。昨日、告別式があって、酔流亭も参列した。
お母上は92歳。天寿を全うされたということだろう。告別式は清やかで気持ちのよいものであった。
喪主を務めた添田さんの挨拶によれば、1931年に生まれたお母上は戦中から戦後の時代を力強く生きられたようだ。先に触れた『魂魄の道』の作者、目取真俊氏の父は1930年、母は34年の生まれだから、まったくの同世代ではないか。『魂魄の道』に収められている諸作品に登場する人びとには作者の父や母が投影されていると思われる。添田さんのお母上にお会いしたことはない酔流亭だが、なんとなく身近に感じられてきた。報告に備えて『魂魄の道』をくり返し読み込んでいる最中だから。
添田さんの挨拶は心に沁みるものだった。聴いていて、酔流亭は自分の母の葬儀の日のことまで思い出してしまった。1992年だったから、もう32年たつ。4月の、桜が散る頃であった。今朝は、明け方から先ほどまで雪が盛んに降った。今(午前8時半過ぎ)はやんでいる。
]]>
床屋と蕎麦屋
http://suyiryutei.exblog.jp/33706279/
2024-03-07T06:38:00+09:00
2024-03-07T06:38:43+09:00
2024-03-06T15:47:12+09:00
suiryutei
身辺雑記・自然
昼過ぎまで冷たい雨が降っていた。こんな日の床屋は空いているに違いない。髪を刈れば首まわりがひんやりする。昨日みたいな寒い日に、進んでそんな思いは誰もしたくないだろう。3月に入ったとはいえ年度が切り替わるまではまだ間があるし。
読みが当たって、店内はがらがら。鏡の前の椅子にすぐ座らされた。
「いちばん短い坊主頭でおねがいします」
この店では初めて見る理髪師である。50代くらいであろうか。ていねいな仕事ぶりであった。・・こう書くと、丸刈りされるくらいで丁寧も何もないだろう、と笑われそうだが、でも、やっぱり違うんですよ。
つねに数人いる理髪師さんたちの顔ぶれが、昨日はすっかり替わっているのにふと気づいた。この業界は人材がわりと流動的なのだろうか。
昔ながらの街の床屋は、いま理髪料を4000円くらいはとるだろう。酔流亭がいつもかかっている店はその半額である。そして、それくらいの料金の理髪店が増えて、昔ながらは減っている。つまり閉店していく。かつては自分の店の主だった理髪師が店をたたんで低料金の理髪店に雇われる、ということもあるのだろう。
さて床屋は我孫子駅のすぐ近くである。駅は常磐線の線路に橋が架かるかたちで橋上が改札口。この駅であるところの橋を渡れば常磐線の反対側に行ける。そうやって手賀沼方面に出た。沼に向かって少し歩くと成田街道(国道356号線)と交差する十字路がある。右に折れてすぐ、〔きみ吉〕という蕎麦屋があった。
「あった」と過去形で書くのは、去年12月24日に店を閉めたからだ。
蕎麦も酒も悪くなかった。たまに寄っていた頃の人気メニューは穴子の天重と蕎麦(もり又はかけ)のセット。手打ちを売りにする蕎麦屋なら職人(店主)は自分が打った蕎麦を一番に客に食べてもらいたいに違いない。しかし、ソバは大盛りにしたって成人男子の空腹を満たすには足りない。消化がいいのが<サラめし>としては定食屋や中華より不利だ。そこで天重で腹を満たしてもらった上で蕎麦の味も知ってもらおうと工夫したのだろう。
もう20年以上行っていないけれど、ずっと繁盛店であったと思う。
店主ご夫婦は酔流亭よりも年長であったから、店を閉じたのは年齢的な事情かと推測する。穏やかな老後を送られることを願う。
(窓枠の内側に蕎麦猪口などが置かれたままだ。マンションの一階角の店舗スペースに、新しい入居店はまだ決まってないようだ。)
]]>
寅さん映画2本
http://suyiryutei.exblog.jp/33705789/
2024-03-06T08:14:00+09:00
