新人事制度 大阪での報告①~③
記事ランキング
最新の記事
タグ
労働(124)
最新のコメント
カテゴリ
最新のトラックバック
以前の記事
2025年 04月 2025年 03月 2025年 02月 2025年 01月 2024年 12月 2024年 11月 2024年 10月 2024年 09月 2024年 08月 2024年 07月 more... ブログジャンル
画像一覧
検索
|
酔流亭の机の引き出しのひとつに、新聞記事の切り抜きを放り込んでおくことにしている。これが、去年暮れにもう一杯になってしまって、今年になって切り抜いたものは机の上の左のほうに溜めたままだ。 それを整理しようと思い立った。一番古い記事は1990年のものだ。東西ドイツが統一されたときのワイツゼッカー大統領(当時)の演説の切り抜きなんかがある。驚くのは、あのころの文字の小さかったこと。よくこんな細かい字を読んでいたなあ、と思う。 新聞はずっと『朝日』なので、大岡信さんの連載『折々のうた』から、この牧水の歌を切抜いたのは、何年前の夏の終わりだったかしら。 いつしかに夏はすぎたりただひとり野中の線路われの横ぎる 故・山口瞳の国立市にある家が集中豪雨で水害に遭ったときのこと。 日頃つきあいのある出版社や雑誌社の社員が復興作業の手伝いに来る。ところが、出版社の編集部員ほどこういうとき役に立たない人間はいないらしい。この職業の人にとっては、なにしろ小説家の家の書庫というのは“宝の山”だ。作家仲間から贈られた本だの過去の執筆で利用した資料だのがゴマンとある。それを読み出すと、もう止まらなくなるらしい。片付けを忘れて読みふけってしまう。そのことを山口瞳は苦情としてでなく、面白がってエッセイに書いていた。 酔流亭の机にある切り抜きの記事なんか別に珍しいようなものではないけれど、興味を引かれて取って置いたものであるから、いま手にしても、ついひきこまれて読んでしまう。たとえば12年前、1993年3月9日の『論壇』は「国連中心主義の死角」と題する弁護士・後藤昌次郎さんの寄稿だ。 「・・・はっきり言って、これらの国(国連の常任理事国のこと)はマッチポンプなのだ。ポンプの部分だけ見て人道的というのは、事の本質を見失ったものである」。 「いま日本政府は、常任理事国入りを目指しているというが、しょせん常任理事国に北の大国がふえるだけの話だ。そのような高慢で狭い了見は捨て、戦前、石橋湛山が大日本帝国に対して小日本主義を唱えて軍部と戦争に抗したように、小国の立場に立ち、小国とともに歩まなければならない」。 12年の時を超えて、現在でもそのまま通用する議論である。後藤さんがマッチポンプと言ったのは、五大国が全て武器輸出国、「死の商人」であることを指しているのだが、アメリカなど、そのマッチポンプぶりはいよいよひどい。と同時に、イラクでの立ち往生でも明らかなごとく、大国の思い通りにはもう動かないのが今日の世界でもある。石橋湛山の小日本主義が国際社会における規範として見直される時代が来ているのかもしれない。 ・・・こんなことを考えていると切り抜きの整理は一向にはかどらない。まあ、年内いっぱいかけて・・・。 #
by suiryutei
| 2005-10-10 13:18
| 身辺雑記・自然
|
Comments(2)
昨日の朝、TVの旅番組で気仙沼の戻りカツオが紹介されていた。 春から初夏、黒潮にのって日本列島に近づくカツオの群れは、夏の終わりには三陸沖から千島列島あたりまで達し、そこからUターンする。春先にはまだ若くてほっそりしていたカツオが、その頃には身に脂をたっぷり付けている。昨日のTVでは、気仙沼の魚問屋の若主人がそれを「オーバーを着て帰ってくる」と表現していたが、浅草の寿司屋[弁天山美家古寿司]の先代親方は「カツオが半纏を着て反転してくる」と駄洒落ていたものだ。 で、昨夜の我が家の夕餉は、その戻りカツオの刺身であった。それと枝豆。 10月ともなると、枝豆も、そろそろお終いである。それで、このところは、これで今年の枝豆も食べ収めたなと思いながら、でもスーパーに置いてあるのを見つけると「お、まだあったか」と買ってしまう。まだ充分おいしい。値段は夏の頃より安いようだ。初夏から秋まで、ほぼ半年にわたって、この豆にはお世話になったなあ。 5月の連休あたり、初カツオとともに食べ出した枝豆が、戻りカツオの季節に、とうとう終わろうとしている。ああ、秋が深まっていくな、と思う。 連休の中日の今日は、全国的には悪くない天気のようだったが、関東は雨。気温も昨日と比べるとずっと低い。今夜の我が家は豆乳鍋であった。鍋が美味い季節が、もうそこまで来ている。 #
