新人事制度 大阪での報告①~③
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シャンソン歌手で俳優でもあったシャルル・アズナブールが1日に死去したとのことだ。94歳。死因は酔流亭がこれまで接した報道の限りでは詳らかではないが、この年齢になれば死因などもうどうでもいいような気がする。 https://nme-jp.com/news/61874/ 意外に思われるかもしれないけれど、酔流亭はアズナブールのLPレコードを持っている。彼が1980年にパリのオランピア劇場でコンサートを行なったときのライヴ盤で、3枚組である。 ![]() ★『アンドレ・カイヤット監督「ラインの仮橋」』(2006年4月21日更新記事) https://suyiryutei.exblog.jp/4444725/ 一週間前に、NHKBSで『ラインの仮橋』という映画が放映された。アンドレ・カイヤット監督。たしか1960年制作のフランス映画である。主演のシャルル・アズナブールはアルメニア出身で、シャンソン歌手として著名だが、個性的俳優としても活躍してきた(たとえばフランソワ・トリュフォー監督『ピアニストを撃て!』)。 さて、映画には二人の対照的な人物が登場する。一人は鋭敏なジャーナリスト。第二次大戦前夜にあって、ドイツ・ファシズムと妥協せず闘うことを訴えて論陣を張ってきた新聞記者である。 もう一人は、おとなしい菓子職人。誠実だが目立たない男だ。これを演ずるのがアズナブールである。 対独戦が始まって早々、応召した二人は同じ戦場で敗れてドイツ軍の捕虜になってしまう(全然違う環境を生きてきた二人は、そこで知り合う)。 ドイツ軍に捕らえられたユダヤ人が悲惨な目に遭ったことはよく知られている。しかし一般の戦争捕虜の扱いにはまだ牧歌的なところがあったらしい。二人はドイツ内地の農村に送られて、そこで農家の下働きをやらされるのだ。ドイツ国内の男性労働力は兵隊として召集されているから、その不足を捕虜に補わせたのだろう。 ジャーナリストのほうは、農家の若い娘をいわば誑しこみ、その娘が自分に寄せる思慕を利用して脱走することに成功する。いっぽう、菓子職人は農家の人々に頼られて、そこの家族の一員のようになってしまう。ジャーナリストに裏切られて傷心する娘を親身にいたわったのも彼だ。 フランスに戻ったジャーナリストは、対独レジスタンスの先頭に立ち、パリ解放とともに彼が属する新聞社のトップの座に就く。彼は強い信念と野心を持ち、自分の信念をつらぬくためには周囲の人間を踏み台にすることもためらわぬ男なのだ。 こういう人物は必要だ、と酔流亭は思う。鉄のごとき意志と信念。それあるからこそ困難な中でレジスタンスの旗を振ることができたのだ。彼のような人間がいるから歴史は前に進むのだろう。しかし、抵抗する側にいるぶんにはじつに頼もしいけれど、こういう人は権力を持ってしまうと傲慢になるのではないか。人間の弱さに対しては唾棄するだけで、その弱さに対するいたわりを欠くのではないかとも思ってしまう。 同じフランス人ということで連想が働いたのだが、3年前、国連という大舞台でイラク戦争反対の旗手となったドピルバン首相(当時は外相)が、この春はその信念と野心とエリート意識のため自滅してしまった姿がすこし彼にだぶって見えた。 戦後いったんはパリに戻った菓子職人は「そこにいる人たちのほうが自分を頼りにしているから」という理由で、捕虜として過ごしていたドイツ農村に戻る。独仏の国境線であるところのライン川を彼が渡って行くのをジャーナリストが見送るところで映画は終わるのだが、色々なことを考えさせる佳作であった。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 12年前の自分は随分きいたふうなことを書いていて、いま読むと何か気恥ずかしい。とはいえ、まったく見当はずれなことを書いたとも思えず。 酔流亭の自分史とアズナブールとをかさねあわせて、もうひとつ思い出すのは『愛のために死す』というフランス映画だ。1971年制作で、日本で公開されたのは1972年である。なんで日本公開年まで憶えているかというと、高校三年生の或る日曜日に立川の映画館でその映画を観たことを覚えているから。 やはりアンドレ・カイヤットの監督作品。アズナブールは出演はしていないが、映画と同題の主題歌を歌っていた。フランスでは大ヒットしたという。 https://eiga.com/movie/41816/ 1968年のフランス五月革命後の話だった。アニー・ジェラルドが演じる女性高校教師と教え子の悲恋が描かれていた。実話に基づくという。 すると、18歳、高校三年生だった酔流亭は、女性教師の恋の相手と全くの同じ年齢だったわけだが、こちらのほうはガールフレンドを持った経験もそのころはまだなかった。 五月革命から今年はちょうど半世紀。あの映画を酔流亭が観てからも46年がたつ。昨日は久しぶりにアズナブールのLPレコードを聴いた。 ▲
