新人事制度 大阪での報告①~③
最新の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
カテゴリ
記事ランキング
以前の記事
2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 more... 検索
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
[A・Z通信]第31号が届いた。ありがとうございます。 ![]() 今号には 『秩父事件の階級的側面は』(7月16日更新) https://suyiryutei.exblog.jp/28471277/ 『昼下がりのヤモリ』(7月20日更新) https://suyiryutei.exblog.jp/28480888/ の二篇を載せてくださった。かさねてありがとうございます。 二篇目で話題にしたヤモリは、夏の間ほぼ毎日、我が家のガラス窓のところに現われる。小さな虫を捕獲すると口をモグモグさせて咀嚼する。これを我が家では「ヤモちゃんの<もぐもぐタイム>」と呼んでいる。 外からガラス窓に貼り付いているので、動きがよく見えるのである。 なお、この記事の中で3年前に沖縄に行ったときヤモリの鳴き声を聴いたことを書き、辺野古埋め立て承認撤回のことに触れた。それを書いたとき翁長・沖縄県知事はまだ存命であった。今日、沖縄県はいよいよ承認を撤回するとのことである。 ![]() https://ryukyushimpo.jp/news/entry-793414.html ▲
by suiryutei
| 2018-08-31 08:19
| 文学・書評
|
Trackback
|
Comments(0)
今日の朝日新聞朝刊二面は朝鮮と米国の関係が「迷走」していることを報じている。 https://www.asahi.com/articles/DA3S13656539.html 記事によれば、米国は「非核化」を先行して進めることを朝鮮に迫り、朝鮮は「朝鮮戦争の終結宣言が先だ」と主張しているとのことである。 朝鮮の言い分のほうに理がある、と酔流亭は思う。 朝鮮戦争の終結宣言がまだされていないということは、あの戦争はまだ終わっていないのである。「休戦」状態が続いているだけだ。戦争状態にある国同士で、一方が他方に構えを解くよう求めるなら、まず戦争状態を終わらせるほうが先ではないか。軍事的緩和には政治的な緊張緩和が先行せねばならないというのは外交の常識ではなかろうか。 それに、「非核化」というと「北朝鮮の非核化」と報道されるけれど、正しくは「朝鮮半島の非核化」である。このかんの交渉でもそうなっており、「北朝鮮の非核化」としか報じないのは日本のマスメディアだけではないのか。核大国・米国の韓国における強大な存在は不問にして、半島の北半分だけを問題にするのは、どう見たって片手落ちだろう。 そんなふうに考えている酔流亭は9月4日、下の集会に参加しようと思う。講演される浅井基文さんは、朝鮮半島をめぐってまともな発言をしている数少ない人の一人だ。 ![]() 文京区民センター2A会議室で午後6時半から https://blogs.yahoo.co.jp/nkl3doai/15468215.html 浅井さんのブログも貼り付けておきます。 http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/index.html ▲
by suiryutei
| 2018-08-30 10:23
| ニュース・評論
|
Trackback
|
Comments(2)
昨日、労働者文学会から[通信・労働者文学]が送られてきた。 http://rohbun.ciao.jp/ ![]() ![]() 郵便局で働く岸本君が一般職に登用されたのは二〇一五年春のことである。働き出して一七年目、四一歳になっていた。 一般職という雇用区分は、その前年、二〇一四年に作られた。同じ日本郵政グループである郵貯銀行と簡保生命を別にしても、郵便局には約四〇万人が働いている。そのほぼ半数、二〇万人強が非正規雇用である。一般職は正規雇用だ。新規採用もあるが、非正規で働いてきた人が試験を受けて登用されるケースが多い。岸本君もそうだ。毎年五〇〇〇人近くが登用ないし新規採用されてきたから、作られて五年目を迎える現在、全国で二万人を超す一般職がいる。会社はいずれ、約二〇万の正規雇用の半分は一般職にしたいと考えている。定年退職者が出たあとの欠員を一般職で埋めていくなら、少し時間がかかってもそうなるだろう。 いったい、正規だ非正規だといって何が違うかといえば、やっぱり賃金の差が大きい。