新人事制度 大阪での報告①~③
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新聞『思想運動』最新号(6月1日付け)の読者投稿欄である【紙つぶて】に投稿した。 同紙の前5月号に載った『メーデーにちなんで わたしの薦める労働映画この三作』という記事に『家族を想うとき』(ケン・ローチ監督)と『わが青春のフロレンス』(マウロ・ボロニーニ監督』も挙げられているのに嬉しくなって、つい投稿したのである。 本紙前号の「わたしの薦める労働映画この三作」はメーデーの時期にふさわしい好企画だった。 清水雅彦さんが挙げた三作のうちの一つ『家族を想うとき』(ケン・ローチ監督)には私も感動した。ただ、「家族関係も崩壊していく」と書かれていたのにはちょっと不同意である。主人公リッキーが、宅配の勤務中、強盗に襲われて重傷の身なのに、しかし稼がなければとベッドから抜け出して仕事に向かうラストシーンは衝撃的で、もっと深刻な労働災害があの先に待ち受けるのではないかと危惧される。しかし、そんな危機的状況の中で、それまで反目していた息子のセブとはお互いを理解する兆しも覗われた。暗いばかりの映画ではないと私には思われるのだが、どうであろうか。 立野正裕さんが挙げたうちの一作『わが青春のフロレンス』(マウロ・ボロニーニ監督)が日本で公開されたのはちょうど半世紀前、一九七一年の春である。当時フィレンツェはフロレンスと呼ばれるほうが一般的であった。たとえば七二年出版の森信成『唯物論哲学入門』では「人口一〇万~二〇万人くらいのフロレンス」で同じ時期にダビンチやミケランジェロなどの天才が次々輩出したのはなぜかを唯物論の立場から説明している。 そのころ高校二年生だった私は授業の帰りに同作品を吉祥寺の映画館で観た。立野さん推奨のオッタビア・ピッコロ扮するヒロインの連れ合いは煉瓦工だ。ストライキを闘い、社会主義者になっていく。私が初めてベトナム反戦デモに参加し、初めてマルクスの本を開いたのがそのころだから、映画の登場人物たちに素直に共感した。それから半世紀、映画の中の彼らと同じように労働者として生きてくることができたことを喜ぶ。 なお『思想運動』最新号の表紙写真は4月25日に成田空港国際線ロビーで取り組まれたユナイテッド航空解雇撤回要求行動。酔流亭も参加しました。 5面には当日の行動の報告記事も載っています。 ※『伝送便』誌2020年1月号に寄稿した『家族を想うとき』映評です。 #
by suiryutei
| 2021-05-29 08:00
| 映画・TV
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つかぬことだが先日、私は(中略)、大江健三郎と一緒に神田のそば屋で天ぷらそば(海老天二匹入)、わさび芋、それに、そばがきを二つ食って大いに満腹した。 上の文は安岡章太郎が雑誌『文藝』1974年2月号に寄せたものから。 なんでそんな古い文章を酔流亭が知っているかというと、丸谷才一の名著『食通知ったかぶり』にそれが引かれているからである。「『天ぷらそば(海老天二匹入)』なんて書き方はものを食べる喜びがあふれていて嬉しくなるではないか」などと丸谷は喜んでいる。 そうして丸谷はこのあと自分が神田の[藪蕎麦]で酒食した話を続けるのだが、しかし上の安岡文中にある「神田のそば屋」とは[藪蕎麦]ではない。丸谷も 「ここで安岡さんに電話をかけてみると、引用した文章の<神田のそば屋>といふのは別の店であった。」 とことわっている。 丸谷は店名を出していないけれど、この<神田のそば屋>が[まつや]であることは、安岡(と大江)がそばがきを食べていることでも明らかだ。手打ちを謳う蕎麦屋が増えた昨今ならともかく、1970年代に東京の蕎麦屋でそばがきを出す店は滅多になかったろうし、まして神田である。 さてさて酔流亭も昨夕、この神田[まつや]の暖簾をくぐった。そして(海老天二匹入)の天ぷらそばを食べたのである。 天ぷら蕎麦というのは、蕎麦屋の品書きの中で一番値が張るほうのものだから、酔流亭は普段滅多に注文しない。しかし、今は酒が飲めないのである。酔流亭の蕎麦屋酒は、おおよそ徳利2本だ。海老天一匹を徳利1本と考えればいいではないか。 ・・・・朝から、まったく阿呆なこと書いているけれど。 さて、大いに満足して店を出ると、朝から降り続いていた雨がようやく上がりかけている。旧国鉄万世橋駅遺構の煉瓦塀に沿って坂道を上がり、いまやJRとなった御茶ノ水駅の手前に架かる聖橋を渡った。 橋上を歩いて、ふと想い出す。ほぼ半年前、去年の11月末の満月の晩、こうしてやはり聖橋の上を歩いた。あの晩の満月は<ビーバー・ムーン>と呼ばれるものであった。その呼称の由来は、アメリカ先住民がビーバーを捕らえるワナを仕掛ける時季だからというのと、ビーバーが冬のためにダムを作る時季だからという両説あるということは半年前の更新記事に書いた。 あの晩は公孫樹の黄葉が素晴らしかったが、その公孫樹はいま新緑のさなかである。 昨夜は満月の翌日である。その満月は今年一番の大きさ(スーパー・ムーン)で、しかも三年ぶりという皆既月食をともなうものであった。一昨日の晩はもう雲が出ていて月食を観測することはできなかったけれど。 昨夕の月はまだまん丸なはずだが、雨はやんだといえ、雲がたちこめて、月は見えなかった。 半年がずいぶん早く過ぎた気がする。 #
by suiryutei
| 2021-05-28 09:00
| 酒・蕎麦・食関係