by suiryutei
| 2018-10-03 08:30
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HOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)でいつもお世話になっているTさんがコッタジのCDを貸してくれた。このごろ家で自室にこもっているときはいつも聴いている。 ![]() 『ストライキ歌』 『団結闘争歌』 『在韓米軍撤退歌』 ・・・・・・まことにストレートなものもあるし、 『朝霧』 『松よ 青い松よ』 ・・・・・・抒情的なものもある。聴いていても、そうである。 https://www.youtube.com/watch?v=iW-IjiGMJnA 闘いの現場に、歌はいいものだ。辺野古で闘いを引っ張ってきた山城博治さんは東京の集会にやってきても檀上でよく歌う。 1月にその辺野古に行ったときは、普段は関西で活動していることが多い川口真由美さんも来ていて、彼女の歌にもおおいに力づけられた。対峙している若い機動隊員が、川口さんの歌声に思わず身体を揺らしていたのも見た。 https://www.youtube.com/watch?v=foWWDnQMVmM あれから、もう五か月がたってしまった。今日、6月23日は沖縄「慰霊の日」。沖縄での組織的戦闘は73年前のこの日に終結したとされる。 今から出かけるので、今日はCDを聴く時間がないが、韓国でも、いやあの国ではこちら以上に、闘いの場に歌があるのだろう。 ▲
by suiryutei
| 2018-06-23 08:15
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目が覚めて枕元の時計を見るとまだ1時半である。真夜中だ。 しばらくそのまま横になっていたが、眠りに戻れそうもない。起き出してラジオを点ける。午前2時台になっている。 西城秀樹のむかしのヒット曲が流れてきた。番組はNHKFM『ラジオ深夜便』である。曲の合間に、本来はドナ・サマー(米国の女性歌手)の特集をやるはずだったが予定を変えて16日に逝去した西城秀樹の歌をかけていると女性アナウンサーが説明した。 西城秀樹の熱唱は、それがラジオやTVからよく流れていた時代には同世代の同性としてはいくらか暑苦しかったのだが、この夜はそうは感じなかったのは、訃報は人の気持ちを粛然とさせるものだからだろうか。 https://www.asahi.com/articles/ASL5K3TG2L5KUZVL001.html 死因は急性心不全だという。 芸能界には疎い酔流亭が、このブログでその死に触れる気になったのは、彼とは全くの同世代だからである。ネットで調べると西城秀樹は1955年4月生まれだという。63歳になったばかりだ。酔流亭は同じ年の1月に生まれた。63歳といえば、平均寿命よりは短いけれども、もはや若死にとか夭折と言われるような年齢ではない。むしろ、60を過ぎたらいつお迎えが来てもおかしくないだろうと、ついこのあいだまで思っていたような気がする。ただ、こういうふうに同世代の死を突き付けられないと、それを自分の身に引きつけてはなかなか考えないものだ。 しかし、ふりかえれば、中学のころからの一番の親友Hも学生時代もっとも心を許せたTも職場に入ってから一番気が合った2歳上のFさんもすでにこの世の人ではない。Hは60歳になったばかり、Tは40代、Fさんにいたってはまだ30代だった。 そんなことを思っているうち、夜が白み出してきた。それからすこし眠った。 ▲
by suiryutei
| 2018-05-18 09:31