正社員にある定期昇給が非正規にはないのだから、長く勤続するほど差は年々開いていく。 ところが、同じ正規雇用といっても一般職の定期昇給は上がり幅がぐんと縮められてしまった。従来の三分の一くらいに圧縮された。 一般職が導入されたとき提示された賃金表では、一八歳で基本給一四万五八〇〇円が、昇給のストップする五四歳で二〇万五一〇〇円である。三六年かけて伸び幅は六万円にも届かない。これまでの正規雇用(いまや地域基幹職と呼ばれるようになった)ならその年齢だと昇進しないでも基本給は三五万円くらいにはなっている。昇進して役職につけばもっと高い。一般職には昇進はない。だから一般職は「名ばかり正社員」なんて言われている。 それでも岸本君は一般職の登用試験を受けた。その数年前に郵便事業は大赤字を出したことがある。宅配便(ゆうパック)と日本通運の同部門(ペリカン便)の統合がうまくいかなかった。そのとき、赤字解消のため非正規雇用は大量に雇止めされるといわれ、現に「六五歳で一律雇止め」という線引きで約一万四〇〇〇人が職場を去った。ずっと若い岸本君はまぬがれたけれども、あのときの「雇止めされるかも」という不安は、もう二度と経験したくない。たとえ「名ばかり」であろうと正社員になれば解雇は簡単にはされないはずだ。 岸本君は非正規だったときは一日七時間・週三五時間の契約だった。配達ではなく、局の中で、もっぱら大型郵便物を区分した。アマゾンの書籍やCDの区分もやった。昼間だけの勤務だった。 一般職になってからは一日八時間・週四〇時間のフルタイムになった。月の半分は泊り勤務もやるようになった。一週間、昼間の勤務をやると次の一週間は泊り勤務が続く。次は昼間。そのように交互する。だから時間あたりで計算してみると非正規だったときと賃金単価はほとんど変わらなくても、労働時間が増えたことと夜間割増とで月の手取りはかなり増えた。深夜の二二時から翌朝五時までは五〇%割増になる。 同じときにやはり一般職に登用された石井君なんかは、それまで深夜勤務専門だった。泊り・泊り・明け・泊り・泊り・明け・週休で一週間。それを四週くりかえすと泊り勤務は一六回である。泊まり勤務は一〇時間労働なので週四〇時間だ。一般職になってからは泊り勤務は岸本君と同じで一週おきだから、泊まり勤務が減ったぶん夜間割増になる時間も減ったので月の手取りは二万円くらい少なくなってしまった。 そんな石井君と比べたら、自分はやっぱり一般職に登用されてよかったと岸本君は思うのだ。 ただ、一般職になるときに働く局を変えられた。それまでは都内の郵便局で、両親と住む家から通うのに一時間かからなかった。いま働いている局は埼玉県の和光市にある。三年前に開局したその東京北部局が埼玉県にあるのに東京と冠されているのは、都内から出された郵便や荷物を集中処理するのが主な業務だから。東京の管轄なのだ。岸本君はゆうパック部に配属された。 こうした集中処理局は鉄道の駅から離れたところにある。輸送はトラックで行うので駅よりも高速道の入り口に近い場所が選ばれるのだ。それもあって岸本君は通勤に二時間近くかかるようになってしまった。ゆうパックは近年扱い量が増えているから残業も増えた。毎月四〇時間はやる。そうなると実家から二時間かけての通勤が身体にこたえる。思い切って和光駅の近くにアパートを借りることにした。 独身だから狭くてもいい。六畳の部屋にダイニングキッチンと風呂が付いて四万円である。でも住居手当が二万円出るから自分の持ち出しは二万円ですむ。なお住居手当は最大二万七千円まで出るが、それは五万五千円以上の家賃の場合。一般職になっておいてよかったと岸本君はこのときも思った。非正規だった頃には住居手当が出るなんて思いもよらないことだったのだから。 今年(二〇一八年)の春闘で、郵政の最大労組であるJP労組と会社(日本郵政)は、正規雇用のうち一般職だけから住居手当をなくすことを合意した。このところの労働契約法二〇条裁判で、非正規に住居手当が無いのは「不合理な格差」だという判決も一部に出ている。それで、まがりなりにも正規雇用である一般職から手当をなくしてしまえば、その判決を上級審で覆せるだろうという点で、会社も大労組も一致したのだ。会社はともかく、労組がなぜ? 非正規への手当支給が拡がれば正規にまわる原資が脅かされる。一般職には泣いてもらうというわけだ。 「地域基幹職に登用されれば、手当はまた戻ってくるよ」 同じ課の、地域基幹職である先輩がそう声をかけてきたのは岸本君を励まそうという善意からだったかもしれない。しかし「冗談じゃない」と岸本君は思う。岸本君も、その先輩もJP労組員だ。 「個人に頑張れと言うより、どうして全体を良くするために闘おうとしないんだ」 ▲
by suiryutei
| 2018-08-29 08:34
| 文学・書評
|
Trackback