2024-03-06T08:15:06+09:00
2024-03-06T05:15:53+09:00
suiryutei
映画・TV
マドンナ役の女優さんは、前者は太地喜和子、後者は大原麗子。すぐに惚れて、じきフラれるのが寅さんのパターンと思われがちだが、必ずしもそうではない。波長が合う相手もいる。しかし、寅さんのほうで深入りしていかないのである。『夕焼け小焼け』でのマドンナ太地喜和子との場合なんかそうだ。マドンナは播州龍野(兵庫県たつの市)の芸者であった。
寅さん映画を視るのは久しぶり。どちらも充分たのしめた。『夕焼け小焼け』には岡田嘉子もちらりと登場する。寅さんとではなく、宇野重吉が演じた老画家との絡みである。どうやら二人は若いころ思いを交わしながら、しかし結ばれなかった仲であるらしい。
「なんであんなことをやったのかと思うこともある。・・」
なんて岡田嘉子が問わず語りに話す場面は、受ける相手が左翼演劇人の宇野重吉だけに味わい深い。岡田は若いころコミュニスト演出家の杉本良吉と共に樺太国境を越えてソ連に亡命した過去を持つ。
その宇野重吉が扮する画家は、酔ってふらりと〔とらや〕に転がり込んできたのだが、彼が画壇の大家であることなんて知らない〔とらや〕のおいちゃんおばちゃん、隣りのタコ社長たちは「ありゃルンペンかねぇ」なんてささやき合う。
ずっと前、運動仲間とルンペンプロレタリアについて議論したことがあったのを思い出した。寅さんをルンペン呼ばわりした人がいる。とんでもない間違いである。寅さんは立派に働いているではないか。そのとき書いた文章から寅さん=ルンペン論に反駁した箇所を引く。
・・フーテンの寅さんがルンペンにたとえられもする。これは正しいか。フーテンとは仕事も学業もせずふらふらしている人のことである。なるほど寅さんが奇妙な口上で街かどで売る品物の仕入れ先はいかがわしかろう。しかし彼は勤労を厭いはしない。呑む酒代は自分の稼ぎだ。彼の自嘲しつつの自称(フーテン)を真に受けるとしたら「風天」と号して俳句の達人だった故・渥美清はあの世で苦笑する。・・
(2017年11月20日発行同人誌〔トルソー〕第2号掲載コラム『ルンペンについて』)
『ルンペンについて』の全文はこの過去記事に転写してあります。
ルンペンについて ~同人誌『トルソー』寄稿 : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
寅さんの妹さくら役だった倍賞千恵子が歌うこの歌は、ことに今朝のように冷たい雨が降る時はしみじみ聴いてしまう。
さくらのバラード (youtube.com)
]]>
カウボーイ、ガンヒルの決斗、スパルタカス ~【いてんぜ】寄稿の後半
http://suyiryutei.exblog.jp/33702909/
2024-03-05T08:04:00+09:00
2024-03-05T08:04:26+09:00
2024-03-03T13:44:04+09:00
suiryutei
映画・TV
『ローマの休日』や『トランボ』を放映してくれたNHKBS平日午後1時からの時間枠は、金曜日は西部劇専門と決めてあるようだ。今年に入って1月12日、『カウボーイ』(デルマー・デービス監督、1958年)という作品を視た。 西部の牧場から東部まで牛の大群を移動させていくカウボーイたちのボスを演じるのがグレン・フォード。鉄道が敷かれたところまでくれば、その先は貨車に載せてシカゴとかの都市部に運ぶ。それまでは荒野をカウボーイが牛を追い立てていくのである。われわれが子どものころ視ていたTV西部劇『ローハイド』でお馴染みの情景だ。
ジャック・レモン扮する若者がカウボーイたちに加わって、この若者の成長譚のような筋立てとなっている。写実的で詩情もある。私は二十歳くらいのとき民放のTV放映で視た記憶があり、今回また視ても好印象を持った。デルマー・デービスってジョン・フォードほどは知られていないけれど、西部劇の名匠であると思う。