by suiryutei
| 2005-10-09 21:51
| 酒・蕎麦・食関係
|
Comments(0)
学生時代の友人が熊本から上京してきた。新聞記者なので、通信社関係の会議が東京であったらしい。それで、昨夜、当時からの仲間が久しぶりに顔を合わせた。 高田馬場の居酒屋に集まる。この店は我々の学生時代から続いているが、店主は代替わりしたし、店内も改装された。酔流亭が学生だったのは、もう30年も前のことだから、当たり前である。店の奥に席をとると、窓の下を神田川が流れていることだけは変わらない。お運びの女の子は中国から来ているようだけれど(留学生のバイトかな)、この娘さんはとても可愛らしかった。 われらの世代は、例の全共闘世代より数年あとになる。学園闘争はなばなしかった頃は中学や高校生だった。大学に入ったときは「政治の季節」は急速に去っていこうとしていた。それでもまだ余燼はくすぶっていて、やれ自治会再建だ学費値上げ反対ストだとやったものだ。だから、この世代、顔が合えば世のこと政治のこと、あれこれ語り始めて止まらない。酔流亭はこの日は泊り明けで、昼にすこし寝ただけだから、一人はやめに切りあげて帰ってきた。 熊本の友人が土産に「アベックラーメン」というのをくれる。熊本で売られている即席ラーメンである。昔から変わらない。この名は、ひとつの袋に二人前入っているところから付けられたのかしら。20何年か前、彼のところに遊びに行ったときも、土産に持たせてくれた記憶がある。 早速、今日のお昼に食べた。とんこつスープで美味しい。以前と変わらぬ味だった。 #
by suiryutei
| 2005-10-08 12:03
| ニュース・評論
|
Comments(0)
いやはや、聞きしに勝る性格の悪さである。 今日の国会中継に、例の女刺客ー片山さつき議員と佐藤ゆかり議員が登場した。酔流亭は今朝は泊り勤務明けだったので、帰宅して朝食を摂っているときに丁度この場面になった。もっとも先に登壇した片山議員の質疑だけ視て、佐藤議員に替わったときはもう寝てしまったけれど。 だから、性格が悪いというのは、片山さつき議員に対してだけの感想だ。 やたら攻撃的なのである。民主党が提出した郵政民営化法案の問題点を追及することが彼女の役目だったようだが、民主党議員の応答を聞きながら議員席でせせら笑いを浮かべたり、あるいはことさら大げさに笑うポーズをとってみせる。議場および中継を視ている国民に向かって、自分の“優位”をアピールしたいのだろうが、反論はそういうこれみよがしの態度ではなく、自分の発言の中でやったらよい。 民主党の民営化法案は、たしかに“泥縄”である。総選挙の大敗で尻に火がついたので、大慌てで出してきたものだ。だから、その不備を衝くのはいくらでもできるし、おおいに論争すればよい。だが、どういう議論をするにしても、忘れてならないことがある。郵政民営化はまさにそうだけれど、改革は国民に強い痛みを強いるものだということである。国民に痛みを強いるけれども、現在おかれている我が国の危機的状況を乗り切るには、それを我慢してもらうしかない、というのが、小泉総理を始めとする政府与党の国民に対する訴えだったはずだ。 そのことを、この新人議員はどれだけ自覚しているのだろう。 #
by suiryutei
| 2005-10-07 15:23
| ニュース・評論
|
Comments(14)