|
Comments(0)
昨日の午後、床屋にかかった。 我孫子駅近くの理髪店である。散髪してもらっているとき店内のラジオでアナウンサーが「池袋では雨が降り出してきました」と話しているのを聴いた。 午後3時半を過ぎた頃である。しかし、4時ちょっと前に床屋を出ても、わがまち我孫子の上空は青空がひろがっている。暑い。こちらに雨雲が延びてくるような気配はなかった。 帰宅すると夕刊が届いている。この日の紙面には、前川喜平さんが一週か二週おきに寄せる記事が載っていた。 『私 第二章 新しい仲間と 6 解放を叫ぶ母子像の迫力』 https://www.asahi.com/articles/DA3S13653364.html 大阪の、旧住吉解放会館の壁面にある母子像の写真にまず目を引かれた。[解放へのオガリ(叫び)]。沖縄出身の彫刻家、金城実の作品だ。 ![]() 関東に住んでいると関西の部落解放運動関係のニュースに接する機会が滅多にない。しかし酔流亭は若いころ友永さんを近くで見たことがある。たしか大学を中途退学する前だから、19歳のとき。44年前だ。友永さんのほうは当時30歳くらいである。 大賀正行さんのお供をして東京に来られたのである。大賀さんは当時、部落解放同盟中央本部で教宣部長をされていた。友永さんはその大賀さんの片腕みたいな感じだった。昨日の夕刊記事では前川さんは友永さんを「温厚で教養溢れる紳士」と書いている。ごっつい(強そうな)人だなあというのがそのとき酔流亭が受けた印象であった。 さて昨日のその夕刊記事によれば、この10年、財政難を理由とする大阪市の方針で同和地区の公共施設は順次廃止されているという。母子像レリーフのある旧住吉解放会館も近く解体されるらしい。そこで、解放同盟住吉支部(友永さんのご子息がいま支部長をされている)では母子像を沖縄に移設するためのカンパを募っているとのことだ。前川さんは記事を「ぜひ残すべき優れた芸術作品だと思う」と結ぶ。金城実の作品なら、そうであるにちがいない。 それにしても、例の加計学園問題で文部省をやめてからの前川喜平さんの活動は立派だと思う。1955年1月生まれだから、酔流亭と全くの同世代だ。氏の「私 第二章」(新聞連載のタイトル)が充実したものであることをねがう。 昨日は夜になってから、わがまち我孫子も雨になった。カミナリも盛大に鳴る。夕立というには遅い時間。降っている時間も短かった。しかし、その雨のおかげか、今朝はいくらか過ごしやすい。 ▲
by suiryutei
| 2018-08-28 09:32
| ニュース・評論
|
Trackback
|
Comments(0)
今日のタイトル、<めいそうじょうき>とは、いまグーグルで語釈すると 「明るい窓と、清らかな机。転じて、明るく清らかな書斎」 ということである。 なお<語釈>という言葉もやはりグーグルによると 「語句の意味の解釈」 ということです。どちらも、日常あまり使われないが、漢字を眺めているとそんな意味だろうなとなんとなくわかる。 書斎と呼べるほどのものではないけれど、昨日、我がそれらしきものの掃除を行なった。久しぶりである。酷暑のあいだは部屋を掃除しようという気も起きなかった。昨日だってかなり暑かった。しかし、うかうかしていては8月が終わってしまう。 机の上には新聞記事の切り抜きが溜まっていた。それを片付ける。机の右手には「働き方」関連の記事、左手に辺野古関連の記事。 なにか原稿を書くときは、テーマと関連する新聞記事の切り抜きを読むことから始める。くりかえし読んで事実関係をまず頭に入れる。すると、その出来事の連鎖の背後にあるものがおぼろげに見えてくるような気がする。それを書く。今年の前半は、「働き方改革」法案をめぐる動きを横目に、郵政の労働現場で起きていることを追ってきたつもりである。それが『伝送便』誌にほぼ毎号書いてきた記事になった。 しかし長文なので『伝送便』誌には掲載していない稿がある。6月6日に都内で開催した郵政交流集会での発言の下書きとして書いた文章だ。このブログでは6月7日と8日に分けて載せているので、改めて下に貼り付けておきます。 https://suyiryutei.exblog.jp/28354064/ https://suyiryutei.exblog.jp/28354092/ 辺野古についてはいちばん最近では新聞『思想運動』8月1・15日合併号に書いた。翁長・沖縄県知事の埋め立て承認撤回を支持し沖縄の闘いに呼応しようと呼びかけたものである。 https://suyiryutei.exblog.jp/28546281/ 『思想運動』紙は普段は月2回発行で月の初めとなかばに出る。しかし8月は合併号だから完成したのは8日だった。