そこで『カウボーイ』についてのウィキペディアの記述を読んでみた。驚いた。ダルトン・トランボが脚本に加わっていたのだ。前述したようにトランボは1950年6月に入獄した。その前に『カウボーイ』の原案を書いていたらしい。それが8年後に活かされたのである。しかし1958年ではトランボはまだ名前を出せない。『カウボーイ』のクレジットに彼の名は無い。改めて、ウィキペディアでトランポの項目を注意深く読んでみた。脚本作品のリストに<ガンヒルの決斗、1959年、クレジットなし>とあるではないか。これも驚きであった。映画『ガンヒルの決斗』については本通信の前身〔A・Z通信〕の第39号(2020年9月1日発行)への寄稿で触れたことがあるからだ。その箇所を引こう。 ・・さて『ガンヒルの決闘』だ。冒頭、九歳の息子と馬車に乗って荒野を行く女性が行きずりの二人の若者に暴行され殺される。女性の肌の色と髪型からして先住民の女性かと思っていたら、はたしてチェロキー族の女性である。そして彼女の夫がカーク・ダグラス扮する主人公なのだ。彼は連邦保安官である。愛する妻がレイプされ殺されたことへの激しい怒りを胸に秘めながら、しかし復讐ではなく犯人を逮捕するために、その若者二人がいる町ガンヒルに向かう。若者二人のうち主人公の妻に直接手を下した男の父親が主人公の旧友であって、町を牛耳る実力者。それをアンソニ-・クインが演じている。この男は出来の悪い息子が親友の妻を殺してしまったことに苦しみながらも、息子を溺愛するからかばい続ける。町の「堅気」の白人どもが「チェロキーの女を殺して何が悪い」「賞金出したっていいくらいだ」と、とんでもないセリフを何度もくり出す。犯人の若者にしても、甘やかされて育った世間知らずであっても、とくにワルというのではない。そんな普通の若造が、相手が先住民であればレイプして殺しても罪の意識が全く無い。白人が先住民を侵略・略奪・強姦していったのがアメリカ西部の歴史であったことが映像から滲み出てくる。そしてガンヒルに単身で乗り込んだ主人公の奮闘から、そんな歴史を肯いはしないぞという映画の作り手たちの思いも伝わってくるのである。チェロキー族は一八三八年、ジョージア州からオクラホマ州に作られた「インディアン居留地」に強制移動させられ、一万五〇〇〇人のうち四〇〇〇人が途中で命を落としたという。『ガンヒルの決闘』は一九五九年の製作。監督のジョン・スタージェスは翌年、黒澤明『七人の侍』をリメイクして『荒野の七人』を撮った。これも後日(七月二四日)同じ時間枠で放映された。カーク・ダグラスは今年二月に一〇三歳で亡くなっている。(『巣篭りの日々に新聞やTV放映から考えたこと』〔A・Z通信〕第39号掲載) NHKBS放映の西部劇 ~【A・Z通信】寄稿文② : 酔流亭日乗 (exblog.jp)1972年に『新・ガンヒルの決斗』という邦題の映画がヘンリー・ハサウェイ監督、グレゴリー・ペック主演で日本公開されている。『ローマの休日』から19年、少し老けたグレゴリー・ペックはなお颯爽として、チンピラの若造3人をあっというまにノシてしまう場面もある。しかし、この映画は『ガンヒルの決斗』とは何のつながりもない。原題は『ローンカウボーイ』なのを、『ガンヒル』が昔ヒットしたので、それにあやかろうと付けられた邦題だろう。もし『ガンヒルの決斗』が新たに作り直されるとするなら、主人公の妻を虐殺した若者を生きたまま捕えて裁判にかけていたら(主人公はそのつもりであった)、どうなっていたかという展開はありえたと思う。先住民を殺した白人の若者を、白人社会の裁判所は公正に罪に処するだろうか。おそらくそうはならないのではないか。微罪ですますか、もしかしたら無罪放免にしてしまうかもしれない。トランボならあるいはそうした筋立ての物語を新たに考えて観る者に問題を提起しようとしたかもしれず、実際にそういう作品が作られていたかもしれない。