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昨夜、都内で開かれた辺野古基地反対の集会では、ことに来年2月4日に投開票が行われる名護市の市長選挙が話題に上った。現職の稲嶺進さんは沖縄の反基地運動を引っ張ってきた一人である。基地推進派は当然対立候補をぶつける。なんとしても大差で勝ってほしいところだ。 集会が終わって、会場の文京区民センターから春日通りをずっと湯島まで歩き、そこから上野公園の中に入って不忍池ぞいをJRの上野駅に向かった。昨夜はだいぶ冷えたが、風はなく、空にはほぼ真ん丸の月が浮かんでいる。春日通りも不忍池の端も、銀杏が見事に黄葉している。12月初めは東京が一年でもっとも美しい時季ではないだろうか。4月初めの桜だって悪くないけれど。 その桜の僅かに残った紅葉も鮮やかだ。 又吉直樹が朝日新聞の土曜版に月に一度みじかい随筆を書いている。昨日(12月2日)掲載されたそれの終わりのほうに、こういうくだりがあった。 ・・季節ごとに変化する風景を眺め、音楽を聴き、文学に触れて、美味しいものを食べる。もしかしたら、生きることはとても楽しいのではないか。 酔流亭もときにそういう心境になることがないではない。 音楽のことでは、最近は毎日一度は『フィエスタ!』というCDを聴く。友人が貸してくれた。ベネズエラの[シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ]の演奏である。指揮をとるのはやはりベネズエラの若きグスターボ・ドゥダメル。 ベネズエラには<エル・システマ>と呼ばれる無償の音楽教育システムがあり、オーケストラも指揮者もそこから生まれた新進気鋭だ。 http://www.elsistemajapan.org/worldwide ![]() http://suyiryutei.exblog.jp/27165350/ いま書いていて思い出したのだが、もう10年近く前に公開されたチェ・ゲバラを描いた映画に、シモン・ボリバルの名前が登場する場面があった。その映画の感想を述べた過去ログから、それについて触れた箇所を引用しておこう。 ボリビアでは、ゲバラは武力闘争について同国共産党の協力を得られなかった。このあたりは微妙なところで、映画の一観客にすぎない我々がどうこう言うのは控えたほうがよいだろうが、ただ共産党の指導者が 「ゲバラは外国人だから民衆はついていかない」 と言うのに対してゲリラ隊員たちが 「なら、ボリビアの国名だって変えなきゃな。シモン・ボリーバルだってベネズエラの人だった」 「ゲバラは南米大陸全体の革命家なんだ。そのことを貴方がみんな(民衆)に説明してくれ」 と反論するところは、この場面について言えばゲリラ隊員のほうが共産党幹部よりもインターナショナリズムの精神をよく体現しているだろう。シモン・ボリーバルは19世紀の植民地解放運動の指導者でボリビアの国名は彼の名に由来している。南米大陸の国境線など、元々が植民地の取り合いで引かれた線であった。 (『「チェ39歳 別れの手紙」』2009年2月13日更新記事から一部引用) http://suyiryutei.exblog.jp/10344525/ ▲
by suiryutei
| 2017-12-03 09:11
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4日に都内で開催された10月革命100周年記念集会においてブレヒトの戯曲『母』の朗読が行なわれ、それには酔流亭も参加したことは前にも述べた。 朗読初体験の酔流亭にとって台詞を読むのに劣らず難事だったのは合唱である。このときの朗読では『カラスのように』『はぎれと上着の歌』『弁証法をたたえる』などの歌が挿入されていた(他に独唱もあったが、もちろんそれは酔流亭とは別の人)。 『弁証法をたたえる』なんて、そもそも弁証法というものが厄介なのに、それを歌にしてしまうなんて、凄いことを考えた人がいたものだ。ブレヒトの詞に曲をつけたのはドイツの音楽家アイスラー。 ![]() まだ学生であった。いや正確には、通っていた大学には前期授業が終わったところで退学届を出していたから「無職」の身。広島への夜行列車(当時はまだそういう列車があった)に乗る日の午前に郵便局の採用試験を受けたばかりだ。 広島市内の、近くを川が流れる公園で集会を開いた。そこで東京や関西に帰る学生とさらに長崎へと向かう学生と分かれる。最後にみんなで『インターナショナル』を歌った。他に『原爆ゆるすまじ』なんかも歌ったはずだが、そのころ左翼的な学生が集まれば、どんな行動のときでも最後は必ず『インターナショナル』になった。 酔流亭も大きな声を張り上げて歌っていて、ふと自分の声のひどく調子が外れていることに気づいたのである。