その日の夕方、『思想運動』紙の発送作業(印刷所から届いた、刷り上がったばかりの新聞を折りたたみ、帯封したりするのである)を手伝っているとき翁長知事が意識混濁状態に陥ったというニュースを聴き、帰宅してすぐ、亡くなったことをTVのニュースで知った。 ・・・・そんなことを思い出しながら、切り抜きを片付けていく。切り抜きではないが、翁長さんが先月27日に埋め立て承認撤回を表明したときの[琉球新報]と[沖縄タイムス]の号外もあった。先月30日に総理官邸前抗議行動に参加したとき貰ったものだ。どちらにも、当日の記者会見での翁長さんの写真が載っている。病で衰弱はしていても表情には気力が漲っている。 ![]() こんな時間に、もう花火大会ではなかろうし・・・と眺めていると、雷である。遠くなので音は聴こえてこない。酔流亭が暮らす千葉県我孫子市は利根川の中流域にあって、利根川の流れが我孫子市だけでなく千葉県を茨城県と分かつ県境になっている。対岸は茨城県取手市である。 雷は、その取手市上空で光っているようであった。 わがまち我孫子の上空には真ん丸のお月さまが輝いている。この月が欠け、また満ちたら、はや中秋か。 ▲
by suiryutei
| 2018-08-27 09:25
| 身辺雑記・自然
|
Trackback
|
Comments(0)
8月最後の土曜だった昨日はHOWS(本郷文化フォーラムワーカーズスクール)の講座に参加した。 http://www.hows.jpn.org/koza/2018zenkiseries.html#th2 講座のテーマは 『日本ナショナリズムの歴史』第Ⅱ巻を読む(その2) ── 第Ⅵ章「福沢諭吉にみるナショナリズム形成の軌跡」まで であった。すなわち日本のナショナリズムという視点から福沢諭吉という存在を考えてみよう、ということである。なお、この連続講座のテキスト『日本ナショナリズムの歴史』(梅田正巳著 全4巻 高文研)は、優れたジャーナリズム活動や作品に贈られるJCJ賞を今年受賞している。 http://jcj-daily.seesaa.net/article/460596443.html まだ20代の労働者であるIさんが1時間ほどの報告を行ない、そのあと約2時間、討論を行なった。酔流亭も何度か発言させてもらったが、なかなか充実した討論だったと自賛しておこう。 ただ、言い足らなかったこともあるので、7年前、やはりHOWS講座で似たテーマを取り上げたときの過去ログを下に再掲しておきたい。そのときの講座は、福沢諭吉に対する、また丸山真男による諭吉解釈に対する批判者として知られる安川寿之輔さん(名古屋大学名誉教授)が講師であった。 https://suyiryutei.exblog.jp/16072639/ 福沢諭吉・丸山真男・服部之総 HOWS夏季セミナーでの安川寿之輔さんの講義は充実したものだった。その報告をここで始めたらあまりに膨大になってしまう。「『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク」のサイトから、安川教授の論文をリンクします。この論文の要点をかいつまんで話してくれたと考えてください。 http://kgcoms.cocolog-nifty.com/jp/2010/07/post-c567.html 講義のあとの質疑応答で、酔流亭も質問をさせてもらった。 配布されたレジメで服部之総にふれている部分についてである。こうある。 「・・信じ難い事実であるが、戦後日本を代表する有名な学者たちー服部之総、遠山茂樹、(一時期の)家永三郎、岩井忠熊・・(中略)・・らが、『すすめ』第三篇の目次の字面の意味に惑わされ、『絶対主義的国家意識に対抗する、近代的国民意識』、『民権の確立の上にのみ国権の確立が可能となる所以』、『国民主義と国家主義の結節』の定式化等と、丸山の決定的な誤読に追従したことです」 だが酔流亭の手元にある『服部之総著作集』(理論社)の第六巻に収められた論文『福沢諭吉』は、他ならぬ丸山真男の福沢解釈批判なのだ。1953年に服部が書いていたことは今日の安川教授の主張に先駆けたものである。他の諸家は知らず、服部を丸山に追従したと断じるのは不当ではあるまいか。 これが酔流亭の質問したことであった。 これに対し安川教授は、服部之総が福沢諭吉を、また丸山真男の諭吉解釈を鋭く批判していたことを認め、したがって酔流亭の疑問を或る程度もっともであると容れてくれた上で、しかしその服部にして次のような記述があることを指摘された。「個人的自由と国民的独立、国民的独立と国際的平等は全く同じ原理で貫かれ、見事なバランスを保っている。それは福沢のナショナリズム、いな日本の近代ナショナリズムにとって美しくも薄命な古典的均衡の時代であった」と丸山が書いたのを「丸山氏のこの分析をわたしは全面的に支持する」(服部)と。 