しかし、映画の専門的鑑賞者ではない私などにはそれを調べようがない。せいぜいウィキペディアで知るくらいなのだが、そこに載ったトランボの脚本作品リストには日本未公開・そもそも資料がない作品が少なくないのである。ウィキペディアのリストから漏れているものもあるだろう。前述したように、濫作することで糊口をしのいでいたからだ。そんな濫作の時代にも『黒い牡牛』でアカデミー原案賞を獲ってしまう(1957年)のだから、その天才を思うべし。ロバート・リッチという偽名であった。 そして『スパルタカス』 『スパルタカス』についても書きたくてウズウズしている。最後にこの映画に触れて、この稿を終わらせたい。世界最大の航空会社ユナイテッド航空を解雇された日本人乗務員がそれを不当として解雇撤回闘争を闘っている。今は中止しているが、成田空港4階ロビー(国際線)において抗議のアピール行動を毎月最終土曜日の午後に行なっていた時期がある。一昨年の10月、その行動で参加者のリレー・トークになったとき、順番が回ってきた私は、米企業に対する争議支援の場でハリウッド映画の話題なんて場違いかなと躊躇しながらも、この映画のことを話した。その発言をなるべく正確に思い出して記録する。 一昨日NHKBSで『スパルタカス』という映画が放映されました。1960年の映画だから60年以上前の作品です。スパルタカスというのは紀元前ローマ帝国で実際に起きた奴隷反乱の指導者の名前です。映画ではカーク・ダグラスが演じました。彼はこの映画の制作者でもある。脚本を書いたのはダルトン・トランボで、この人は第二次大戦後アメリカで吹き荒れた「赤狩り」で一番狙われた人です。こいつはアメリカ共産党員だろうと言われて刑務所に入れられた。それでも転向しなかった人です。脚本家として素晴らしい力があって、『ローマの休日』、あのオードリー・ヘプバーンが某国の王女に扮した作品ですが、これでアカデミー賞の最優秀脚本賞を獲りました。さてスパルタカスの乱は結局ローマ帝国の正規軍と戦って敗れてしまいます。史実というか歴史書の記述ではスパルタカスも戦場で討ち死にしたらしい。ところが、この映画ではスパルタカスは戦場では死なず、ローマ軍の捕虜になります。ただ、ローマ軍も大勢いる捕虜のうち誰がスパルタカスなのかわからない。そこでローマ軍の司令官は捕虜にした奴隷たちに向かって「この中にスパルタカスがいるはずだ。それを教えた者は命を助けるぞ」と言うのです。ところが、誰もスパルタカスを指さす者はいない。それどころか(本人ではない)一人が「スパルタカスは俺だ!」と立ち上がると、捕虜の奴隷たちは次々に立ち上がって「俺がスパルタカスだ!」と言い出すのです。それは感動的な場面でした。脚本を書いたダルトン・トランボがスパルタカスは戦場で死んだとされる通説に逆らってローマ軍の捕虜になったとしたのは、この場面を作りたかったからではないでしょうか。生殺与奪の権を持つ権力者といえども人の心を自分の好きにすることはできない。助命の誘いや死の恐怖よりも強い人と人とのつながりというものはある。そのことをこの場面を通じて訴えたかったのではないか。捕虜となった奴隷たちは全員が磔にされます。歴史書の記述においても街道に沿って五千人とも六千人とも言われる奴隷たちが磔台で息絶えたそうです。映画ではスパルタカスもそのように処刑されます。ハリウッド映画にしては非常に厳しい結末です。しかし、私は感動しました。紀元前においては奴隷たちは勝利することができなかった。でも、現在は働く者の力は当時よりずっと強くなっています。そして権力者が思い通りには人の心を操ることができないのは昔も今も変わりありません。郵政では4・28勝利の例もあります。この解雇撤回の闘いに勝ちましょう。
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/