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【いてんぜ通信】第2号(6月1日付け)に寄稿した『日本におけるマルクス受容は』という文章は、全文を5日前、22日の更新記事に写してある。 この文章の後半に布施杜生のことをすこし書いた。治安維持法被疑者の弁護で知られる布施辰治弁護士の三男であり、野間宏の小説『暗い絵』の登場人物たちのモデルになった一人だ。 さて【いてんぜ通信】が完成すると、編集発行を手がける三上広昭さん(労働者文学会会員)はいつも酔流亭寄稿ページを別に抜き刷りして渡してくださる。これがありがたい。おかげで酔流亭はその抜き刷りをプリントして周りの友人たちに読んでもらえるのである。 そんなふうに酔流亭の文章を読んでくれた知人が、そのつぎ顔を合わせたとき写真を見せてくれた。布施が卒業した旧制松本高校の旧校舎が記念館のようになっていて、そこに布施が遺した手紙や獄中で詠んだ短歌が展示されている。驚いたことに知人は布施杜生と縁のある人で、以前にその旧校舎を訪ねたとき撮った写真だという。 下の写真、差し出すほうの布施の住所が京都市・・山科・・となっている。一回目に逮捕された後は山科の未決監に入れられたということだから、そこから出した手紙だろうか。二回目に逮捕されてから京都拘置所で獄死するのである。 詩才のゆたかだったことは遺された短歌からも覗われる。 [完全護憲の会]HPに『布施杜生』という詩(ゆき・ゆきえ作)の全文が掲載されています。 #
by suiryutei
| 2021-05-27 08:00
| 文学・書評
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一昨日(24日)のこと。『伝送便』6月号の初校作業に参加し、それから別の会合にも顔を出して(なにしろ居酒屋に行ったって酒が飲めないのであるから真面目に素面で会議でもやっているしかない)、夜遅く帰宅してようやく缶ビールをグビグビ、人心地ついたところで夕刊を開くと、東京都あきる野市にある「深沢家土蔵」のことが大きく載っているではないか。 あの五日市憲法草案が眠っていた蔵である。 五日市憲法草案が千葉卓三郎らによって起草されたのは1881年ごろ。東京経済大学の色川大吉ゼミによってそれが発見されたのは1968年の秋だから、87年もの間この土蔵の中に忘れられていたわけだ。 記事には第一発見者であった新井勝紘・元専修大学教授の言葉も載っている。草案は風呂敷に包まれて竹の文箱に収まっていたという。新井さんは色川ゼミの「牢名主みたいな存在」だったと師の色川大吉さんが話すのをいつか色川さんの講演で聴いたことがある。 その色川大吉さんの教え子さんたちで運営する市民サークル【フォーラム色川】が企画したフィールドワークに参加して深沢家土蔵を酔流亭が訪ねたのは2003年11月であった。 当時はまだブログはやっておらず、<さるさる日記>というレンタル日記に簡単にそのことを書いた。以下に貼り付けておく。 山里の風情変わらず 酔流亭の中学・高校時代、春秋の遠足といえば奥多摩の山歩きと決まっていた。下山して五日市の駅で解散ということが何度かあったと記憶する。 その頃の駅舎は木造でいかにも山の駅という感じだったけれど、現在の五日市駅は見違えるように立派である。しかし、駅の裏手から山に向かって歩き出し数分もたつと、昔のままの山里の風情となった。茅葺きの苔むした農家がまだ残っている。どこも以前は2階で蚕を飼っていたようだ。 五日市憲法草案が発見された深沢家は屋敷はすでに無く、草案が眠っていた土蔵だけが残り、やや小高いところから深沢家累代の墓がそれを見下ろしていた。 (略) 土蔵からの帰路に立ち寄った「深沢小さな美術館」が素敵だった。 (2003年11月24日記) #
by suiryutei
| 2021-05-26 08:27
| 身辺雑記・自然
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都心での会合に参加するときの楽しみは、そのあと仲間と一杯やることである。 相手がいないときは、いつもの蕎麦屋で一人で軽くやるのもいい。 ともかく、そういうことが、利根川の畔から江戸川や荒川を渡ってわざわざ都心まで出て行くときの励みだ。 しかるに今、店で酒が飲めない。すると、外出したら最後、帰宅するまで一滴も飲めないのである。 で、このごろ憶えた悪癖。家を出るとき、軽く一杯だけ飲むのである。 お前、もうアル中か! と呆れられそうだが、なに、ほんの一杯だけですよ。 それが美味い。 酔流亭は家で本腰を入れて酒と対するときは蕎麦猪口大のぐい飲みを使うが、そのモリキリ一杯は出がけには多すぎる。で、この盃で一杯だけ飲むことにしている。 小説家の大西巨人が使っていたものである。何年か前に友人から戴いた。 この盃で飲みながら中野重治全集なんか繙くと、生前の二人の信頼と緊張ともにある関係が思われ、つい厳粛たる気分になるのだが、今は出がけの一杯に使っている。 この分量の酒なら、酒気をマスクがうまく隠してくれるし。 しかし、少量の酒であっても、マスクをしながら早足で歩くと、いくらか呼吸が苦しくなる。 マスクの功罪であろうか。 それにしても酒を出せない飲食店は本当に苦しいだろう。経営者やそこで働く人たちに充分な保障が欠かせない。
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by suiryutei
| 2021-05-25 08:30
| 酒・蕎麦・食関係
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