現実には、丸山が美しい言葉で述べたような「美しくも薄命な古典的均衡の時代」などは存在しなかった。福沢本人が「自国独立」のためにはと「一身独立」は後回しにしているのである。服部之総としては若い丸山真男を批判する前段にちょっと持ち上げるといった筆の流れなのだけれど、ここは筆がすべったというほかない。 ただ、安川教授も応答してくださったように、服部之総のあの論文の全体は優れたものである。福沢諭吉を絶対主義のイデオローグと規定しているが、絶対主義を支えるイデオロギーには二通りある。ひとつは合理主義だ。封建割拠を打破し強力な中央集権国家を創り出すには合理精神が必要だからだ。明治の日本でこの面を代表したのが福沢。封建制の不合理を叩く上では彼は抜群の破壊力を発揮した。そこで、なにか民主主義的思想家みたいに錯覚してしまうのである。 なお絶対主義という言葉に対しても様々な異論がある。たとえば司馬遼太郎は明治国家に対してのみならず、そもそも日本の歴史上にこの概念の存在を認めていないようだ。そして絶対主義など存在しないとすれば、福沢の上記した封建制に対する破壊力だけが抽出されることになるのである。 明治維新によって成立し1945年の敗戦まで続いた政体はやはり絶対主義と呼ぶべきだと酔流亭は考える。ただし、この絶対主義はチューダーやブルボンと同じものではない。ずっと遅れて、すなわちイギリスやフランスでは市民革命の時代を過ぎ帝国主義の時代に入ったころ形成されただけに、日本のそれは近代的帝国主義との混淆となっている。絶対主義から帝国主義への理念型としては市民革命によって絶対主義を破棄した国民国家がやがて帝国主義に成長していくのだが、我が国の場合は市民革命に成功せず頭に絶対君主を戴いたまま胎内に独占資本主義=近代帝国主義が成長していくのである。 絶対主義を支えるもうひとつは「神がかり」。神聖不可侵の絶対君主の下に国をまとめようというのだから、これはそうなる。ことに大日本帝国憲法下の戦前の日本は「現人神」を戴いていた。事の成り行きとして福沢的合理主義よりも神がかり精神のほうが次第にせり出してくる。天皇制ファシズムの登場である。この日本型ファシズムへの抵抗の拠りどころを若き日の丸山真男は福沢の合理主義にもとめ、“知の巨人”と称されるようになった戦後もこれにこだわり続けた。しかし、福沢の思想もまた絶対主義・帝国主義のイデオロギーではなかったか。アジアへの侵略を鼓吹した男をあれほど持ち上げてはアジアとの和解も連帯もできない。ここに丸山の躓きの石があった。 (2011年8月6日更新記事) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、上に貼り付けた7年前の記述について、今日の酔流亭はひとつだけ修正したい箇所がある。 現実には、丸山が美しい言葉で述べたような「美しくも薄命な古典的均衡の時代」などは存在しなかった。福沢本人が「自国独立」のためにはと「一身独立」は後回しにしているのである。服部之総としては若い丸山真男を批判する前段にちょっと持ち上げるといった筆の流れなのだけれど、ここは筆がすべったというほかない。 と書いたところの後段、 <服部之総としては若い丸山真男を批判する前段にちょっと持ち上げるといった筆の流れなのだけれど、ここは筆がすべったというほかない。> という部分だ。というのは、<ここは筆がすべったというほかない>と7年前の酔流亭が考えた 「丸山氏のこの分析をわたしは全面的に支持する」 という服部の記述は、福沢の文章に対する丸山真男の分析について述べたものだが、服部はすぐそのあと 「その人の言にしたがってただちにその人を規定するということは歴史家の厳に戒めなければならぬところ」と釘を刺し、福沢が他のところでもいかに大嘘をついているかをいくつも例を挙げて論じているのである。 つまり服部は、福沢に美しい言があったとしても、ただちにそれを鵜呑みにするなと若き後進(当時の丸山真男)を諭していたのだ。 福沢諭吉批判における安川寿之輔教授の健闘には敬意を持つけれども、こと服部之総の読み取りについてはやや浅いのではなかろうか。いつかまた講義を聴く機会があれば質問してみたいところだ。 もっとも服部之総の文体は屈曲に富むので真意が読み取りにくい場合がある。7年前の酔流亭も迂闊であった。 ▲
by suiryutei
| 2018-08-26 09:23
| ニュース・評論
|
Trackback
|
Comments(0)