音痴であることは前々から自覚していた。だから普段はあまり大きな声は出さないようにしていたのに、前述したように退学届を出したばかりで学生ではもうなくなったんだという思いと、広島での日程が終わった解放感とで、普段は出さない大きな声を出したものだから調子外れが際立ったのだろう。 以来、歌えなくなってしまった。それから向かった長崎でも、歌うときは口パクにした。 そうして42年間、カラオケなんか絶対に行かないし、集会などでみんなで歌わなければいけないときは口パクすなわち歌うふりで誤魔化してきた。 ところが今年、夏の終わりごろから朗読の稽古が始まった。火曜と土曜の週に二度、10数人の参加者が揃って練習する。その密集した集まりで歌うふりだけしてすませるわけにはいかない。すこしずつ声を出さざるをえなくなった。 朗読の参加者には日ごろから合唱活動をしている人が何人もいる。日比谷野外音楽堂で毎年5月1日に開催される<日比谷メーデー>(全労協主催)では檀上に上がって歌い、音楽堂からデモに出る隊列を歌声で送り出している。 だから稽古のときは「もう一音高く」とか「低く」とか専門的な(?)指示が飛ぶが、酔流亭はそういうのに応えられるレベルではない。すこしでも声が出れば・・・というところだ。そうして皆さん優しいから、どんなに調子が外れていようとそれを咎めず、段々声が出るようになったことを褒めてくださる。 ![]() しかし、歌詞が二番にかかったところで、歌えなくなった。 聞け 我らがおたけび 天地とどろきて と続くところである。 この集会にはOさんが参加していた。学生の頃の活動仲間である。上述した、42年前の広島・長崎原水禁大会でも一緒だった。30歳を過ぎたあたりから何となく疎遠になった。お互い『インターナショナル』を歌うような場からは遠ざかってしまったからである。とはいえ、三年前、亡くなった津田道夫さんの蔵書から『中野重治全集』を「あいつなら読むかもしれない」と酔流亭に贈ってくれたのはOさんである。そのことがあってから、近年また時おり会って飲むようになった。 酔流亭の声がつまってしまったのは、42年間の思いがいささかは去来したからなのだろう。 ▲
by suiryutei
| 2017-11-13 21:51
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昨夜は自宅で夕食を摂った。酔流亭の場合、夕食というのはつまり酒を飲むということですが、つれあいが作ったエビチリソースそのほかで、まだ明るい6時前から飲み始めて、8時過ぎ終了。いったん自室に引き上げてラジオを点けると、FM放送でちょうど武満徹の『死んだ男の残したものは』が流れてきた。この放送では誰が唄っていたのかわからないけれど、いい歌ですね。 https://www.youtube.com/watch?v=sVZJHWbTuEs&list=RDsVZJHWbTuEs#t=31 ベトナム戦争が拡大していった1965年、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のために作られた反戦歌だ。曲自体もいいけれど、そのことが嬉しい。 1965年といえば、NHK朝ドラ『ひよっこ』のドラマ進行は、今朝の放送ではその年の暮れである。「高度成長期では唯一の不況」がそのころ日本経済を襲っていたらしい。ヒロインたちの働く家電会社はそのあおりで倒産してしまう。工場が閉鎖される前夜に、これからは離れ離れになる女子工員たちが寮の食堂に集まって『見上げてごらん夜空の星を』をコーラスする場面があった。 『死んだ男の残したものは』とちょっと曲調が似ていると感じたが、どうでしょう。こちらは作詞永六輔、作曲いずみたく、坂本九が1963年に唄ってヒットした。 ▲
by suiryutei
| 2017-05-31 09:22
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劇団もっきりやの第29回公演を観た。『フールオンザヒルー真実は丘の向こうで作られる』。 阿佐ヶ谷の<ART THEATER かもめ座>にて。 ![]() http://mokkiriya.org/ そのあと友人たちと[田中]という串カツ屋で飲む。 https://kushi-tanaka.com/restaurant/detail/asagaya ▲
by suiryutei
