新人事制度 大阪での報告①~③
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わが町の桜も満開になった。 夜はライトアップされる。 一本桜は周りに風を防いでくれるものがないので今週初めのような強い風に吹かれるとつらいが、満開になったのが風の吹いた後だったのがよかった。 明日は天気が下り坂に向かうとのこと。もうしばらくもってほしい。 #
by suiryutei
| 2021-03-27 08:12
| 身辺雑記・自然
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23日のことだから、もう三日前になる。 JR上野駅の不忍口を出て、京成上野駅の前を通り、右に折れると成人映画の専門館がある。柳 美里さんの小説『JR上野駅公園口』によれば上野公園に屯するホームレスたちはこの映画館を<エロッこ映画館>と呼ぶ由。 公園へ抜ける小道を通って、映画館の前を過ぎれば、目の前が不忍池だ。桜だけでなく、柳の芽吹きも鮮やかである。 この日は午後、神田万世橋に近い蕎麦の[まつや]へも寄った。店の前の一本桜は江戸彼岸桜である。いつもソメイヨシノより早く咲く。散る前に間に合った。 ソメイヨシノもまた見たくなって、神田明神の境内へ。 境内よりも裏の小さな公園の桜のほうが酔流亭としては好ましい感じであったが、写真は撮らなかった。 それから外神田にある『伝送便』事務所へ。神田明神から歩いて10分とかからない。 事務所には『伝送便』誌編集委員のOさんがいた。つい最近、大病で入院したので心配していたのであるが、いつもと変わらない表情だ。一安心する。 この日は『伝送便』誌4月号の初校作業があった。原稿がまだ揃いきらないせいか、作業は早くすんだ。酔流亭は『JR上野駅公園口』の書評のような記事を寄稿する。 今日が再校である。原稿はすべて揃っている・・はずだ。 最後の一枚は、松戸市内、JR常磐線に並行して流れる新坂川沿いのしだれ桜です。先週の土曜日(20日)に撮影したもの。
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by suiryutei
| 2021-03-26 08:00
| 身辺雑記・自然
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[通信・労働者文学]からの転写は今日が最後です。 ご愛読ありがとうございます。 平敷武蕉『沖縄・コロナ禍を生きるー 恐れず侮らず』 平敷さんは『「戦後ゼロ年」の沖縄から』で2017年の労働者文学賞(ルポルタージュ部門)を受賞されて以来、『労文』やこの<通信>誌上に次々と作品を寄稿してこられている。創作に評論に多彩である。本作は基地の島・沖縄の状況に対する怒りを込めた告発のルポとして17年の『「戦後ゼロ年」の・・』に連なる作品だ。もっとも他の創作や評論もどれも状況に対する怒りが込められているけれど。 四年前の労文受賞作は新川善吉という筆名で、冒頭に「・・沖縄の文芸評論家平敷武蕉は・・・」と、ご自身の文章を自分は当人ではないかのように引用されたのは、今となってはご愛嬌だが、すでに評価を得ている文芸評論家が文学賞に敢えて応募されたのも、沖縄の現状を一人でも多くの人に知ってほしい、そして行動してほしいという熱い思いからだろう。その思いを、まず受け止めたいと思う。 そうして、労働者文学会の会員が沖縄にいることの貴重さを思う。去年5月から7月に入るまで新規感染者ゼロを維持してきた沖縄で、7月4日のアメリカ合州国独立記念日を前後して米軍関係者の感染が急増した。彼らが米軍基地の内外で飲食して大騒ぎしたからだ。そもそも「米軍・軍属は地位協定を盾に、日本政府の検疫を受けることなく、出入り自由」(39ページ)なのである。防疫は国民の安全を守るため国家の義務であるはずが、日本政府は沖縄においてはその義務をはなから放棄しているのである。 じつは私も自分のブログ([酔流亭日乗])の7月14日更新記事でこのことを書いた。しかし、私の場合は沖縄から遠く離れたところに居て、報道を手がかりに思いを述べるばかり。沖縄のその生活の現場から平敷さんが声を上げるのとでは、言葉の迫真力が問題にならない。これからも沖縄からの声を届け続けてと、平敷さんにはお願いしたい。そして私たちはその声に応えなくてはならない。私も首都圏で行なわれる辺野古基地反対行動には可能な限り参加している。