今日の朝日新聞朝刊二面の記事である。昨日の夕刊一面にも同じ内容の記事が載っている。 ![]() 記事のリードには、こういう記述もある。 「・・・昭和天皇が晩年まで戦争責任をめぐって苦悩していた様子が、改めて浮かび上がった」 見出しの「戦争責任いわれる」とか「苦悩」という大文字に続けて、リードの上記箇所を読めば、昭和天皇が何かあの戦争について責任を痛感していたかのように読めてしまう。記事執筆者当人はどうかわからないけれど、朝日新聞の編集部としては読者にそう印象づけたかったのではないだろうか。 しかし、記事全体を丁寧に読んでいくなら、そうではないことが明らかになる。昭和天皇は戦争責任を感じて苦悩していたのではなく、戦争責任を人から「いわれる」ことを嫌がっていたというだけなのだ。 そうして、この記事の出どころである小林茂・元侍従長の日記の要旨によれば、それを愚痴る天皇に対して、この侍従長は 「戦争責任は一部の者がいうだけ・・・・もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない。・・・」 と慰めたとのことである(1987年4月7日の日記)。 まったく、天皇も天皇なら侍従も侍従だ。 こんな報道があったせいだろう、このブログで昭和天皇の戦争責任について書いた10年前の過去ログにすこしアクセスがあった。酔流亭の思うところはこの文章に尽くされているので、再掲しておきたい。2008年8月5日の更新記事である。 https://suyiryutei.exblog.jp/9218417/ 昭和天皇の戦争責任とは ここ数日、昭和天皇の戦争責任ということが頭にひっかかっている。 というのは、酔流亭の職場の労働組合が発行している日刊紙に、原武史さんの書いた『昭和天皇』(岩波新書)についての書評めいた投稿記事が載っていて、そこにこんな記述があるからだ。 「・・・今までの進歩派(左派)のように『大日本帝国憲法上、主権は天皇が握っており、昭和15年戦争も天皇の詔勅があって戦ったのだから、天皇には戦争責任がある』『天皇制は廃止すべきだ』と言い切れれば簡単なのですが、あれこれ資料を読んでいると、どうも『その通りだ』とは言い切れない部分も出てきます」 「・・・普段の原氏の著述には、あまりイデオロギー的決めつけがないのですが、この書では、そこかしこに昭和天皇に戦争責任があるような書き方が目に付き『原氏でもこう書かざるを得ない岩波書店の力、おそるべし』と邪推が過ぎて引いてしまいました」 酔流亭は、その原武史氏の著作は読んでいないから、『昭和天皇』という本そのものについて語る資格はない。しかし、上に引用した書評執筆者の記述に限っては、ちょっと首をかしげざるをえない。 第一。少数の左翼を別とすれば、「天皇に戦争責任がある」「天皇制は廃止すべき」と明言してきた人たちは、いわゆる進歩派も含めて決して多くはない。昭和天皇が死去する直前、その戦争責任に言及した長崎市長(当時)に浴びせられた轟々たる非難およびピストルの実弾を思い起こされよ。「言い切れれば簡単」どころか、言い切れずにきたことにこそ問題があると思う。我が国の“進歩派”が「反・天皇」をキラクに吹聴してきたかのように書評執筆者が思い込んでいるのは、根本的な思い違いではないだろうか。 第二。書評執筆者もまた天皇に戦争責任は無いと考えているようである。憲法上、天皇が絶対的主権者でありながら、なお天皇に責任は無いとするのは、タテマエ上では主権は天皇にあったにせよ、実態としては天皇の意思と関わりなく事態は進んだと考えるからであろう。しかし、「あれこれ資料」が明らかにしているのは、昭和天皇は戦後一部で言われたような「平和主義者」では決してなく、なるほど戦争の先行きに「不安」は感じていたにせよ反戦的意思などは持っていなかったということだ。開戦当初の「連戦連勝」の報に彼は歓喜を隠していない。戦争を始めた国の君主として当然といえば当然だが。そして君主の更なる歓心を得ようと“臣民”は一層奮起した。天皇の意思に関わりなく事態が進んだのではなく、天皇自身の意思が事態を進めてもいるのである。 第三。こう言ったところで、「天皇一人の意思であの戦争は起こされた」とか「全ての責任は天皇が負うべきだ」と考えている者は、左翼にだって誰もいない。だが、天皇制というシステムのトップにいた者としての応分の責任はやはり引き受けねばならないのではないか。人はよく軍部の独走を言い、「統帥権」の魔術を言う。だが旧日本軍部が「統帥権」という“魔法の杖”をふるえたのは、それが天皇の軍隊だったからではないか。 敗色が濃厚になってからも、当時の日本国の指導者たちは降伏への腰をなかなか上げようとしなかった。国体の護持すなわち天皇制の存続にこだわったからである。「講和するにしても、どこかの戦闘で一度勝ってから」というのが、天皇を含めて指導者たちの思惑であった。彼らが我欲にとらわれずもうすこし賢明であったら沖縄戦の悲惨も広島・長崎への原爆投下も避けられたのだ。ところが、戦後になってからの昭和天皇の言動からは、このことについての反省もあまり窺われないようである。 