| 2017-04-16 09:10
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午後6時過ぎ、渋谷駅のハチ公像のあるほうに出ると、大変な数の人である。 昨夜のことだ。今日から今月いっぱい、例のハローウィン騒ぎでものすごいことになるのだろう。木曜だった昨日であれだ。 同じ時刻、警視庁前では山城博治さん逮捕拘留に抗議する行動が取り組まれていたので、そちらに参加できず申し訳ないことだが、この夜は旧知のがじゅたんが渋谷のライヴハウスに出演したのである。彼女は普段は沖縄で音楽活動をやっているので、この日を外すわけにはいかない。 ライヴハウスは、こういうところ。 http://gee-ge.net/ 渋谷のライヴハウスといえば若い人しかいないかと思っていたら、もちろん若い人が多いけれど酔流亭と同年配に近いかと思われる男性もちらほらいて、居心地は悪くなかった。それに清潔な店内である。ワンドリンクが付くということなので生ビールを貰った。 出演は女子ばかり7人。がじゅたんは二人目で登場、約25分間の熱唱であった。なお、がじゅたんと呼ぶのは、以前、彼女は<がじゅ。の道>というタイトルのブログをやっていたからである。ガジュマルの樹が大好きで、<がじゅ>に<。>をつなげて<がじゅまる>としたそうだ。 現在のブログはこれ。 http://ameblo.jp/kizimunaya/ 初めてのCDも出た。歌うときの名前は<彩ーayaー>。 ![]() 今もそのCDで彼女の歌声を聴きながら書いている。 三線を習いたくて、彼女が単身、沖縄に向かったのは6年前、2010年の秋だった。今回はライヴもCDも沖縄民謡ではなく自作の歌である。日々、進化し続けているなあ。 ▲
by suiryutei
| 2016-10-28 13:12
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写真の下に貼り付けるのは、仲間内の回覧用に書いた文章である。HOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)の特別企画として、日本音楽協議会の元事務局長のコンサートが先日開催された。その天羽憲治さんは郵便局で働いていた人であったからだろう、その感想を書けと依頼されたのである。ここに転写するにあたっては字句を少し変えたところがある。 ![]() http://www.yomogi.or.jp/~uncle/ 九月二十四日(土曜)のHOWS講座は異色の企画。『オレは歌うのさ』と題して、日本音楽協議会(日音協)の元事務局長・天羽憲治さんのコンサートであった。HOWSホールの普段なら講師が話をするところには一段高い舞台がしつらえられ、日音協の人たちの手によって照明器具や音響装置が持ち込まれた。本格的なステージである。いつもの講座より一時間遅い午後二時、黒いシャツに同色のズボンの天羽さんが登場した。 美原蒼さんのピアノ伴奏で、アンコールを含めると二〇曲ほどが歌われた。歌い出しは『夜が明けたら』『郵便屋ブルース』といった、天羽さんの作詞作曲による郵便労働者の職場実態に題材をとった歌である。合間には、労働運動に対する思いも語られる。一九六七年に調布郵便局に入局し、全逓全国音楽協議会の事務局長・会長を務めた。 うえだひさし、濱口國男ら労働者詩人の詞による歌(『階級の心』『鳥は空を求めている』)を歌うときは「いつも叱咤されているような思いがする」と。うえだは鋳物工、濱口は国鉄労働者であった。濱口國男については私も最近『伝送便』誌10月号に短い記事を書いた。 後半には友人たちが加わっての四部合唱も(片羽登呂平『うたごえよ明日のために』、パブロ・ネルーダ『自由の木』。曲はどちらも林光)。 じつは前夜の二十三日、私はHOWSホールの隣にある談話室で或る会合に出ていたから、翌日の本番に向けて練習する歌声がホールからがんがん聴こえてくる。「もう今夜たっぷり聴いたから、あした聴くまでもないんじゃないの」と私は憎まれ口をきいたのだけれど、これは失言。本番のステージはやはり段違いであった。欲を言えば、労働の、また闘いの現場における音楽活動の意味―講座のタイトルにかければ、だから「オレは歌うのさ」をもっと聞いてみたかった気もする。しかし、あれだけ熱唱した上にもっと話もしろというのは無理な注文だろう。別の機会を期待する。 私事を述べれば、運動の場ではうたごえというものを私はずっと敬遠していた。自分が音痴だということもある。「歌と踊りの民青」といっしょにされたくないという気持ちがあった。この“偏向”がいくらかは正されたのは、七年前、『思想運動』紙の四〇周年記念レセプションで革命歌の数々を久しぶりに聴いたこと、去年、辺野古の座り込みに参加して人々から湧き起こる歌を聴いたことによってである。自分の音痴がそれで治ったわけではないけれど。 ▲