今日も泊り勤務なので、午前中は時間がある。そこでHPの更新作業をやった。『伝送便』誌今月号に載った文章を「手賀沼の畔より」のコーナーに取り込む。8月に刊行された色川大吉さんの新著の感想というか紹介。 よろしかったらHP『酔流亭日乗・酒と蕎麦の日々』を覗いてみてください。HPの表紙の写真も1日に更新してあります。今月は神田[まつや]の店先を。先月30日に行ったとき写したものです。 それから色川大吉さんの講演会が今月15日(土)午後1時半より、東京経済大学(国分寺市)で行われます。「東京経済大学の100年」刊行記念講演会とのことで、演目は「『ニセ学生』で賑わったころの東経大ー民衆史研究の楽しみ」。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 本の紹介 『廃墟に立つ 昭和自分史1945-49』色川大吉 自由民権運動の研究で知られる歴史家・色川大吉氏は、また「自分史」という言葉を造語した人である。それは1975年、著者50歳の夏に上梓された『ある昭和史 自分史の試み』においてであった。いらい、有名無名の人々による多くの「自分史」が書き紡がれていくことになるが、ところが著者自身は戦後の自分の歩みについてのまとまった著述は残していないのである。『ある昭和史』の中で自己を語った一章「十五年戦争を生きる」は1945年8月15日で終わっている。したがって、この新著は30年ぶりに書かれた続編ということになるのか。海軍の航空隊から復員して東大に復学し、さらに卒業後、「人民の中へ!」とばかり栃木の山村で1年間の教師生活を過ごす4年間が描かれる。戦後日本の出発時に青春を過ごした若者の貴重な魂の記録と言ってよい。 旧制高校の自由な空気を吸いながらも、軍国青年として自己を形成した著者(国のために死ぬことを運命づけられていた世代が自己の生を意味あるものに考えようとすれば、それ以外の道は少なかったろう)が、戦後改革の嵐の中で、苦悩しつつ脱皮していく。それが前半だが、ひとつの恋愛の顛末もそこには語られている。ある女性との婚約を著者は破棄してしまうのである。それは今もなお著者の心の傷として残っているようだ。あるいは、これまで戦後の自分史を書こうとしなかったのは、このことが影を落としていたのかもしれない。 しかし、より興味深いのは、本書の後半である。著者が教師として赴任したのは渡良瀬川流域の谷間の村。この村出身の同志とともに、彼は“村の革命”を目指すのだ。昼は教室で子供たちに教え、夜は村の若者たちを集めての夜間農民学校。休日には部落の古老から村の歴史を聞き取る。その話の中には、秩父事件の“暴徒”がこの村まで逃げ延びてきたという伝承もある(著者が後年、秩父困民党の研究に大きな業績を残したのはよく知られたところ)。 著者の代表作のひとつ、『近代国家の出発』(中央公論社「日本の歴史」21巻)には、明治10年代の多摩地方における民権運動のありようがじつに生き生きと描かれている。それを読んだとき私は「これは書斎で得た知識ではないだろう。この著者のどのような体験がこの精彩ある叙述を可能にしたのだろうか」と思ったものだが、今回この山村での著者自身の実践を知るに及んで、その理由がすこしわかった気がする。それにしても、この時代、せっかく戦争に生き残ったというのに、若くして命を落としてしまう者のなんと多かったことか。物資の不足による栄養の欠乏だけでなく、己の理想を実現しようとして我が身を省みず、若い命を燃焼しつくしてしまったのである。 「おれはマルクス主義とその運動の正しさを疑っていない。だが、その実践と自分に残された命との兼ね合いでもがいている」「このまま死んでしまったら、このおれに何が残るというのだろう。なにか大事なもの、生活が自分には欠けているし、そのむなしさにこれ以上じっとしていることができなくなった」。 これは著者とともに村で活動した同村出身の同志・野本貢の病床での悲痛な叫びだ。彼は心臓を病みながら子供たちに深い愛情を注ぎ、教師を始めてわずか9ヶ月で死んでしまう。本書は、この友人へのレクイエム(鎮魂譜)でもある。 #
by suiryutei
| 2005-10-06 10:33
| 文学・書評
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||