そして我ら日本国民もまた自分たちの戦争責任と誠実に向き合ってきたとはいえない。天皇の責任を問わないことで自分自身の責任からも目をそらしてきたのである。根本はここにある。書評執筆者の再考を請う。 ※昭和天皇の戦争責任を論じた好著『昭和天皇は戦争を選んだ!』(増田都子著 社会批評社)についての書評記事(『思想運動」2016年2月15日付掲載)も貼り付けておきます。 https://suyiryutei.exblog.jp/25375385/ 昭和天皇にこんな歌がある。 思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありきを これを、たとえば山口瞳はこう解釈した。 「・・『たづねて果さむつとめありきを』のつとめは責任ということである」(山口『還暦老人 憂愁日記』)。 小説家は勘違いしてしまったのではないか。昭和天皇が自分の戦争責任を自覚していたかのように。現実の昭和天皇には戦争についての反省はいっさい無かった。公文書あるいは側近や親族のメモに残された彼の言動がそれを証明する。本書が挙げるそれら一級史料は、昭和天皇にとって動きのとれない決め手である。ではあの歌は? 四十七都道府県のうち沖縄だけには足を踏み入れられなかったのを残念だと言ったに過ぎぬ。 しかし山口がしたような勘違いはこんにち広く流布しているだろう。まず戦後すぐ、占領軍マッカーサー司令部が人民革命の防波堤とすべく天皇を利用するため、天皇から戦争責任を解除して一切を東条英機ら臣下におしつけた。そうして戦後七〇年間、天皇=平和主義者という虚偽宣伝が繰り返されてきた。これに抗して昭和天皇の真姿を明らかにするのは命の危険を伴った。ついに今日「国民とともに歩んだ昭和天皇」なるウソ八百のコラムを載せた中学生歴史教科書が登場するにいたる。育鳳社版のそれである。 だが現実の昭和天皇は対中でも対米でも開戦に積極的だったし、敗色が濃くなって和平をさぐる動きが出ればそれを拒んだ。そのくせ戦後は戦争責任を頬被りして臣下に押し付け(マッカーサーとの見事な協働!)、自らの保身のため沖縄をアメリカに差し出すことをマッカーサーに持ちかけさえした。かなりのところ絶対君主としてふるまった戦前戦中を立憲君主だから政治に関与しなかったとごまかす一方で、戦後も新憲法に規定された象徴としての範を超えて政治に口出していたのである。 本書の著者は中学の社会科教師だったが、育鳳社版の前身たる扶桑社版歴史教科書の歴史偽造を教室で暴いて石原都政下の都教委によって二〇〇六年、不当にも分限免職処分を受けた。天皇崇拝によって子どもたちの目まで曇らさせないために、なお意気軒昂に勇気ある闘いを続けている。 ▲
by suiryutei
| 2018-08-24 09:10
| ニュース・評論
|
Trackback
|
Comments(0)
昨日の夕方、近くにある図書館分室に高村薫『新リア王』の上下を返しに行った。朝は蝉の鳴き音がぱったり止んでしまったと昨日のブログに書いたが、夕方のその時間、ひと頃よりずっと弱々しくなっていたけれど、蝉が鳴くのが聴こえた。夏のあいだに 『晴子情歌』(2002年) 『新リア王』(05年) 『太陽を曳く馬』(09年) の三部作(つまり、いずれも高村薫の作品)を読むことを自らの課題とした。夏が終わる前にそれをどうにか果たせたことになる。 オウム信者たちに死刑が執行された後、それについて高村薫さんが朝日新聞に寄稿した文章は心に残るものであったので、そのことを7月10日のブログに書きとめておいた。すると関西にお住まいの吉田智弥さんがメールをくださって、上記三部作のことを教えてくださったのである。酔流亭はそれまで、高村薫の作品を読んだことがなかった。 https://suyiryutei.exblog.jp/28437788/ 『晴子情歌』→『新リア王』→『太陽を曳く馬』という順に発表されているので、その順序にしたがって読み進もうとしたが、『晴子情歌』をまず読みおえて図書館に返しに行ったとき『新リア王』が見当たらない。『太陽を曳く馬』はあった。そこで手順が少し狂って『新リア王』を読むのが一番最後になってしまった(『太陽を曳く馬』を返しに行ったときは『新リア王』が置いてあった)。 作品について内容を紹介しているとべらぼうに長くなってしまうので省略する。興味のある方はインターネットであたってください。書評や作品についての著者インタビュー記事等たくさん出てくる。 三作それぞれに読みごたえがある。ことに『太陽を曳く馬』はオウムの問題に取り組んでいる。それだけに教義のことなんかが出てきて難解でもある。 酔流亭がいちばん惹かれたのは一番先に出た『晴子情歌』だ。この小説は、晴子という女性が息子の福澤彰之に宛てた手紙によってページの多くが占められている。この手紙の文章がいいのだ。理知的でありながら、しかもなんとも肉感的なのである。たとえば彼女が娘だったころ心を惹かれたことがある谷川巌という男について触れるときの文章の生気! すなわち酔流亭は読み進むうち晴子さんという女性にほとんど惚れてしまった。 ![]() ▲