毎月第一月曜日に市ヶ谷の防衛省前で行なわれる抗議行動などだ。そういう場で労文会員と顔を合わせると嬉しい。たとえば新宿アルタ前から出発するデモでは賛助会員の長島信也さんをよく見かける。彼が撮る写真はレイバーネットなどの媒体に載って人びとを励ますだろう。川柳は共感を呼ぶだろう。 平敷さんは短詩にも造詣が深いようで、本作でも散文の合間に自作の俳句が挿まれ、効果をあげている。しかし、結びに置かれた数作のうちの一つ<組み直す胸のスクラム希望はない>は、そうは詠まないでほしい。安倍―菅政権を許してきた日本人民のふがいなさに絶望したくなるのはわかる。しかし絶望しきらないでほしい。 #
by suiryutei
| 2021-03-25 08:00
| 文学・書評
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昨日の更新記事に続き、雑誌『労働者文学』No.88掲載作品について[通信・労働者文学]に寄せた感想を転写します。 小澤康秀『コロナ禍に思う』 この一年間の状況を概観してくれているので、自身の一年を振り返ることができた。しかし、「・・苦肉の策としてテレワークという働き方の形態を考え出した。」(35ページ)という捉え方は政府・経営側の動きの分析として甘くはなかろうか。テレワークは経営側にとって「苦肉の策」では全然ないし、コロナ禍によって「考え出」されたわけでは全くないからだ。 直近で言っても、ひところの「働き方改革」(私たちから見れば改悪)においてテレワークの推進は高度プロフェッショナル制や裁量労働制の導入と並ぶ、政府・経営側が進めたいことの目玉であった(政府「働き方改革実現会議」の第一回会合は2016年9月、働き方改革関連法の成立は2018年6月)。 私たちが改革ではなく改悪だとする、その問題点は在宅であることによって労働時間の管理が曖昧になり、長時間労働になりかねないことがまず挙げられる。もっと原理的な問題として労働者の個人の領域である家庭に仕事を侵入させていいのか、ということもある。さらに将来の問題として、事業場との繋がりを希薄にしていくことによって、その先に雇用関係そのものを打ち切って委託業者化していくことが目論まれているのではないか。テレワークが進むイギリスでは2005年の統計で、テレワーカーの三分の二は自営業者だ。現在はもっと進んでいるだろう。自営業にすることで労働者保護規制を及ばなくさせることを経営側は考えているのである。ケン・ローチ監督の傑作『家族を想うとき』の主人公の働かされ方に思いを致してほしい。 文学ではなく労働問題のような話になってしまったが(私が書くものに対して、そういう批判があることは承知している)、ここは労働者文学の場なので許されたい。ともかくテレワークはコロナ禍によってようやく出てきたようなものではないことは押さえておいてほしい。そうして厄介なのは、テレワークができる職種なのに、それをさせないことが、労働者に対する使用者の安全配慮義務違反に問われるかもしれないという問題が、これこそはコロナ禍によって新たに登場していることである。だから、私たちとしても、感染からの「緊急避難」としてテレワークを要求せざるをえない場合もあるだろう。それに乗じて経営側はテレワークを進めようとしている。あくまで「緊急避難」であり、感染収束後まで恒常化させてはならない取り組みを私たちは知恵を絞って取り組んでいかなくてはならないと思う。 つぎに、インフルエンザとコロナの死者数を比較してコロナ恐れるに足らずと言わんばかりの議論についてである(36ページ最上段あたり)。致死率は低いとしても新型コロナは入院を必要とする感染者の率が、これは『コロナの時代の僕ら』のパオロ・ジョルダーノの言葉によれば「馬鹿にできないほど高い」(同書43ページ)。「・・短期間で感染者が急増すれば・・ベッドも看護師も不足する事態を招く結果となるだろう。それは医療システムを崩壊させるのに十分なほど大きな人数だ。」 ジョルダーノがこう書いたのは去年3月初めのこと。彼が暮らすイタリアは早くから感染が多かったが、それでも3月1日のイタリアの感染者数はまだ1694人である。だが、事態は世界中で彼が予測したとおりになった。私がこのあと論じようとしている平敷さんの文章では沖縄における医療崩壊の状況が生々しく報告されているではないか。疫病の深刻さを量るにあたって死者数は一つの物差しではある。しかし、それだけで判断することはできない。 #
by suiryutei