by suiryutei
| 2016-10-12 15:38
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9月ももうじき終わるから、今年3月31日に退職して、はや半年たったことになる。40年と6ヶ月の賃金奴隷生活の後ようやく訪れた解放された(?)日々である。 それまでと変わったことの一つは、やはり家にいる時間が増えたことだ。ことに平日は、集会やらデモ、各種会合は勤め人に合わせて夜に設定されることが多いから、朝から昼はたいてい家で過ごす。都心に出かけていくのは午後からである。 もっとも、3月までだって、世間の勤め人と比べれば酔流亭が昼に家にいる時間は多かった。朝からの出勤もあったけれど中心は夜間労働(泊り勤務)であったからだ。しかし、そういう場合、昼間は寝ているのである。たとえば泊まり勤務が連続する初日なら、朝7時に起きて、すぐ朝食(大体チーズトースト一枚にコーヒー、たまに食後に果物少々)を摂る。NHK朝ドラが終わる頃(8時15分)には食卓を片付け、パソコンの前に移動してメールをチェックし、気が向いたらこのブログを書く(気が乗らなかったら、その日は休載)。朝刊に目を通し、まだ時間があれば本を読む。11時過ぎには昼食である。このとき「睡眠導入剤」のつもり(と勝手に決めて)酒を少し飲む。 酒を飲みながらであるから、この昼食にはゆっくり時間をとる。そうして食後は、午後1時くらいからかな、寝床に入ってしまっていた。 苦労だったのは連れ合いだ。昼前から延々と酒を飲まれるわ、午後は午後で昼寝の邪魔をしないように息をひそめるようにしていたろう。 ![]() さて平日の午後2時から4時まで、NHKFMラジオはなかなかいい音楽を流すのである。昨日(9月28日)の放送なら、ショスタコービッチのピアノ協奏曲をリヒテルの演奏で、チャイコフスキーの何とかをロストロポービッチのチェロ演奏で、といった具合だ。 昨日はこれを聴いてから夕方、家を出て日比谷野音に向かった。「沖縄への弾圧を許さない集会」は雨が混じる中、約2、500人が参加。集会のあと銀座をデモした。レイバーネットに写真が載っているので、下に貼り付けます。 http://www.labornetjp.org/news/2016/0928satomi ところが、現役時代、酔流亭はその音楽番組をほとんど聴くことができなかった。その時間帯、眠れずに目を覚ましているときでも、ではラジオのスイッチを点ければ、いよいよ目が冴えてしまう。万一わずかでも眠りに入れるかもという可能性を絶ってしまうことになる。それはできなかった。 一晩働いて帰ってきた翌日は、これは前夜寝ていないのだから、昼間のその時間は寝ている。またその夜の労働に備えなければならなかったし。 今ありがたいのは、昼間に寝ておく必要が無くなったことだ。音楽番組をやっていない時間帯はCDなりLPレコードを聴く。CDではまっているのは、前にも書いたけれど、武満徹が編んだギター作品(上の写真は武満の横顔です)。 [追記] いま「琉球新報」にアクセスすると、高江では機動隊の暴力によって怪我人がまた出たということである。 http://ryukyushimpo.jp/news/entry-366084.html 【ヘリパッド取材班】東村と国頭村に広がる米軍北部訓練場のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設で28日、機動隊が新たなヘリパッドが造られるH地区の工事現場周辺で、木の伐採を阻止しようとした十数人の市民の体を1人ずつロープで縛って現場から引き離す強制排除を行った。市民らによるとその際、50代男性が左足首をひねり、本島北部の病院に救急車で搬送された。男性は足首を捻挫するなどして全治1週間のけがを負った。(9月29日8時30分更新) ▲
by suiryutei
| 2016-09-29 09:25
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