by suiryutei
| 2018-08-23 09:38
| 文学・書評
|
Trackback
|
Comments(0)
神保町の岩波ホールの前で待ち合わせた。昨日の午後3時。 郵便局で働いていた頃の友人たちと<暑気払い>を企画したのである。全部で5人。酔流亭以外は、まだ働いている。 交差点を渡って、ビアホール[ランチョン]に向かった。むかし吉田健一が贔屓にしていたという老舗だ。陽射しの強い午後。すなわち絶好のビール日和ではある。 食事どきというよりおやつタイムであるから、料理は少な目にして生ビールを愉しむ。そのビールが美味い。注ぎ方が上手なのだろう。 http://www.luncheon.jp/ 甲子園では高校野球の決勝戦が回をかさねている時間である。野球好きのTさん(まえ登場した秋田が郷里のTさんとは別の方)がイヤホンの付いた携帯ラジオを持っていたので、飲みながら途中経過を時々きいた。大阪桐蔭がリードをひろげている。18日のブログで金足農業に触れたのがむしろキッカケになって、以来この秋田県代表を贔屓してきたのだが、地元出身の選手だけで決勝まで来たというのがすごいことだ。 https://suyiryutei.exblog.jp/28592777/ 大阪桐蔭の五番打者でショート(時々ピッチャーもやる)の根尾君が岐阜県飛騨市の出身だというのをTさんに言われて思い出した。前、飛騨市古川町の宿屋[蕪水亭]の女将さんからその話を聞いていたのだ。ご両親がお医者で、彼は運動だけでなく勉強もできる。スキーも上手だ。彼が大阪桐蔭のレギュラーになってから、桐蔭の試合のときは飛騨ではパブリックビューイング(スポーツ競技やコンサート等のイベントにおいて、スタジアムや街頭で大型の映像装置を利用して観戦・観覧をする)が行なわれるという。根尾君は決勝戦でも本塁打を打った。 今朝の朝日新聞一面には、根尾君と金足農業のエース吉田君が抱き合ってお互いの健闘を称えている写真が載っている。 なお、Tさんと、この日も来ていたKさんと、そして酔流亭とは、ときどき飛騨に遊びに行く仲間で、じつはこの<暑気払い>、このつぎはいつ飛騨に行こうかという相談も兼ねていた。 もう43年前のことである。広島と長崎の原水禁大会に参加して、9日の夕方、東京に戻るための列車の発車を長崎駅で待っていた。駅構内に置かれたTVでは甲子園の実況中継をやっている。 ああ、もう始まるのか、と思い、夏の終わりが近いのをなんとなく感じた。甲子園というと、酔流亭が真っ先に思い出すのはいつもこのときの情景だ。 今朝、快晴であり気温もすでに30℃を超えているのに、蝉の鳴き音はさっぱり聴こえない。蝉にとっては夏はもう終わったのだろうか。 ▲
by suiryutei
| 2018-08-22 09:54
| 身辺雑記・自然
|
Trackback
|
Comments(0)
16日に、辺野古の海への土砂投入をゆるさない行動のひとつとして、防衛省前座り込みに参加した。 https://suyiryutei.exblog.jp/28570769/ そのとき年配の女性から、こんな札を分けてもらったので、バッグに着けている。 ![]() ![]() http://jcj-daily.seesaa.net/article/448041015.html ところで、この札を着けはじめた翌日の17日、この日も行なわれた防衛省前座り込みには参加できずに、別の用事で都心に向かった。上り電車の車両の中で、向かいの座席に座っていた若い男性が被っている野球帽に日の丸のシールが貼られている。黄色いTシャツの胸には横文字で「anti social social club 」とある。 「反・社会」? ちょっとギクリとした。酔流亭が反ヘイトの札をバッグに着けているのと同じように、あの若者も自分の意志をああやって表明しているのだろうか。 しかし、いま検索してみると、anti social social club というのも、通販の商標みたいなもの? http://maison-okada.tokyo/2017/06/21/assc/ 横文字ブランドに弱いオジサンにはわからないぞ。 ▲
by suiryutei
| 2018-08-21 09:21
| 身辺雑記・自然
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||