| 2021-03-24 08:00
| 文学・書評
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昨日の更新記事でも触れた[通信・労働者文学]は労働者文学会の会報である。最新のNo.291は3月25日付け。暮れに出た雑誌『労働者文学』No.88に掲載された作品の批評を特集してい る。 普段なら合評会を開くところコロナ禍でままならないので、[通信]の誌面を活用しようということである。 酔流亭も3編の作品(ジャンル分けすれば創作ではなくどれも随筆)について思うところを書いた。1編ずつ3回に分けてこのブログに転写していきます。 秋沢陽吉『コロナ騒動渦中に、戦争反対を叫ぶ、戦争はイヤだ!』 秋沢さんの作品の感想を述べる巡り合わせになって思い出すのは、去年1月に行なわれた『労働者文学』No.86の合評会のときのことだ。同号は<何度でも言おう、戦争はイヤだ!!>という特集を組み、秋沢さんは力作エッセイ『戦争絶対反対―戦後生まれの戦争体験』をそこに発表された。 秋沢さんのすぐ隣りに座っていた私は、いつもながらの叙述の力強さに感銘を受けながらも、秋沢さんの論旨への批判を試みた。中野重治が戦後すぐに書いた文章について秋沢さんが「あまりに素朴で単純に過ぎる」と書かれているのにひっかかったのである。中野は単純どころの人ではないと思っているからだが、ここはそのときの論議をむしかえす場ではない。ただ、なつかしいのである。あの合評会を最後に、以降コロナ禍によって労働者文学会は合評会も総会も開けず今日まで来ている。早くコロナ禍を乗り切り、また一堂に会して批判・反論をぶつけ合いたいものだ。 さて今号の秋沢さんの文章は①と②から成り、①でコロナ禍についての秋沢さんの考えが述べられ、②では前No.87に書かれた『学校に行けなかった愛国少女』をさらに掘り下げている。 ②の冒頭に置かれた「疫病より恐ろしいのは戦争なのだ。」という一行に私は強く同感する。100年前のインフルエンザ(スペイン風邪)流行のとき特効薬とされたアスピリンがむしろ被害をひどくしたというのを、秋沢さんのこの文章で知った。明らかにされたのは「日本も含めグローバルに席巻する新自由主義的悪病が、大多数の人の労働環境を破壊し、貧困に追いやっていることだ。」(30ページ)という指摘に強く同感する。 その上で書くのだが、「コロナ騒動」という言い方に私はひっかかるものがある。騒動とは、このあと触れる小澤さんと平敷さんの文章にも出てくるけれども。 なぜひっかかるか。この言葉(騒動)から、実際はたいしたことがないものを大袈裟に騒ぎ立てているというニュアンスを感じ取るからである。はたしてそうか。日本について言えば、初期においては、東京オリ・パラをなんとしてもやりたかったから、じき深刻な事態に進むのが目に見えていたのに、たいしたことがないとばかり政府は取り繕っていたのが実情ではないか。そのために対策が遅れ、人びとの安全衛生が蔑ろにされたのだ。もっと正しく「騒がなくては」ならないときにそれをサボったのだ。WHOが「悪臭芬々」なのはそのとおりだろうが、だからと言って世界で1億615万9883人の感染者と231万7162人の死者を出している(2月8日現在)この疫病は、やはりパンデミックではなかろうか。 ②で強く心に残るのは、仲良くなった朝鮮人少女ジュンサイちゃんとのエピソードだ。特攻の不条理を見抜いていたジュンサイちゃんの聡明さ。しかしそんな彼女に、少女は「あんたが朝鮮人だから・・」と酷い言葉をぶつけてしまう。「宗主国日本と植民地の朝鮮。いわばその国家と国家の関係がこの二人を引き裂いたと考えて間違いないだろう。」(34ページ) 前No.87掲載文では「同学年の男子たちにどなられ、なぐられる朝鮮民族の少年たちの痛みを自分の身に迫る激しい痛みとして受け止めた」少女が、こんな言葉を発してしまったところに植民地支配の罪深さを思わずにおれない。戦争はイヤだ!と叫ぶとき加害と被害の関係を抜きにはできない。加害の側であった日本では、ことにそうだ。そのことを強く考えさせる文章である。そして、酷いことを口にしてしまったことを恥じる思いを持ち続けて彼女は今日も「平和を希求する活動に励んでいる」という結びに励まされる。 #
by suiryutei
| 2021-03-23 08:00
| 文学・書評
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